猫とワンピース
ピン、ポーン。
インターホンの呼び鈴が、一度だけ。
足音もなく、ノックもなく。
あまりにも自然に町の音に馴染んで、溶けた。
「……ん?」
それに気づいたのは数分後のことだった。
――なにか、音が、聞こえなかったか?
「やっべ。またかよ」
僕は声を落とした。髪にくしゃりと手を差し込む。
やや癖のある柔らかな髪の感触を確かめる。
最近こんなことがよく起こる。幻聴だろうか、空耳だろうか。
それとも本当に、誰かが呼び鈴を鳴らしていったというのだろうか。
正午を少し過ぎたリビングで、僕は真っ白なソファに身を預けていた。
思った以上にレポートに時間を費やしてしまい、昨夜は十分な睡眠がとれなかった。
今年購入したばかりの、僕のお気に入りのソファ。
柔らかすぎず硬すぎないクッション。
足元では黒猫のミツが眠っている。
特に変わりのない、穏やかな日常生活。
「なにかあった?」
背後から柔らかな声。キシ、とフローリングの軋む音。
振り返ると、白いワンピースを身にまとった少女が心配そうに微笑んでいる。
窓から差し込む光が彼女を照らす。
「……何もないよ」
いつものように僕は笑って、いつものように少女に背を向ける。
「本当に?」
だけど彼女はそれを許さなかった。
「嘘言っちゃダメだよ。何かあったでしょ」
彼女は僕の顔を覗き込む。ブラウンの瞳。
きれいな。
透きとおる。
僕の頭の中まで、見透かされたような。
頭の中が、ぐらりと。
真っ白に。
「……大丈夫……?」
彼女の右手が、僕の髪をくしゃりと撫でる。
ふわりと微笑んで、もう一度僕と視線を合わせる。
「私に嘘吐くなんて、傷つくなぁ」
そう言って、悪戯っぽく笑う。
彼女の指先は、まだ僕の髪に触れていた。
親指と人差し指で、僕の前髪を一束掴んで、パラリと解く。
「……何もないよ」
「本当に?」
彼女はまだ僕の髪で遊ぶ。指先で髪をくるくると捻って、親指の腹でするりとなぞる。
今日の彼女は何か変だ。
「で、何があったの?」
彼女は再び僕に問いかける。
――言わないほうがいいような、そんな気がした。
けれど、彼女はきっとそれを許さない。
「……ちょっと前に客が来たんだけど、俺がそれに気づかなかっただけだよ」
「なるほど。注意力散漫だね」
からかうように言うので、僕も負けずに口ごたえをする。
「はぁ?昨日はレポートであんま寝れな……」
その瞬間。
ちゅ、と。
唇を、塞がれた。
彼女の右手は、まだ僕の髪に触れていて。
触れるだけのキスは、気がついたら終わっていた。
「……」
何も考えることができなくて、でも何か喋らないといけない衝撃に駆られて、口を開きかけては閉じることを繰り返す。
ソファから立ち上がる。
その際に足もとの黒猫にも触れてしまったのだけれど、ミツは特に気にするようでもなく眠り続けている。
「なんで?」
もう僕の髪には、何も触れていない。
そして、彼女の姿も見えなくなっていた。
ピン、ポーン。
本日二度目の呼び鈴が、響いて消えた。
足音もなく、ノックもなく。
ピン、ポーン。
「……なんだっていうんだ」
呼び鈴が、響いて。
僕の記憶を、刻む。
「どちらさまですか」
ドアを開ける。
「やっと出た、バカ」
もうすっかり見慣れてしまったワンピース姿が、僕の瞳に映る。
「やっぱり君か」
「もっと早く気付くと思ったのに」
少女の長い髪が風に揺れて、さらさらと流れる。
「……行くの?」
「うん。最後は、見送ってほしかったの」
彼女は笑った。
「本当は行きたくないくせに」
僕がそう言うと、彼女は小さく「賭けをしていたの」とつぶやいた。
「賭け?」
「そう」
少女はゆっくりと僕に背を向ける。
