番外編3-1
【一一月二四日】
コトミが目を覚ましたのは、昼近くになってからだった。
ぼんやりした頭を振りながら起き上がると、裸足のままドアに向かう。
「おはよう。ちょっと寝過ごしちゃったよ」
ドアが開くと同時に百点満点の笑顔で告げるが、返事はなかった。
居間は遮光カーテンから漏れる僅かな光だけの薄暗い空間になっていた。
「あ、そうか。今日はボク一人だったんだ」
呟いて、ぶるるっと肩を震わせた。
秋も終わり近づき、暖房が入っていないと肌寒い季節になりつつある。
一旦自室に戻って、厚手のトレーナーに着替えた。
この週末は久しぶりの三連休。
アンズは実家にティセットを取りに戻った。
ここしばらく安物を使っていたが、ようやく注文していた物が届いたらしい。
「安物のティセットでは、折角のお茶が台無しですもの」
以前使っていたティセットは、サラリーマンの平均年収くらいの値がした。
とてもチームのお金で替わりは用意できない。
ソネザキは、前の学区の友人と会うらしい。
「冬休みにあっちの学区に顔出す予定なんだけど。その準備みたいなもんだよ」
陰りのない顔でそう言っていたところを見ると、演習の日でわだかまりは解消されたのだろう。
ドルフィーナは三ヶ月に一回の定期メンテだ。
「自分と同じ顔が大量に集まるのだぞ。居るだけで気分が悪くなる。憂鬱なイベントだ」
珍しく溜息を混じらせながらコメントしていた。
気乗りがしないのは明らかだ。
「みんながいないと、やっぱり寂しいね」
コトミが誰にともなく呟いた。
普段、みんなで食事をする居間のテーブルには、トーストが一枚。
どうにも食欲がわかない。
いつもなら。
「ちょっと、そのプチトマトはわたくしの物ですのよ」
「なんだ? 名前でも書いてあるのか?」
「なんですの、その言い草は! 機械人形の分際で!」
「お前こそ、何を言うか! お子様の分際で!」
「もう、止めなよ。トマトで喧嘩なんて。コトミも何か言ってあげてよ」
情景をリアルに思い浮かべ、コトミがにんまりと笑う。
が、一瞬後にはそのイメージも消え去り、言いようのない虚無感を覚える。
「しょうがないや。今日は久しぶりに一人で遊びに行ってみよっかな」
瞬く間にトーストを片付けると、腰を上げた。
薄暗い部屋で一人過ごすよりは、なんとなく雑踏を歩いている方がマシだろう。
* * *
ティシャツにデニムのパンツ。
秋用のジャケットを羽織って部屋を出た。
向かったのはドーム中央にある七階建てのショッピングモール。
店頭に飾られた小物を見たり、マネキンの立つショーウインドウを覗いたり、特に目的もなく歩く。
午後三時を過ぎ軽食を、と地下のファーストフードエリアに向かおうとした時だった。
「あら、コトミじゃない」
後ろからの声に、振り返った。
切れ長の瞳が印象的な美少女だった。
短く整えた髪に、高等部最優秀生徒を示す銀の髪飾りが輝いている。
「あ、モガミ先輩!」
「久しぶりね。一人?」
「うん、今日はみんないないから」
「そう」
優しい微笑、おそらくはクラスメイトが見たこともないような、を浮かべながらコトミの頭をそっと撫でる。
「モガミ先輩はなんでここに?」
「暇潰し、かな。なんとなく歩いてただけよ」
「じゃあ、ボクと一緒だね」
「一緒ですね、でしょ」
「あはは。どうにも敬語は解んなくて」
「まあ、いいわ。慣れない敬語を使われても、こっちが困るし」
えへへと嬉しそうに笑うコトミにつられて、ふふふと声を出してしまう。
そんな自分に気付いて、小さく咳払い。
「少しお茶でもと思ってたの。一緒にどう? 奢ってあげるわよ」
「え、でも、悪いし」
「コトミのチームじゃ、お小遣いに余裕なんてないでしょ。私は嫌ってくらい貰ってるから」
