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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第七話「横移動」

敗走と前進は、外から見ればよく似ている。


違うのは、何を捨てて、何を残したかだけだ。




砲声は、もう川辺から少し遠くなっていた。


それでも地面は絶えず震えている。灰白河の渡河点で始まった崩壊は、前線の一点で収まらず、後ろへ、横へ、遅れて広がっていた。濡れた土は兵の足跡と輜重車の轍で掻き回され、もう道と泥の区別がない。


ユリウスは築堤の斜面に膝をつき、双眼鏡ではなく裸眼で西を見ていた。


霧が低く寝ている。


ちょうどいい、と彼は思った。




高く積まれた土の背が、北岸からの視線を切っている。


旧線路帯は死んでいた。枕木は腐り、鉄は剥がされ、ところどころで掘割に水が溜まっている。だが死んだ線路には、現役の道路にない利点があった。まっすぐで、低く、そして誰も主攻には使わないと決めつけている。


だから見落とされる。


戦場では、それだけで十分に価値がある。




背後で、誰かが短く呻いた。


担架ではない。銃を逆さに持たせ、二人に挟ませて歩かせている負傷兵だった。右脚の脛から下が赤黒く染まり、軍靴の縁から泥と血が一緒に垂れている。それでもまだ、自分の足で動ける。


動ける者は運べる。


運べる者は残せる。




「少尉」




エリナが築堤の陰から這うように上がってきた。金髪に泥がつき、襟元まで濡れている。整えていたはずの軍服はもう見る影もなかったが、それでも彼女は紙束だけは濡らしていなかった。


「後ろの連絡、最低限つなぎ直しました。第九中隊の残りがこっちへ寄っています。砲兵観測の二名も拾えます」


「電話線班は」


「一班は全滅。もう一班は線材だけ持っています。敷き直しは無理です」


「いい。今は線より人だ」




エリナは一瞬だけ息を整え、それから言った。


「機関銃班が動きません。脚架を捨てれば早いと」


「捨てるな」




返答は短かった。


だが、その短さで十分だった。エリナは理由を聞き返さない。彼女はもう知っている。この少尉は、いま役に立たないものを守っているのではない。次に戦うために必要な骨を拾っているのだ。


「では、四人増やします」


「二人でいい。残りは担架に回せ」


「はい」




ユリウスは立ち上がった。


築堤の向こうでは、渡河点をめぐる砲撃がまだ続いている。音の密度だけで分かる。敵は橋材と河岸をまだ叩いている。こちらの主攻が、まだあそこにあると思っている。


思わせておけばいい。


その誤認の時間で、部隊を横へ流す。




彼は斜面を滑り降り、掘割に沿って並ぶ兵たちの間を歩いた。


もう連隊の形はしていなかった。泥まみれの歩兵、肩を焼かれた伝令、靴を片方失った工兵、弾薬箱だけ抱えた銃手。所属の違う者たちが同じ列に混じり、階級章より呼吸の荒さの方が目立つ。


壊れた軍だった。


だからこそ、いま必要なのは勇ましさではなく、編み直しだった。




「聞け」




ユリウスが言うと、叫びは広がらなかった。


怒鳴る必要がない位置まで、自分で歩いているからだ。兵たちは顔を上げる。疲労と泥で同じような顔になった男たちの中に、トーマスの若い目があった。怯えてはいるが、まだ視線が死んでいない。


「ここから西へ移る。走るな。列を伸ばすな。五人ずつ切って動け。先頭は下士官、最後尾に弾薬を持てる者を置け」




誰かが、敗走ですか、と喉の奥で言った。


ユリウスはそちらを見た。


若い兵だ。まだ顎に産毛が残っている。顔の右半分に土が貼りつき、銃を持つ手が震えていた。


「敗走なら、機関銃と負傷兵を置いていく」




それだけ言って、ユリウスは次の列へ進んだ。


兵たちは互いの顔を見た。説明としては足りない。だが、足りないから逆に分かる。この移動は逃げではない。逃げるなら、いちばん重いものから捨てる。いちばん遅いものから捨てる。


