幸せの象徴のようなもの
私の耳に入るのは時計の針の音と、暖房器具が唸る音。あとは、自分が黙々と食べている、チキンライスの野菜がシャクシャクと音をたてているくらいだろうか。
タッパーに仕舞われた冷たいチキンライスは胡椒と玉ねぎが少々辛く感じる。ボロボロと崩れ落ちる橙色のようなものを大きめのスプーンですくい、口に運べば広がるのは幸福を模した味わい。でも、母の味の方が好きだった。昔のことすぎて、あまり記憶にないのだけども。
そんな私は卵料理が大好きだった。卵焼きに目玉焼き、卵かけご飯はもちろん、おかゆやうどんも卵とじがいいだのと文句をつけていた。特に大好きだったのがオムライスで、小さい頃に何を食べたいか問われたら迷わずオムライスと叫んでいたほどだ。
オムライスは自分が大好きなものしか入っていない。先ほど言った通り、卵は大好きである。ケチャップもいつのまにか大好きなものに入っていた。大きくなるにつれ、何故か鶏肉が好きになっていた。お米や野菜は嫌いではなかったので味付けさえされれば好きになってしまう単純な私だった。小さい頃の私に好きな食べ物を聞けば、その日がお寿司や焼肉やケーキではない限り、オムライスと大きな声で答えるに違いない。幸福の象徴といえばオムライスであり、あとは当時のお約束だった大根のお味噌汁がつけば完璧だった。
けれど、今となってはどうだろう。無言でチキンライスを口に含めば味付けがダメだったなどと頭を抱える始末だ。幸せの象徴を作るのはとても難しいことだったのかと、何も話さない象徴に似ている何かに問いかけているような気分になる。私は何をしているのだろう。