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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第九話「連絡線切断」

陣地は、奪った瞬間に価値を失うことがある。


正確には、陣地そのものの価値ではない。

そこへ集まっていた命令と視線と物資の流れが、別の場所へ逃げる前に叩けるかどうかだ。


夜明け前の廃駅(はいえき)は、死んだ獣の腹のように静かだった。


割れた窓から霧が入り、信号所の古い鉄骨に白く絡んでいる。駅舎前の砂利は砲弾と血で黒く濡れ、転がった電話線の被覆には泥がこびりついていた。昨夜ここを奪った兵たちは、ようやく勝った顔をし始めていたが、ユリウスにはそれが少し早すぎるように見えた。


勝ったのではない。

敵の神経節に指を掛けただけだ。


駅舎脇の壊れた標柱から、何本もの線が北へ、東へ、湿地の縁へ伸びている。露出したものだけでも四本。埋設線はもっとある。さらに築堤沿いには伝令が走る足跡が重なっていた。泥は嘘をつかない。重い靴、軽い靴、荷車、片輪を取られた弾薬車。すべてが、この一点へ集まり、ここから散っている。


エリナが、信号所の机の上へ濡れた地図を押し広げた。


「昨夜の押収書類、まとめました。列車運行票は古いですけど、通信符号と伝令交代時刻は使えます」


「十分だ」


「十分なんですか」


「全部ある必要はない。遅らせる場所が分かればいい」


エリナは眉を寄せたが、すぐに頷いた。もう慣れてきている。ユリウスが欲しがるのは、完全な答えではなく、次の一手に必要な欠片だけだと。


トーマスが戸口の向こうで息を白くしながら立っていた。顔じゅう煤と泥で、どこまでが肌か分からない。


「少尉、北側の低地に敵の死体が残ってます。引きに来る気配はまだ」


「引きに来る。だが先に伝令を走らせる」


「駅を固めないんですか」


「固める」


ユリウスは地図の一点ではなく、駅から放射する三本の線を指で叩いた。


「だが駅舎を固めるより、これを切った方が長く効く。陣地は取り返される。遅れは残る」


トーマスは理解しきれない顔をしたが、分からないまま「はい」と答えた。その返事で十分だった。兵に全部を分からせる必要はない。自分の仕事が、どの順番で、どこへ繋がるかだけ分かればいい。


ユリウスは分隊長たちを呼び集めた。


駅舎の壁に炭で略図を引く。廃駅本棟、北の観測壕、東の搬入路、築堤沿いの伝令道。敵前線そのものではなく、前線を生かしている筋を示すと、最初に顔色を変えたのは古参の下士官たちだった。彼らは経験で知っている。塹壕は砲で壊れる。だが命令と弾薬が切れた塹壕は、もっと早く死ぬ。


「第一分隊は露出線を落とせ。切るだけで終わるな、引きずって位置を誤認させろ。第二分隊は築堤の陰で伝令を待て。捕まえられなくてもいい、遅らせろ。馬を撃つな。馬が倒れると道を塞いでこちらも動けなくなる」


「第三は」


「観測」


そう言って、ユリウスは自分の胸元の双眼鏡を外した。


「北の微高地。昨夜から砲着が早すぎる。あそこに代観測所がある。駅を取られてなお砲が生きているなら、眼が残っている」


一人の分隊長が低く問うた。


「つまり、駅そのものは囮ですか」


「囮というより、餌だ。敵はここを取り返したいんじゃない。ここを通る流れを取り返したい」


兵の何人かが顔を見合わせた。


駅ではなく、流れ。

地点ではなく、線。


言葉にすればそれだけだが、前線の兵にとって戦場はたいてい目の前の土嚢と銃眼で完結する。だからこそ、そこから半歩だけ引いて見られる者が必要だった。


「エリナ、後方砲兵へ繋げる線は」


「工兵が仮設を回してます。まだ不安定ですけど」


「不安定でいい。切れる前に直せばいい」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃない。君がいるから言える」


エリナは一瞬だけ口をつぐみ、それから視線を地図へ落とした。


「……分かりました。砲兵修正欄、駅舎基準からじゃなく築堤基準で振り直します。ここ、ここ、それとここですね」


「そうだ。敵は駅を見ている。こちらは駅を基準にしない」


夜が薄くなる頃、部隊は動いた。


霧はまだ低く、築堤の向こう側を半分だけ隠している。切断班は腹ばいで砂利を這い、被覆の剥がれた線へ鉗子を噛ませた。乾いた手応えのあと、金属が震える。一本、二本、三本。落とした線はそのままにせず、泥の中を引きずって分岐を狂わせる。次に繋ぎ直しに来る敵は、まず切れた場所を誤る。


伝令路では、敵の若い騎兵が二騎、霧の中から浮かんでは消えた。


トーマスたちは撃つより先に、築堤の下へ空砲に近い射撃を散らした。馬が驚いて横へ流れる。騎手は速度を落とし、道を見失い、そこでまた別の銃声が鳴る。殺すためではない。急がせないための撃ち方だった。兵は敵を倒したくなる。だが今日必要なのは死体の数ではなく、遅延の分数だ。