誰が聞いても嫌味な台詞をさらりと口にする。
モガミは優秀だ。
三十年に一度の逸材と称され、事実、指揮した作戦の勝率は八十パーセント。
文句なしの最優秀生徒だ。
通称、不敗のモガミ。
陰では、彼女の歪みきった人間性を指して腐敗のモガミと揶揄されている。
「ホントにいいのかな」
「後輩なんだから、先輩の好意には甘えるものよ」
そう言うとコトミの手を掴んで、強引に歩き始める。
「じゃあ、ご馳走になるね。ありがと」
そこまでされると無下に断る事なんてできるはずがない。
「そうやって素直に可愛くしてればいいの」
二人が入ったのは地下にある喫茶店だった。
ケーキ一個五百ポイントはするという、学区では最高級の部類に入る。
緊張するコトミを嬉しそうに見ながら、モガミは紅茶を二つとケーキを六つ注文した。
「え、そんなに」
「育ち盛りなんだから、沢山食べなきゃダメよ。どうせ普段はロクなもん食べてないんでしょ」
「そんなことないよ。貧乏ながらも皆で工夫して食べてるから」
「ふうん。どんなの食べてるの?」
「昨日は特売のキャベツを炒めて食べたよ」
「キャベツって、丸っこいアレ?」
「うん」
「他には?」
「お味噌汁とご飯だよ」
「そ、そう」
あまりに慎ましいヘルシーメニューに思わず絶句。
同時に他のメンバーに対し「コトミにそんな物を食べさせるなんて」と理不尽な憤りを抱く。
「でも、お米が毎日食べられるだけでも幸せだと思うんだ」
「ん、どういう意味?」
「ボクの家は貧乏だったから、子供の頃は合成ポテトを茹でて食べてたんだよ」
合成ポテトと言えば家畜の餌。人間が食べる物じゃない。
モガミは自身の常識から外れた話に、どう答えていいか解らなくなる。
そんなモガミに、コトミは相変わらずの笑顔でこう続けた。
「毎日お米が食べられるなんて、やっぱり幸せだよね」
「そ、そうね。ところで、コトミの両親ってどんな人なの?」
我が子の食事を合成ポテトで済ませる人間、その素性が気になった。
「いないよ。ボクらは孤児だったんだ」
「孤児?」
「でも、それならちゃんとした施設があるでしょ」
決して万全ではないが、それなりに充実した福祉制度がある。
家畜の餌を食べる道理はない。
「ダメなんだって。ボク達はそういうのに入れないって」
「どういう意味? どういう意味よ、それ?」
「説明してはくれたんだけど、良く解らなかったんだ。子供だしね。でも、役所の親切な人が住む所を用意してくれて、寄付とかポケットマネーで毎月生活費もくれて。それでどうにか生きてこれたんだ。もう、感謝しても仕切れないくらいだよ」
と、そこで言葉を止めて首を傾げた。
「先輩、どうしたの?」
「なんでもないわよ。目にゴミが入っただけ。そんなことより、ケーキ食べなさい、ケーキ。ここの、それなりに美味しいから」
「うん、じゃあ、頂きます」
屈託のない表情で両手を合わせると、運ばれてきたケーキを頬張った。
ほっぺを精一杯大きくして、もふもふと食べるコトミは実に幸せそうだ。
「で、今日は珍しく一人だったわね。普段は、ちっこいのと歩いてるのに」
モガミが休日にコトミを見かけたのは、今日が初めてではない。
しかし、いつもはアンズが隣にべったりくっついていた。
「アンズちゃんは実家に戻ってるんだ」
「ふうん」
「でね、ソネザキは前の学区の友人と会うって」
「そう」
「それとね、ドルフィーナは定期メンテなんだよ」
「あっそ」
愛想のないリアクションにも、コトミは嬉しそうな表情は変わらない。
その天真爛漫な様子に、モガミはもう少し話を広げるべきかと柄にもない事を考えてしまう。
「あ、ごめん。ボクばっかり喋って。つまんないよね」
