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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第五話「灰白河」

砲兵は、河を渡らない。


渡るのはいつも人間だ。




夜明け前の低地は、まだ夜の側にいた。


灰白河の手前に広がる湿地は、暗い水を薄く張ったまま息を潜めている。踏むたび泥は靴底を引き留め、離すときだけ濁った音を立てた。兵たちは声を潜めて並んでいたが、沈黙しているから落ち着いているわけではない。沈黙には種類がある。これは、砲撃開始を待つ者の沈黙だった。


ユリウスは河の方を見ていた。


見ているのは水面ではない。その向こうにある、まだ姿を見せない一段高い地面だ。朝霧が残っているあいだは敵の目も鈍る。だが霧は味方ではない。晴れる時刻まで含めて敵の砲兵計画に織り込まれている。


背後で砲兵将校が時計を開く音がした。


次の瞬間、帝国軍の野戦砲が一斉に火を噴いた。




地面が、下から殴られたように震えた。


一発目はいつも腹に来る。音ではなく、骨の内側で受ける。続いて二発目、三発目、十発目。前進砲兵、後方修正点、さらに少し遅れて重砲。湿地の薄い水面が細かく跳ね、泥の上に置かれた板が揺れた。兵たちの肩が本能的にすくむ。


火薬の匂いが風に乗って流れてくる。


対岸はまだよく見えない。見えないまま、砲弾だけが向こうへ運ばれていく。人間は見えないものに期待を乗せたがる。砲撃さえ十分なら、地面は従うと信じたがる。


だが地面は、砲声では軟らかくならない。




「少尉」


低い声で呼ばれて、ユリウスは振り向いた。


トーマスだった。泥にまみれた頬の右側だけが、不自然に白い。ついさっき袖で拭ったのだろう。


「第一波、前へ出ます」


「見れば分かる」


「……はい」


返事をしたあとも、トーマスは動かなかった。言葉より先に何かを確かめたかった顔だった。


ユリウスはその顔を見て、短く言った。


「河を渡ることだけ考えるな。戻る道を頭に入れておけ」


トーマスは一瞬だけ目を見開いた。


普通なら逆だ。突撃前に戻る話をする上官はいない。縁起が悪いと怒鳴る者もいる。だがトーマスは怒らなかった。ただ小さくうなずき、湿地の中へ走っていった。




第一波が動き出す。


工兵が橋材を担ぎ、歩兵がその両脇に散る。伝令が後ろを気にしながら進み、有線班が巻胴を押してぬかるみへ踏み込んだ。板を置いた場所から順に人が流れ込み、泥に沈み、立て直し、また進む。


砲撃は続いている。


だが続いていることと、効いていることは違う。


敵前線の上では土煙が上がっていた。しかし土煙は、防御が消えた証拠にはならない。むしろ観測のための目印になる。霧が薄くなった瞬間、どこにどれだけ砲が落ちたか、向こうの観測兵は逆に読みやすくなる。


ユリウスは視線を北岸の微高地へ向けた。


来る。


そう思った時には、もう来ていた。




対岸の砲兵が目を覚ました。


最初の着弾は渡河点そのものではなかった。少し後ろだ。橋材の集積地点。工兵の控置場所。さらにその後ろの、有線班の待機壕寄り。


予定どおりだった。


敵は舟艇ではなく、渡ったあとに軍を立て直す骨を狙っている。


二発目で橋材が跳ねた。三発目で工兵が吹き飛び、四発目で巻胴が泥水の中へ転がった。悲鳴は砲声に呑まれて聞こえない。ただ、人の形だけが崩れる。


「修正が早すぎる……」


砲兵観測兵が思わず漏らした。


ユリウスは答えなかった。早いのではない。初めから見られていたのだ。




正面の湿地が、急に狭く見え始める。


人間が死に始めると、地形は本来の形を取り戻す。作戦図上では進路だったものが、現実にはただの水を含んだ低地へ戻る。踏み固められていない泥は脚を奪い、倒れた者はその場で障害物になる。進む兵は味方を跨ぎ、跨げない者は止まり、その列を次の砲弾が裂く。


「前へ! 前へ出ろ!」


どこかで中隊長が怒鳴っていた。


怒鳴り声はよく通る。だから余計に、状況を変えない。


渡河板の一本が砕け、半端なところで兵が折り重なった。そこへ機関銃が入る。水面が小さく跳ね、泥の表面が細く裂ける。人が一人、二人、三人と崩れた。


朝霧が、ちょうどその時刻に薄くなった。


敵は賢かったのではない。ただ時間どおりに撃ってきただけだ。


正しいのは敵ではなく地面であり、時刻であり、水位だった。




ユリウスは周囲を見回した。


右翼はもう駄目だ。中央も、橋頭堡どころか河岸に届く前から詰まり始めている。左翼の囮渡河点はまだ持っているが、持っているのは敵が本気で潰していないからだ。主攻が中央に固定されている限り、あそこは生き残る。