それをしない。


なら、これは別の何かだ。




掘割の奥では、機関銃班が脚架を泥から引き抜いていた。


三脚の片足が深く食われ、二人がかりでも上がらない。銃手は歯を食いしばり、弾薬手は肩で息をしている。顔色を見るだけで、もう限界が近いと分かった。


ユリウスは脚架の継ぎ目に手を入れた。


「分解しろ。一本ずつ運べ」


「少尉、時間が」


「丸ごと運ぶから遅い。銃身、脚、箱に分けろ。箱は歩ける負傷兵に持たせろ」


「負傷兵に、ですか」


「腕が生きていれば弾は運べる」




兵は一瞬だけためらい、それから頷いた。


命令されたからではない。言われた瞬間に、その方が現実的だと分かったからだ。分かる命令は、人を動かす。


エリナがすぐ横で別の兵に言葉を渡している。


「脚架は二名で一本。銃身は布で包んで肩へ。弾薬箱は持てる人に分散。順番を間違えないで。置くのは荷ではなく、空箱だけです」




彼女の言葉は、ユリウスの命令を人間の耳へ通じる形に直していた。


それを聞きながら、ユリウスは列の後ろへ回る。担架代わりの毛布が二枚、泥の上に置かれていた。片方には胸を撃たれた伍長が横たわり、もう片方には顔面を包帯で潰された工兵が乗っている。


どちらも重い。


どちらも遅い。


だが、遅いから捨てるという判断は、一度やると癖になる。


癖になった軍は、次の会戦でも同じ捨て方をする。




「担架は二枚とも連れていく」




傍らの下士官が顔をしかめた。


「少尉、このままだと速度が」


「速度だけで着いても、着いた先で何もできなければ意味がない」


「ですが」


「その伍長は第三小隊をまとめていたな」


「……はい」


「工兵は」


「架橋班の古参です」


「なら置いていくな」




下士官は黙った。


理解したのではない。理解しきれなくても、命令の向こうに考えがあると感じたから黙った。その差は大きい。怒鳴りつけて従わせた兵は、見えなくなった瞬間に崩れる。理由の輪郭だけでも掴んだ兵は、自分で保つ。




ユリウスは列の前へ戻り、今度は動きながら指示を出した。


「一列目、霧の厚い間に築堤の影へ入れ。二列目は三十歩空けろ。足跡を重ねるな。観測兵は高みに上がるな。今日は見るな、隠れろ」


「見るな、ですか」




トーマスが思わず聞き返した。


ユリウスは歩を止めずに答えた。


「今日は見えた方が死ぬ」




若い兵の喉が鳴った。


だが、その言葉を聞いた周囲の男たちが、無意識に身を低くした。そういう細い反応が、部隊を残す。教練場で覚えるより先に、死地で身体に刻む方が早いこともある。




列は、ようやく動き始めた。


西築堤線の陰を舐めるように、五人、三人、また五人。担架、弾薬、脚架、銃身、包帯の白。泥の上を進んでいるのに、見ようによっては後退しているようにしか見えない。


実際、後ろへ離れている地点もあった。


だが全体としては違う。彼らは正面の崩落から外へずれ、まだ壊れていない地形へ自分を載せ替えている。前へ進むとは、敵に近づくことだけではない。戦える場所へ移ることでもある。




砲弾が一本、築堤の向こうへ落ちた。


土が降ってきた。誰かが身をすくめ、別の誰かが顔から泥に突っ込む。だが列は止まらない。止まらせないために、ユリウスは最前ではなく途中を歩く。先頭に立つと、後ろの崩れが見えなくなるからだ。