「そうでもないわよ。コトミが嬉しそうに話してるのを見るのは悪くないから」
「先輩のルームメイトはどうしてるの?」
「ん」
言葉を詰まらせた。
今日は休日、ルームメイトは部屋にいるはずだ。
だが、モガミにはどうでもいい事だった。
比較的使い勝手の良い駒。それ以上の価値は認めていない。
彼女達が休日に何をしようが興味がないし、また彼女達もモガミに近づこうとはしない。
「みんな出かけてるの。私は用事があったから行かなかっただけよ」
と、口にしてミスに気付いた。
用があったのであれば、モールで暇潰しはおかしい。
表情を崩さないまま、整合性を合わせるべく次の嘘を準備するが。
「そうなんだ」
コトミは実にコトミらしく鵜呑みする。
「そう言えば、さっきボク達って言ってたわね。兄弟がいるの?」
モガミがさりげなく話題を変えた。
「うん。双子の妹がいるんだ。コノハって言うんだよ」
そう言いながら、ポケットから携帯端末を取り出した。
「右がボク、左がコノハなんだよ。そっくりでしょ」
表示されている画像には全く同じ顔が二つ並んでいた。
髪型も同じポニーテール。ご丁寧にポーズまで合わせてある。
合成写真かと思ってしまうくらいだ。
「性格は全然違うんだよ。すっごく几帳面なんだ」
「そう」
流石のモガミも驚いて画面を見つめていたが、ある違和感に気付いた。
コトミの目線が微かにずれている。しかも右だけ。
モガミほどの人間が注意しなければ解らないレベルではあるが。
画面から実物のコトミに視線を移す。
「ん? なに? ボクの顔になにかついてる?」
生クリームを口の周りについている。たっぷりと。
「アンタ、右目の調子が悪いんじゃない?」
ソネザキの問いに、コトミが珍しく顔を曇らせた。
「そ、そんなことないよ。いつもとかわらないよ」
「隠さなくていいの。軍人にとって目は大切よ。誰にも言わないから」
もちろん嘘。
不調を訴えれば無理やりにでも医者に引っ張っていくつもりだった。
うぅぅんとしばらく唸っていたコトミだが、やがて観念したように力ない笑みを見せた。
「実はボク、右目が見えないんだ」
モガミ、絶句。
「子供の頃さ、怪我をしちゃって」
「見えないってそれじゃ」
「うん。だから銃が上手く使えないんだ。みんなには内緒にしといてね」
「そうじゃなくて……」
常人の半分の視界。実戦では死に繋がる致命的な問題だ。
現に学区では視力規定があり、著しく下回る視力は矯正が義務化されている。
「少しお金は掛かるけど、義眼にしたらどう?」
声のトーンを落として提案する。
少々高価ではあるが、物を見られる機械の眼は普及している。
「アンズちゃんも入学前に同じことを言ってくれたけど」
アンズはプレゼントしてくれるとまで申し出てくれた。
「この目は不便だけど、ボクの中では大事な物なんだ」
「大事な物?」
「うん、大切な絆だから」
要領の得ない答えだったが、モガミは言及を諦めた。
自分が踏み込んで良い問題ではない。そのくらいの分別はあるつもりだ。
ふうっと大きく息を吐くと、優しい表情を作った。
「好きにすればいいんじゃない。コトミなら左目だけでも、他の生徒より何倍も優秀なんだし」
「そうかな」
「私が保証してあげる。百年に一度の逸材と言われてる私が保証してあげるんだから」
「うん。ありがと」
曇りのない表情に戻ったコトミの頭をモガミが撫でた。
* * *
ゆっくりお茶を楽しんだ後、店を出た。
「私はそろそろ戻らないといけないから」
時計を確認しながらモガミが告げた。
来週の演習に向けて、ブリーフィングがあるのだ。
「今日はありがと。今度はボクが美味しい物を奢るから」
「期待しないで待ってるわ」