問題は、ここでどれだけ死体を積めば上が諦めるかではない。


諦めた時に、何が残っているかだ。


その判断だけがまだこちらに残っていた。




「フリッツ」


すぐ後ろにいた古参兵が振り向いた。


「はい」


「第三小隊の下士官を拾え。生きている者だけでいい。機関銃二挺、弾薬箱を半数。担架は捨てろ。歩ける負傷兵を西へ寄せる」


フリッツは質問しなかった。


「西、ですか」


「築堤へ移る。正面は死地だ」


「了解」


それだけ言って、すぐ動いた。こういう時、理解の速さは勇気より役に立つ。




参謀補が泥を跳ね上げながら走ってきた。


若い貴族で、昨夜まで机の横で指揮杖を弄んでいた男だ。顔色は紙のように青い。


「アーデルハイト少尉! 持ち場を離れるなとの命令だ! 中央渡河は継続、第二波も投入される!」


「第二波はどこにいる」


「後方集積壕だ、もう出る!」


「止めろ」


「そんな権限があるものか!」


「なら、お前が行ってあれを通すのか」


ユリウスは河の方を顎で示した。


ちょうどその時、第二波の先頭が湿地へ入りかけたところに砲弾が落ちた。泥と人間がまとめて上がり、何が飛んだのか判別できない灰色の塊になる。


参謀補は口を開いたまま動けなかった。


ユリウスはその横を抜けた。


「権限はあとで書類にしろ。今は列を止めろ」




怒号が飛び交う。


進めという声と、戻れという声と、担げという声と、伏せろという声。命令系統が壊れる時、言葉は一気に増える。多すぎる言葉は、沈黙と同じくらい役に立たない。


ユリウスは自分の周囲だけを切り取るように見た。


どの小隊がまだ形を保っているか。

どの下士官が声を通せるか。

どの観測兵が生きているか。

どの伝令が走れる脚を残しているか。

どの機関銃を見捨てずに持ち出せるか。


勝敗ではなく、骨組みを数える。


戦場では、残るものを数えられる者だけが次の戦いを持てる。




「トーマス!」


泥の向こうで、名前を呼ばれた兵が振り向いた。肩口から血を流しているが、走れない傷ではない。


「お前の分隊、左へ寄せろ! 築堤の陰を使う!」


「渡河は!」


「忘れろ!」


その一言に、トーマスは一瞬だけ迷った。


川向こうにはまだ帝国軍の兵がいる。渡りかけて戻れなくなった者、河岸に張りついた者、命令どおり前へ進もうとしている者。忘れろと言うのは、見捨てろに近い。


だがユリウスが切り捨てようとしているのは兵ではなく、作戦だった。


「西へ移る! 機関銃は置くな!」


トーマスが怒鳴ると、周囲の兵たちがようやくそちらを見る。命令は内容より、誰が確信を持って言うかで通る。




その時、中央渡河点の後方で大きな爆発が起きた。


工兵橋材の予備集積だった。木材が折れ、鉄材が跳ね、馬が狂ったようにいななく。そこへさらに砲弾が重なり、集積壕の土が崩れた。人も物も区別なく泥へ押し込まれる。


ユリウスは短く息を吐いた。


これで正面は終わった。


いや、正しく言えば、今ようやく全員に終わったと分かる形になっただけだ。戦い自体は最初から終わっていた。


そこから先は、崩壊の速度を誰が握るかの問題になる。




彼は西を見た。


築堤。掘割。旧線路帯。


正面から見れば、ただの外れだ。湿地の脇に残った古い盛土と、土に埋もれかけた線路跡。だが横移動には死角があり、部隊を短く畳めば機関銃の射線を切れる。さらに西へ寄れば、廃駅へ通じる連絡の筋に触れられる。


橋頭堡は取れない。


なら、相手の反応速度を取る。


勝利ではない。次を作る位置取りだ。




「全員に伝えろ!」


ユリウスは近くの伝令兵の肩をつかんだ。


「中央渡河点は放棄。西築堤線へ横移動。分隊ごとに散開、負傷兵は歩ける者を優先。観測兵は俺の後ろにつけ。電話線は捨てろ、伝令で繋ぐ」


「命令書は」


「あとで書く。今は走れ」


伝令兵は泥に足を取られながらも走った。


命令書はあとで書く。


帝国軍の言葉としては、ほとんど禁句だった。だが紙の上で整った命令が前線で死ぬところを、ユリウスは何度も見てきた。今この瞬間に必要なのは、書式ではなく方向だ。




西へ動き出した兵列は、最初ひどく不格好だった。


退却にしか見えない。いや、実際に半分は退却だ。だが敗走と横移動の違いは、誰がどこを向いているかで決まる。頭を失って逃げる列はすぐ壊れる。目的地を持って曲がる列は、まだ部隊だ。


