【08-03】
くらり。小柄なアンズの身体が揺れた。そのまま後ろに倒れていく。
「こんなの有り得ません。有り得ませんわ」
驚愕とペイント液に染まった顔で小さく呟く。
彼女の銃はまだホルスターに残ったままだった。
* * *
コトミはいきなり地面に叩きつけられた。
状況を把握しようと首を後ろに向ける。
細い身体が背中に抱きついていた。後ろから押し倒されたのだ。
立ち上がろうとするが、がっちり捉えられた状態ではそれも難しい。
なんとか振り解こうともがく。
早く行かなければならないのに。
「離して!」
焦りがコトミらしくない言葉になった。
すがり付いていた少女が顔を上げる。モガミだ。
「離してってば!」
「いい加減にしろ! このバカ!」
一喝に、コトミの動きが止まった。
その隙をモガミが見逃すはずがない。
掴んでいた手を離すと、あっという間にコトミの上に乗りかかる。
そのまま腕を振り上げ、容赦なく振り下ろした。
肌を打ち付ける鈍い音。平手ではなく、拳だった。
「ちょっとは冷静になった?」
痛みと衝撃に目を丸くしながらコトミが頷く。
「ここで貴方が飛び出しても、狙い撃ちされるだけよ。解った? 返事は?」
「うん」
「はい、でしょ。もう一回」
「はい」
「よし。じゃあ、歯を食いしばって」
ぎゅっとコトミが噛み合わせたのを確認してから、もう一度頬を殴る。
「ううっ……痛い」
「その程度で済んだら安いもんでしょ。まったく」
「先輩、どうして二回も殴ったんですか?」
二人の前に駆け込んできたソネザキが、抱えてきた盾を壁にして尋ねる。
「殴り心地が良かったからよ。決まってるでしょ」
太陽は東から昇るの。くらい当然な口調だった。
その見事な主張にソネザキが言葉を失う。
「一発目は熱くなって飛び出したことに対して、二発目は迂闊な行動が部隊を危険に晒すことになるって戒め、だよね」
ぷっくりと腫れた頬を摩りながら、コトミが笑みを浮かべる。
いつものコトミに戻っていた。
「ふん、別に深い意味なんてないわ。それよりもう一発入れたら、ゆっくり眠れるわよ。さ、歯を食いしばって」
「ちょっと待ってください」
流石にソネザキが割って入る。
「冗談に決まってるでしょ。面白かったでしょ。ほら、笑いなさいよ」
「あはは」
「へらへら笑って、バカじゃないの?」
モガミという人間の根幹が見えた気がした。
意地悪で気ままでシニカル。しかも人より優れた頭脳と抜き出た運動能力を持っているのが、一層質が悪い。
こういう人間とは、なるべく付き合いたくない。
「こんな後輩に後を任せるなんて、すごく不安だわ」
コトミの上からどきながら、大袈裟に溜息をつく。
自由になったコトミも身体を起こす。と、大きな瞳を見開いた。
モガミの背中がペイント液で真っ赤に染まっていた。
「それ……」
「ああ、当たっちゃったのよ。まったくついてないわ。このペイント液って、変な臭いがするから嫌いなの」
「ボクのせいで、ごめんなさい」
うな垂れるコトミの額を、ぴんとモガミの指が弾く。
「身を挺して助けた。なんて思ってるんじゃないでしょうね」
「でも」
「自惚れないで、私が出たタイミングと重なったからぶつかったの。そのせいで流れ弾に当たっただけ。なに? なにがおかしいの?」
余りに理に適った言い分。
苦笑してしまったソネザキを、キッと睨みつける。
「不本意だけど私はリタイアだから、後は好きにすればいいわ」
立ち上がって、服の埃をパタパタと払う。
これほどペイント液が付着すれば、意識はかなりぼんやりしているはずだ。
にも拘らず、平静に振舞おうとするモガミの精神力に、ソネザキは素直に感嘆した。
捕縛後、彼女がその気になれば、油断を衝いて逃げるなんて造作も無かっただろう。
もし、死にもの狂いで暴れれば、大きな被害を被っていたかも知れない。
「コトミに助けられたわけか」
「今頃、気付いたの? まったく鈍い子ね」
心底呆れた口調。
「鈍い貴方に、一つだけ助言してあげる。任務を果たすには、時に冷酷な決断も必要よ。どんな時でも目的を忘れちゃダメ。広い視野で最短距離を探すの。いい?」
漠然とした言い方に、ソネザキは真意を図りかね首を捻る。
「私の助言は、それだけ。これで負けるようなら、貴方もそこらのクズと一緒よ」
「はあ、ありがとうございます」
一応は礼を述べる。
「じゃあ、私は行くわ。えっと、コトミだったわよね」
立ち去ろうとして、足を止めた。
少しわざとらしい仕草だ。
「うん」
「うんじゃなくて、はいでしょ。まったく」
「はい。だよね。どうも敬語は慣れなくて」
えへへと笑うコトミに、モガミが僅かに頬を緩める。
と、手を伸ばし、よしよしと頭を撫でた。
意外過ぎる行動にソネザキはただ目を丸くし、コトミの方は嬉しそうに目を細める。
「じゃ、せいぜい頑張るのね」
そう言い残すと、踵を返し、歩き出す。
二人が見送る中、振り返ることもなく、ビルの陰に消えていった。
「良い先輩だね」
「え?」
「ちょっと怖いところもあるけど、優しくて」
素直に同意できず、返事に困る。
「素直な心で接すれば、人間関係は良好になる。我らを見習って、少しは心掛けるのだな」
いつの間にか、匍匐前進で這い寄っていたオートマトンが告げる。
姿勢は下からだが、何故か心地良いほどの上から目線だ。
「素朴な質問いいかな?」
ソネザキが小さく挙手。
「なんだ?」
「我らって、お前も入ってるの?」
「当たり前であろ」
「そういう部分だけは、見習いたいよ。ホントにさ」
「何故かとても失礼な意味に聞こえるぞ」
「気のせいだよ。それよりも次の手を考えないとね」
「気のせいか、気のせいなのか。気のせいでいいのか」
ぶつぶつと繰り返すドルフィーナを横目に、インカムで残ったクラスメイトに指示を出す。
「狙撃に注意しつつ、東の崩れたビルに退避して。部隊を再編成して、アンズの救出に向かおう」
「アンズちゃん、無事でいてくれるといいけど」
「所詮は演習だ。気にする必要はないであろ」
「それを言ったら元も子もないけどね」
「いつの間にか、狙撃が止んだな」
「弾を撃ちつくしたか、あるいは」
「他の方法でボク達を仕留める気なのか、だね」
「どっちにしろ、今回の演習は意地悪な趣向だよ。まったく」
念の為に一つの盾で器用に身を隠しながら、三人は退避場所に向かった。