よしよしと頭を撫でる。
「じゃあね」
「うん」
元気のない返事にモガミが首を傾げた。
「どうしたの?」
「ううん、別になんでもないよ」
「ひょっとして私とサヨナラするのが寂しい?」
期待を込めつつも、冗談に聞こえるように言ってみる。
が、コトミは意外にもコクンと頷いた。
「え、ちょっと。な、なによ、それ」
モガミにしては珍しく狼狽を見せた。
「なんて、冗談だよ。ちょっと甘えてみただけ」
力なく笑うコトミ。その顔と言葉にモガミはピンときた。
「解った。寂しいんでしょ。寮に誰もいなくて」
「うん。家ではコノハがいたし、普段は誰かがいるから。一人ってあんまりなかったから」
「まったく、しょうがないわね」
大袈裟に溜息を一つ。
「いいわ。今日はコトミの部屋に泊まってあげる」
「え? いいの?」
途端に明るい顔になったが、
「でも、用事があるんじゃ……」
と声のトーンが下がる。
「いいの。大した用じゃないから。連絡を入れれば大丈夫よ」
演習のブリーフィングとコトミの寂しさを紛らわしてやる事。
どう考えても後者の方が重要だ。
「じゃあ、ちょっと待ってなさい。連絡してくるから。あと夕食の材料も買っていかないとね」
「あ、でも昨日のキャベツが残ってるし」
「私、キャベツ嫌いなの」
「あう」
「そんな顔しないの。私が美味しい物を作ってあげるから」
優しく微笑むと携帯端末を手に少し離れて、寮の部屋へコール。
「あ、ナチ。私よ」
数秒前の柔らかい口調とは対照的な冷め切った声で告げる。
「今日のブリーフィングだけど、出れなくなったから。理由? 色々よ」
大きく息をついた。
「あのね。私は貴方と下らない議論してるほど暇じゃないの。今の貴方が私に言うべき言葉は、一つだけでしょ。はぁ、そんなのも解らないなんて無能の極みね。了解とだけ言ってればいいの。ほら、早く言いなさいよ」
もう一つ溜息をこぼす。
「なに? 私を怒らせたいの? 了解とだけ言ってればいいの。そう、それでいいの」
端末の通話を切ると、「まったく、使えないやつね」と残酷なコメントを口にした。
「あの、モガミ先輩。ホントに良かったの?」
「もちろんよ。観たくもない映画の鑑賞会するだけだったから」
不機嫌な顔を一転させて、さらさらと嘘をつく。
「さ、食材を買ってコトミの部屋にいこっか」
「うん」
素直に頷くコトミを連れて、食料品のフロアに向かった。
* * *
「はふぅ、お腹一杯だよ」
「残った分は冷蔵庫にしまっておくわね」
モガミは料理の腕もなかなかの物だ。
人格以外は完璧に近い人間と言える。
和食が食べたいというコトミのリクエストに応え、焼き魚と野菜の煮物と天ぷら。
それに定番のダシ巻きと漬物を添えた。後はお味噌汁。
「さてっと」
「あ、ボクがやるよ」
片付けに向かおうとするモガミにコトミが慌てて声を上げる。
「コトミはゆっくりしてていいから」
「でも、全部作ってもらったし、片付けくらいしないと」
「じゃあ、手伝ってくれる? 二人でなら早く終わるし」
「うん。任せてよ」
手際よく皿を洗うモガミ。それに負けじと濯いで水切りをするコトミ。
効率の良い分業で、あっと言う間に終わった。
「じゃあ、お風呂の準備をしてくるね」
とてとてと風呂場に向かうコトミを見ながら、モガミはなんとなく緩んだ顔をしている自分に気付く。
「なんか変な気分。妹ってこんな感じなのかも」
モガミは一人っ子。
財閥の娘であるアンズや軍高官の孫であるソネザキほどではないが、それなりに恵まれた環境で育ってはいる。
拭いた食器を食器棚に直していると、コトミが戻ってきた。
「もうすぐ沸くと思うから」
「じゃあ、一緒に入る?」
「うん」