フリッツが負傷兵を二人引きずってくる。


トーマスの分隊が機関銃を担ぎ直す。


観測兵が双眼鏡を胸に押し込み、泥の中で転ばないように手を使う。


その一つ一つは小さい。だが部隊とは、そういう小さいものの総和でしかない。




敵砲兵はまだ中央を叩いていた。


そこが主攻だと信じている間だけ、こちらは動ける。


築堤の陰へ最初の兵が滑り込んだ。次が続く。掘割の縁に沿って低く進めば、北岸からの直射は切れる。泥は深いが、正面の湿地よりはましだった。旧線路帯の砂利がまだ少しだけ地面を締めている。


ユリウス自身も泥の中へ踏み込み、兵列の真ん中を歩いた。


先頭ではなく、中央だ。


前へ立つより、途中で折れそうな場所を見るためだった。




「少尉!」


背後からまた叫び声がした。


さっきの参謀補が、息を切らして追ってくる。


「勝手に戦線を変えるな! 司令部が把握できない!」


ユリウスは止まらなかった。


「把握できる形に変える」


「これは命令違反だ!」


「このまま中央に貼りつけておく方が、軍への違反だ」


参謀補は何か言い返そうとしたが、その時ようやく築堤の向こう側を見たのだろう。視線の先には、中央渡河点でまだ前へ押し出され続ける兵の列と、その上に落ち続ける砲弾があった。


彼は口を閉じた。


理解したのではない。ただ、自分の言葉が現実より軽いと気づいた。




築堤の陰に入ると、音の質が少し変わった。


正面から殴るような砲声が鈍り、代わりに土を伝ってくる振動が強くなる。安全ではない。だが、死ぬ順番をこちらで組み替えられる場所ではある。


ユリウスはそこで初めて立ち止まった。


兵を数える。


下士官を数える。


機関銃を数える。


観測兵を数える。


残ったものは少ない。だが、零ではない。


零でなければ、局地は作り直せる。




彼は築堤の向こう、さらに西を見た。


旧線路帯の先。掘割。低地の切れ目。その先にある廃駅の方向。


まだ遠い。だが正面の河よりは近い。


そして、そこには意味がある。橋頭堡より大きい意味ではない。ただ、この場で軍を鈍らせた敵の神経に触れられるだけの意味だ。


十分だった。




「ここで再編する」


ユリウスは周囲に言った。


兵たちが顔を上げる。泥にまみれ、火薬に燻され、何を聞かされるのか分からない目だった。


「正面は捨てる。西へ寄せて隊を短くする。機関銃は築堤に沿わせろ。観測兵は高まりを探せ。歩ける負傷兵は列の内側へ。分隊長は人数を出せ。今から数え直す」


誰もすぐには返事をしなかった。


渡河命令を受けて出てきた兵にとって、河を捨てるという言葉はあまりに異質だったからだ。


ユリウスは続けた。


「渡れなかったんじゃない。渡る場所を変える」


その言い方だけが、かろうじて彼らの顔に残っていた兵士の形を戻した。




トーマスが最初に声を上げた。


「第三分隊、七名! 機関銃一!」


フリッツが続く。


「第二分隊、歩ける負傷兵三、担げるのは一!」


別の下士官が叫ぶ。


「観測兵二、生存!」


数字が返り始める。


それでいい、とユリウスは思った。戦場では理念より先に数字が要る。数えられるものだけが再編できる。




遠くで、中央渡河点がまだ燃えていた。


灰白河の水面は、そこだけ朝の光を鈍く返している。まるで何事もなかったような色だった。河は変わらない。変わるのは人間の側だけだ。


ユリウスはその光を見ながら、ほんの短く目を細めた。


この程度では足りない。


正面の失敗を避けただけでは駄目だ。生き残った兵を別の場所へ運び、別の形で使えるようにしなければ意味がない。勝った負けたの前に、軍を痩せさせない手順が要る。


戦争は、一回で終わらない。


それを理解していない命令は、どれだけ立派でも人を殺すだけだ。




「西へ出る」


ユリウスは最後に言った。


「築堤沿いに進む。掘割を使う。旧線路まで行けば、まだこちらの戦い方に戻せる」


誰かが小さく息をのんだ。


戻せる。


その言葉だけが、砲声の中で不思議なほど明瞭に残った。




隊は再び動き始めた。


今度は河へ向かわない。西へ曲がる。泥にまみれた兵列が、築堤の陰へ吸い込まれていく。外から見れば、敗残兵の横流れに見えるだろう。


それでよかった。


敗走に見える間は、相手もまだこちらを正しく読めない。


ユリウスは最後尾に一度だけ視線をやった。


灰白河は、朝の光の下で静かだった。


その静けさの上に、砲声だけが遅れて転がり続ける。


彼はそれを背にして歩き出した。


次の戦場は、もう正面にはなかった。

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