途中にいれば、倒れた者が見える。間が詰まる場所が見える。下士官の動きが見える。


見えるものだけが直せる。




「少尉」




エリナが再び横へ並んだ。


「右の涵路に水が溜まっています。この人数だと二往復目で詰まります」


「左の旧保線路へ逃がせ。足場は悪いが幅はある」


「案内が足りません」


「トーマス」




呼ばれた若い兵が肩を揺らした。


「はい」


「先へ行け。白い杭が二本見えたら左へ折れろ。折れた先で待って、後ろへ手を振れ」


「お、俺がですか」


「お前が見えている」




それは褒め言葉ではない。


だがトーマスは頷いた。見えている者に役目を与える。それだけで兵は、自分が数ではないと感じる。感じた兵は、少しだけ強くなる。


トーマスは銃を握り直し、泥を蹴って前へ走った。走るなと命じたばかりだったが、伝えるべき違反と切り捨てる違反は別だ。必要な逸脱まで罰していたら、現場は死ぬ。




霧の中で、列は細長い生き物のようにうねった。


途中、負傷兵の一人が膝をついた。弾薬箱を抱えたまま、泥に額をつけるように崩れる。若い兵がすぐに箱を奪おうとしたが、ユリウスが止めた。


「先に本人を起こせ」


「箱の方が」


「箱だけ運ぶ兵はいくらでもいる。こいつは次に箱を運ぶ側へ戻せる」




若い兵は戸惑いながらも、負傷兵の腕を肩へ回した。


そのやり方が拙い。体重を受ける位置が悪い。ユリウスは二歩戻り、自分で支え方を見せた。腰で持て、肩で引くな、足をずらせ。たったそれだけで、倒れた兵はまた立ち上がった。


教える時間ではない。


だが、教えずに進む時間でもなかった。




西へ行くほど、砲声は幕一枚隔てたように鈍くなった。


その代わり、別の音が立ち始める。靴底が砕く古い砂利。掘割に落ちる泥水。遠くの金属音。線路は死んでも、地形の記憶は残る。旧線路帯はまっすぐ廃駅へ向かっている。


ユリウスはその先を見た。


まだ建物は見えない。


だが、地面の流れで分かる。人も物も、かつて通ったものは痕を残す。平らな肩、浅い切通し、不自然に乾いた一帯。戦争が始まる前から使われていた線は、戦争が始まってからも便利だ。


便利な場所には、神経が集まる。




「少尉、先行の兵が戻りました」




トーマスではない。別の伝令だった。息を切らし、泥だらけの敬礼をする。


「前方に細い有刺鉄線。新しいものではありません。向こうで煙も見たと」


「煙の高さは」


「低いです」


「人数は読めるか」


「まだ」


「いい」




ユリウスは一度だけ目を閉じた。


追ってきたのではない。前にもいる。つまりここは空白ではなく、薄い前哨線の縁だ。正面崩壊から逃げ込んだ先ではない。別の戦場の入口である。




彼は周囲を見回した。


兵たちはもう限界に近い。それでも完全には崩れていない。機関銃は分解されたまま残っている。担架も二枚ともある。観測兵も生きている。トーマスは泥だらけで戻ってきた。エリナはまだ紙束を抱えている。


十分だった。


ここまで来られたなら、次が作れる。




「止まれ」




列が止まった。


止まり方が、もう最初とは違う。ただ立ち尽くすのではなく、自然に低くなり、銃口が前を向き、担架が築堤の陰へ滑る。誰に言われるでもなくそうなる。それだけで、壊れた部隊は部隊へ戻り始めていた。


ユリウスは低い声で言った。


「ここから先は、ただ運ぶだけでは済まない」




兵たちの顔が上がる。


疲れている。汚れている。だがさっきまでとは違う。自分がどこへ向かっているか、まだ輪郭だけでもある顔だ。


「第九中隊の残りを左へ。機関銃は掘割の屈曲に置け。担架はその後ろ。撃つなと言うまで撃つな。見つかった瞬間に撃つな。見つかってから、相手が何を守っているか見ろ」




誰も返事をしなかった。


返事をする余力がないのではない。聞いているからだ。




エリナが小さく息を吐いた。


「少尉」


「何だ」


「ようやく、前に進んでいる感じがします」


「さっきから進んでいる」




そう言ってから、ユリウスは少しだけ視線を西へ戻した。


霧の向こう、低い地面の切れ目の先に、形の崩れた黒い影があった。駅舎か、信号所か、それともただの煉瓦の残骸か、まだ分からない。


だが人の気配がある。


守っている者の気配だ。


戦略地図の端に小さく書かれた、価値の薄いはずの一点。その一点が、こちらの崩壊の外側で静かに息をしている。




ユリウスは泥のついた手で拳銃の位置を確かめた。


勝つためではない。


まだ残っているものを、ここから戦える形へ変えるために。




「前哨だ」




誰にともなく言って、彼は掘割の先へ身を沈めた。


部隊が、その後ろで音もなく続いた。

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