「この家を出るときは、玄関のチャイムを鳴らすの。そしてあなたに送り出してもらう。……でも、あなたがそれに気づかなければ私の勝ち。まだ家を出なくていい」
「……俺が勝ったってことか」
彼女がこくりと頷いたのが、後ろ姿でもわかった。
「あなたに……触れてみたいって思ってた。今日はそれが叶ったから」
だからさよならするの、と言った彼女の声は震えていた。
「もう、行くね」
彼女は振り向いて、僕に笑顔を向ける。
「ありがとう、楽しかった」
そう言って、手を振る。
僕の髪に触れた、小さな手だ。
白くて細いその手に、僕は触れたいと思った。
けれどそれは叶わなかった。
彼女は、シャボン玉がはじけたように、パチンと消えた。
「……なんなんだよ、もう」
僕は。
彼女を止めることも、笑顔で見送ることもできずに。
ただ呆然と、その様を見ていた。
部屋に戻り、ソファに倒れこむ。
何も考えないようにしても、どうしても彼女の顔が浮かぶ。
どうして僕は彼女に何も言ってやることができなかったんだろう。
せめて、笑顔で見送ってやることくらいはできたはずだ。
……いや、引き留めることだってできた。
唇に触れる。
彼女の感触を思い出す。
幽霊だというのに、彼女は物に触れることができた。
……そういえば、僕は彼女の名前すら知らない。
僕が彼女の姿を初めて見たのは、3週間前のことだった。
学校から帰宅し、お気に入りのソファの上で、ぼんやりとテレビを眺めていた。
黒猫のミツは僕の膝の上ですやすやと眠っている。
ミツの柔らかな毛並みに触れていると、僕も眠くなってきた。テレビを消し、目を閉じる。
夢の世界の入り口に立った時だった。
「かわいい」
誰もいないはずの空間に、僕以外の者の声が響いた。
「……え?」
女の声だった。
――幽霊なんて、まさか。
今聞こえた声を全力で否定する。
僕は今まで幽霊を見たこともなければ、その存在にも否定的だった。
「ごめんなさい」
もう一度はっきりと聞こえたその声に、僕はどうしていいかわからず固まってしまう。
「怖いよね、ごめんなさい。声を出すつもりはなかったの。ついうっかりしてしまって……その、本当に、ごめんなさい」
幽霊の存在には気づかないふりをしようと思っていたけれど、あまりにも申し訳なさそうな声に、僕はつい声の主を探してしまった。
僕の隣には、白いワンピースを着た、長い髪の少女が座っていた。下を向いたその横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。不思議と怖くはなかった。
彼女の膝の上で、ミツがごろごろと喉を鳴らしている。
「猫、好きなの?」
問いかけると、下を向いたまま小さく頷いた。
その日から、僕と彼女と黒猫の、奇妙な同居生活が始まったのだった。
彼女がいなくなってしまったこの部屋を見渡す。こんなに広かっただろうか。
先ほどまで眠っていたミツが、僕の膝に飛び乗って、ニャアと鳴いた。
こいつが自ら僕の膝に乗るなんて、久しぶりのことだった。いつもは、……ここ最近は、彼女の膝の上がお気に入りだったから。
「ミツ……おまえも、さみしい?」
問いかけて、気づく。
「……俺、さみしいんだ」
ああ、僕は気付いてしまった。
会いたいのだ。
彼女に、会いたい。
いてもたってもいられなくなって、僕は立ち上がる。ミツは驚いて床へ飛び降りる。
「ごめんな」
もう彼女は消えてしまった。
そんなことはわかっていた。
けれど僕は、彼女と別れた玄関に向かう。
そのときだった。
ピン、ポーン。
インターホンの呼び鈴が、僕の部屋に響いた。
僕は急いでドアを開ける。その音が、消えてしまう前に。