信号所二階の割れた窓から、ユリウスは北を見ていた。


霧はまだ残る。だが霧の薄い層は必ずある。地面ではなく空気を見ていれば分かる。あの微高地の上だけ、風の抜けが違った。砲弾が来るとき、そこを経由してくる修正が早すぎる。昨夜はそう感じただけだった。今朝は確信に変わっている。


エリナが後ろから声を上げた。


「繋がりました、少尉。ですが雑音がひどいです」


「聞こえれば足りる。記録手は」


「います」


ユリウスは双眼鏡を覗いたまま言った。


「第一修正、北一五、東二〇。信管短。観測壕ではなく、その後ろ」


「その後ろ?」


「観測壕を潰しても、代わりが出る。後ろを崩せ」


命令は線を走り、しばらく遅れて砲声が後方から届いた。


帝国砲兵の初弾はいつも少し乱暴だ。だが二斉射目から性格が出る。遠く、北岸の薄い霧の奥に土煙が立った。一発は外れた。二発目が低い。三発目で、微高地の裏にいたはずの人影がまとめて揺れた。


「右へ二。高低そのまま」


エリナが復唱し、線の向こうへ怒鳴る。


その間にも、築堤沿いの伝令路は詰まり始めていた。線を切られた敵は、走者を出す。走者が遅れれば、今度は荷車が前へ出られない。命令が届かず、砲着が鈍り、弾薬車列が動きをためらう。そのためらいは、前線では数刻分の沈黙になる。


ユリウスは次の標的を変えた。


「東の搬入路。曲がり角の手前」


「観測所ではなく?」


「観測所はもう遅れる。次は弾薬だ。遅れた砲兵は、さらに遅れる」


彼には見えていた。


人ではなく、順番が。


敵は駅を取り返すために動いていない。切れた線を繋ぎ、観測を戻し、砲を生かし、搬入路を通し直すために動いている。ならば、それを一歩ずつ後ろから潰せばいい。


砲撃が東へずれた。


築堤の切れ目の先、普段なら荷車が一列でしか通れない細い路盤に、濃い煙が噴き上がる。しばらく遅れて、低く鈍い音が続けて二つ。弾薬車のどれかが誘爆したのだろう。空へ高くは上がらない。湿った地面が爆圧を呑み、代わりに重い破片音だけが長く残った。


駅舎の外で兵たちが歓声を上げた。


だがユリウスは窓から目を離さなかった。


敵前線の反応が、普通ではなかった。


塹壕からの反撃は散発的で、駅舎そのものへ集中していない。代わりに、切断された線の周辺、観測壕の見え方が変わる地点、搬入路の曲がり角、その三つにだけ異様に執着して火力が集まる。まるで敵もまた、地点ではなく線を守っているかのようだった。


「少尉」


エリナの声が、少しだけ低くなった。


「どうした」


「敵の砲、駅舎を狙ってません」


「分かってる」


「じゃあ何を」


ユリウスは双眼鏡を渡さず、窓の向こうを見たまま答えた。


「見え方を守ってる」


その言葉の意味を、エリナはまだ飲み込めなかったらしい。だが追及はしなかった。


もう一度、北の微高地へ焦点を合わせる。


砲煙の合間、壕の縁に一つだけ、動かない影があった。兵ではない。身を低くしすぎず、慌てず、伏せもせず、ただこちらの駅舎を見ている。双眼鏡の反射が、霧の薄皮の向こうで一瞬だけ光った。


撃てる距離ではない。


だが、見られている距離ではあった。


ユリウスはその光から目を離さなかった。


駅を取っただけでは足りない。

線を切っただけでも足りない。

敵はまだ、こちらの戦い方そのものを見ている。


「エリナ」


「はい」


「砲撃記録、全部残せ。時刻、修正、反応、外した弾もだ」


「外した弾までですか」


「外した理由が次に効く」


「……分かりました」


「トーマスたちにも伝えろ。切った場所、敵が直しに来た順番、伝令の通り方、全部覚えさせる。今日の勝ち方を、今日で終わらせない」


エリナは短く頷き、走って階下へ消えた。


駅舎の外では、まだ兵が勝利の声を上げている。砲兵の着弾は続き、敵の搬入路は鈍り、前線の銃声は明らかに間延びしていた。局地戦は、こちらへ傾いている。


それでもユリウスの胸の内には、勝ったという感覚が薄かった。


遅らせた。

切った。

崩した。


だが、まだ足りない。


双眼鏡の向こうで、あの影だけが動かなかった。

敵前線が崩れ始めているのに、退くでも伏せるでもなく、ただこちらを観測している。


まるで、この戦場で本当に見るべきものが、砲火でも死体でも廃駅でもなく、自分たちの戦い方そのものであるかのように。


その瞬間、ユリウスは理解した。


敵は地点を守っているのではない。

線を守っている。


そして今、その線の向こうから、こちらもまた見返されている。


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