【01-02】
へぶしっ。
と、奇跡はあっさり起こった。
もみ合っていた三人の動きが止まる。
「コトミ?」
「コトミさん?」
へぶしっ。へぶしっ。
続いて二回、コトミの頭が前後に揺れる。
そして絶望的な言葉が。
「ばだびづが……」
「うわ! ちょっと!」
「ひぃ! なんて事を!」
素直に身体を離そうとするソネザキに対し、アンズ逃げ出したい衝動をぐっと抑える。
「でも、わだぐじは平気でずわ。愛がありばずもの。はだみずぐらい」
しかし明らかなやせ我慢。その声は涙で湿っている。
「いや、こんなトコで愛は関係ないから」
「何をおっしゃるのです。愛とは最も素晴らしい物なのです」
へぶしっ。
至上の愛を語るアンズに、無情な答えを返すコトミ。
流石のアンズも黙り込んでしまった。
「とりあえず、着替えようか」
ソネザキの建設的な案は賛成二、無効票一で即座に可決された。
* * *
「ソネザキさん、確かに貴方の方が女性らしい身体つきであるのは認めましょう」
服を替えて部屋を出たソネザキを迎えたのは、仏頂面のアンズだった。
頬を倍くらいに膨らまし、力一杯不満をアピールしている。
確かにソネザキはスタイル的に、かなり恵まれた部類に入る。
身体のラインもまだ子供のままのアンズに比べるとその差は大きい。
「しかし、それを利用するのは卑怯だと申し上げているのです」
「はあ」
気の抜けた返事をしつつ、どこから訂正すべきなのか考える。
「正々堂々、人間としての中身で勝負すべきだと思いませんか。思うでしょう。思うべきです。思いなさい」
その論は相変わらず他者の介入を許さない。
直情的で身勝手、ワガママで他人の言葉に耳を貸さない。
良家のお嬢様として勝手気ままに育ったのが解る。
アンズの性格はと問えば、そんな答えが確実に返ってくるだろう。
確かにアンズの言動は恐ろしい程に、ありのままの感情を見せる。
しかし、しかしだ。
「ソネザキさん、聞いています?」
口をつぐむソネザキを見上げる。その瞳に浮かんでいるのは不安。
「ごめん。聞いてなかった」
「もう、いいですわ」
素っ気無いソネザキの返事に、大袈裟に溜息を溢した。
それから、ぷいっと反対側に顔を向け。
「わたくしも少し言葉が過ぎました。どう思われようと構いませんが、わたくしが決してソネザキさんを疎んでいるわけではない、という点だけは認識しておいて下さい」
「解ってるって」
「ただ、わたくしにとって、コトミさんは、その、少し特別な存在なのです」
「初等部からの、掛け替えのない大切な親友だっけ」
視線をそらしたまま、小さく首を縦に動かす。
「まあ、誤解を招いた部分があった点については謝るよ」
その言葉にアンズが顔を戻す。
緊張が抜けて、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「双方が互いに非を認めたという事で、この件については以後なかったと致しましょう」
アンズはコミュニケーションが苦手なのだ。
先ほどの騒ぎに対する謝罪、ただ一言「ごめんなさい」が言えず、随分と湾曲した物言いになってしまう。
共同生活を送るようになって、約半年。
ソネザキはそんなアンズの性格を十分に把握している。
「落着した所で、直面している問題を片付けないとね」
「そうですわね。わたくし達には時間の制限がありますもの」
現在、時計は午前七時十七分。
効率的に動かないといけない。
ソネザキが口元に手を当てて、目を閉じる。
思考を巡らせる時のポーズだ。
戦術の基本は集中と機動。
コトミが髪を整えて部屋から戻るのは、約五分後と予測する。
それまでに投入できる全ての戦力を確保しつつ、先行で下準備を開始すべき。
目を開けた。
ちらりと「ど」のドアを見る。一向に出てくる気配はない。
「相変わらず役立たずですわ」
諸手を挙げて賛成したくなる意見をアンズが口にする。
「アンズ、コトミが出てくるまでに糧食の準備をお願い。私はあのバカを起こしてくるから」
「おおよそ五分くらいですわね。任せておいてください」
「では、状況開始」
「了解しました。状況を開始します」
向かい合って姿勢を正し、敬礼を交わした。
何かを始める時、それが仲間内の他愛ない物であっても、半ば形式的にこうしてしまう。
これは彼女達だけでなく、学区に住む全員の奇妙な習性だ。
キッチンスペースに向かうアンズを見送りながら、開かずの扉と化している「ど」のドアに移動する。
いきなり開けるのはマナーに反する。
結果が予測できても、それなりに礼節を持って行動しなければいけない。
防弾素材でできた分厚いドアをノックする。やはり返事はない。
次のフェーズに移行。どんどんと力一杯叩く。
しかし帰ってくるのは沈黙。
仕方なく最終フェーズに突入。
半歩下がって今度は足を使ってノック、平たく言うと蹴り飛ばす。
それでもリアクションはない。
「まったく、毎朝毎朝」
小さく愚痴りながら、ドアの隅に付けられたコンソールに強制開錠のパスワードを打ち込む。
圧縮空気の音を立てて、ようやく開いた。
相変わらずの混沌とした空間だった。
床に散らばるお菓子の袋と漫画雑誌。お菓子は口を開けたまま、本はページを開いたまま。
部屋の隅には、空のペットボトルや使い終えた紙コップまでが転がっている。
この部屋の主である少女の、行き過ぎたくらいの奔放な性格が伺える。
夢見る乙女の部屋には有り得ない光景に、毎度の事ながらソネザキは軽い頭痛を覚えてしまう。
もちろん、アンズやコトミに言わせると殺風景過ぎるソネザキの部屋も、別の意味で有り得ないらしいが。
部屋の一番奥に大きめの椅子があった。
大量のカラフルなコードで飾り付けられたそれは、まるで空想科学小説に登場する未来の玉座だ。
そこに座り、眠っているのは一人の少女。
だぶだぶのオレンジ色のパジャマを着ている。
淡いパープルの長い髪。肌は透き通るような白。
理想的な卵型の輪郭に、形良く丁寧に作られた鼻口。
額に薄い茶色で刻印されたのイルカのシルエットと、伊改八〇三の文字がなければ、完璧に近い容姿だろう。
「いつまで寝てるんだよ。さっさと起きろ」
ソネザキの声に、少女の目蓋が微かに動く。
閉じられていた口が微かに開き、ゆっくりと空気を吸う。