【01-01】
【一〇月一〇日】
●午前〇六時五七分●
甲高いアラームが鳴り響いた。
ピとピピッだけで構成された単調な電子音が、ベッドの中で丸くなっていた少女を夢から現実に引き戻す。
あまりに無粋な行為だが、目覚まし時計にとってはそれが至上の任務。
忠実に迷い無く、精一杯の声で喚き散らす。
対して少女は布団に更に潜る、枕に顔を埋める、というささやかな抵抗をひとしきり行った後、ようやく観念して重い目蓋を開いた。
切れ長の細い目に瞳は黒。
ショートボブの髪をわしゃわしゃと掻きながら、ゆっくりと身体を起こす。
第十三学区中等部普通課二回生、ソネザキの十月十日はこうして始まった。
ベッドの上に座って、ぼんやりと視線をさ迷わせる。
彼女の私室は伝統ある四畳半。
一人用のベッドも小型テーブルもクローゼットも、クッションに至るまで全て支給品。
強化プラスチック製の灰色の壁にはポスターの一枚すらなく、床にもヌイグルミの一つもない。
質実剛健が旨とされる学生にしても、十六歳という夢見る年頃にしてはあまりに殺風景に思える。
薄く形の良い唇が僅かに開き、
「あぶぅぅ」
欠伸と溜息を混ぜて圧縮した独特の声を上げた。
目を擦りながら、枕元の時計を見る。
黒字に赤い電光文字。
第三種支給品の時計は愛想の欠片もない。
一限目の開始は、午前八時三五分。
支度に四十分。通学に十分掛けたとしても、時間が余りすぎる。
何故、こんなに早く目覚ましを掛けたのか。回転の鈍い脳が記憶を探り始めた。
「あぶぅぅ」
とは言え、まだ半分以上は夢の中、検索速度はあまりに遅い。
デジタルの数字が一つ、二つと進んでいく。
それを何となく見つめていた瞳が、一回り大きくなった。
思い出した!
慌ててベッドから降りると、備え付けの洗面所へ。
顔を洗って、ドレッサーの前に座った。愛用のブラシを手に、急いで髪を梳く。
寝癖が取れた時には、寝ぼけた雰囲気はいつものクールな物に変わっていた。
クローゼットからシャツを出す。
曇りのない白で、丁寧にあてられたアイロンが彼女の几帳面さを表している。
次に靴下。シンプルな薄い色を選ぶ。
続いてスカート。深緑のプリーツで丈は膝下。
全て身に着けたら、壁の姿見でチェック。
着崩れが無いのを確認し、よしと頷く。
タイと上着を左手に持ち、空いた右手で通学鞄を掴むと、ドアの前に立つ。
生体パターンの照合を瞬時に終え、圧縮空気の漏れる微かな音と共に開いた。
そこはリビング兼ダイニング。
落とされていた照明が、次々に点灯し、部屋から闇を取り除いていく。
ソネザキの私室に比べ、四倍近い広さ。
右奥には流しと調理台、加熱機器からなるキッチンスペースと外への出口がある。
向かって正面の壁にはバスルームへの扉。
左手には、ソネザキが出てきたドアと同様の造りのドアが二つ。
それぞれ「ど」と「こ」と書かれた正方形のプレートが掛かっている。
ちなみにソネザキの自室のプレートには「そ」と記されており、その隣には「あ」が付いているドアがある。
室内の真ん中には、パステル調のカバーに包まれた大きめのソファーセットが置かれ、それと正対するように配置されている小箱はテレビ。
タイプは一世代前の擬似三次元展開方式の物だ。
部屋の中央まで大またで進み、手にしていた上着と鞄をソファーに置いたところで圧縮空気の漏れる音がした。
視線を向ける。
「こ」のドアから少女が現れた。
薄青のパジャマに身を包み、大きな瞳は半ば以上が目蓋に覆われている。
腰まである赤味がかった長い髪が、寝癖で前衛的なデザインを見せている。
完膚なきまでに、今起きました感が満載。
「おはよ。コトミ」
ソネザキの言葉に、コトミは顔をゆっくりと向け、桜色の小さな唇を動かす。
「あ、ソネザキ、おは……」
そこまで言葉にした所で、やや控えめな鼻がむずむず。
へぶしっ。
「ばだびづが……」
くしゃみで盛大に鼻水を垂らしながら、B級ホラーのゾンビよろしく、ふらふらとティッシュを求めて歩く。
「ああ、もう」
ソネザキがティッシュの箱を手に駆け寄り、素早く数枚を手にして垂れていた鼻水を拭き取る。
それからティッシュを交換。
「ちーんして」
「ちーん」
同学年とは思えない慣れた手つきで見事に処理をする。
「はい、綺麗になった」
「ありがとぉ。愛してるよぉ」
コトミが抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと。コトミ」
いきなりの行動に面食らった。
寝ぼけ半分のストレートな親愛表現に耳まで真っ赤になってしまう。
こんな状態を見られたりしたら。
と、タイミング良くドアの開閉音が。
方向的には「あ」のドア。
最悪の事態に常に冷静なソネザキも焦る。
アンズは小柄な少女だ。
平均的な身長のソネザキやコトミより十センチは低い。
肩口で揃えた茶色の髪は、天然のカールで優美な広がりを持ち、どことなく上品な雰囲気を漂わせていた。
目尻の下がった穏やかな瞳が瞬時に見開かれる。
ドアを開けると同時に飛び込んできたのは、それほどまでの衝撃だった。
微かにルージュを入れた唇を小刻みに震わして立ち尽くしてしまう。
「むにゃむにゃ、愛してるよぉ」
まだ眠りの世界をさ迷っているコトミの言葉が、少女の呪縛を解いた。
「何をしてるんですの!」
ほら、言わんこっちゃ無い。ソネザキが思うより早く。
「ちょっと! 離れてください! 私のコトミさんに何をしてるんですの!」
怒りに頬を紅潮させながら駆け寄り、抱き合っている二人の間に身体を押し込もうと試みる。
しかし、横からの力に対し、反射行動でコトミの腕がより強くソネザキを締め付ける。
「ちょっとコトミ、苦しいから」
「離れなさいって言ってるでしょ!」
「アンズも、ちょっと落ち着きなって」
「寝起きに色仕掛けなんて! なんて卑劣な! なんて破廉恥な!」
「破廉恥っていつの言葉だよ。コトミ、とりあえず腕を」
「むにゃむにゃ、愛してるよ」
「きぃぃぃ! 卑怯者! わたくしは絶対に認めませんわ!」
「とりあえず、一旦離れて」
「ソネザキさんこそ、先に離れなさいよ!」
三者が複雑に絡み合い口々に勝手な主張を繰り返す。
些細な誤解が招く争い。それは次第に大きく、より悲劇的な方向に進んでいく。
それは長い歴史で人自身が証明した絶対の摂理。
この悲しい連鎖を止められるのは、慈悲深く偉大な神が起こす、あまりに気まぐれな奇跡だけなのかも知れない。