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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第二章「帝都に穿たれた空白」

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第四十一話「版差」

皇統資料閲覧室は、読むための部屋ではなかった。

読ませる順を整え、見せる深さを量り、見えすぎるものから先に手を当てるための部屋だった。


扉の内側は暖かかったが、その暖かさには人を落ち着かせる気がなかった。

火鉢は置かれている。

灯りも十分にある。

それでもここでは、指先より先に許可票が冷たかった。


壁際の棚は古地図庫ほど高くない。

だが、その代わりに鍵が多かった。

抽斗ごとではない。

段ごと、束ごと、時代ごとに、開く許可が分けられている。


前室で止められたユリウスは、扉の手前で待つことになった。

軍人であること自体が問題なのではない。

皇統資料に対しては、どの立場の人間が何を読むかが、本文の一部になっているのだとソフィアはもう知っていた。


ベルタは閲覧票と照合札を抱え、低い声で言った。

「今日出るのは、照合用控え三種だけです。原本扱いは出ません」

「十分です」

「十分、ですか」

「ええ。異本を見るのに、いつも最も古いものが要るわけではありません」


卓上に並べられたのは、同じ皇統区間を扱う三つの本だった。

ひとつは古い系譜抄本の断簡。

ひとつは典礼院系の継承記。

もうひとつは学術局整理後の照合本である。


ソフィアが見たかったのは、誰が即位したかではなかった。

誰が正統かでもない。

その正統が、いつから同じ顔で語られ始めたかだった。


最初の数葉までは、むしろ安心できるほどばらばらだった。


建国期の継承部では、断簡ごとに語が違う。

ある本は即位を戴冠と書き、ある本は推戴と書く。

皇后の家名を先に置く写しもあれば、諸侯誓署を先に書く写しもある。

欄外には後代の手が重なり、短い異議と補注が生きたまま残っていた。


そういう揺れは自然だった。

人が本を書けば、癖が出る。

どの語を避け、どこで息を継ぎ、何を欄外へ逃がすかに、その時代の恐れと利害が出る。

異本は一致しないから価値がある。


ソフィアは二冊を並べ、さらに一冊を少し斜めに置いた。

行数、割注、欄外の詰まり方。

ベルタは彼女の手元を見ながら、まだ結論を急がない顔をしている。


「ここまでは普通です」

ベルタが言う。

「ええ」

「違いはありますが、不自然ではない」

「そう。まだ人の筆です」


だが、ルートヴィヒ一世末期の継承部へ入ったところで、その自然さが途切れた。


最初に違和感を出したのは本文ではない。

欄外だった。


それまでの本には、余白の使い方にためらいがなかった。

小さく押し込む者、斜めに逃がす者、前代の注記へ噛みつくように後註を重ねる者。

それが、ある箇所から急に整いすぎる。


三本とも、欄外の空き幅が近すぎた。

紙の寸法も、写字の手も違うのに、補注の置かれる位置だけが同じだった。

右端の三行分が、まるで見えない定規で避けられたように、揃って白い。


ソフィアは最も古い断簡へ顔を寄せた。

紙は痩せ、墨は沈み、線はところどころ擦れている。

それでも、その白さだけが新しすぎた。


「ベルタ」

「はい」

「ここ、誰かが書かなかったのではないわ」

「書けなかった?」

「ええ。最初から、ここには何も入れない形で版面が決められている」


ベルタは別の本へ視線を移した。

典礼院系の継承記でも、同じ位置が薄く広い。

学術局整理後の照合本では、さらに露骨で、そこだけ欄外線がまっすぐ引き直されていた。


「偶然では」

「ありません。偶然なら、空き方が散る」


ソフィアは頁を繰った。

ルートヴィヒ一世崩御から、フェルディナント一世即位へ移る接続部。

皇統の継ぎ目として最も敏感なはずの箇所で、三本の本は急に礼儀正しくなっていた。


それまでの断簡には、

前王崩御後、諸家議長し、

とか、

后系証札別冊照合、

のような、書き手の位置が見える語が混じっていた。


ところが、そのあたりから文が揃い始める。

三本とも、細部は少し違うのに、要所の言い回しだけが同じ顔になる。


継承過程に混乱を見たが、諸機関の調停により秩序は保たれた。


その文が、一冊だけにあるなら別だった。

だが、写字の癖も紙質も異なる本で、同じ位置に、同じやわらかさの文が置かれている。

しかも、その前後だけはまだ揺れている。

揺れている流れの中に、その一文だけが整いすぎていた。


「公定史の語です」

ベルタが小さく言った。

「ええ」

「でも、これは皇統記録です」

「だからです」


ソフィアは答えた。

「皇統記録に公定史の文が混じったのではない。

皇統記録の方が、途中から公定史の文法で書き直されている」


彼女は学術局照合本の注記欄を開いた。

そこには注の数そのものは少なくない。

だが、その減り方が異様だった。

争点が減ったのではない。

争点の出し方だけが、あらかじめ許された形へ整えられている。


旧い断簡では、人名が主語になる。

誰が異を唱え、誰が署し、誰の婚姻が根拠として持ち出されたかが見える。

ところが整版本では、主語がすべて制度へ後退する。


当時の情勢に照らし。

継承上の整理が進められた。

便宜上、別冊参照。


人が消えたのではなかった。

人を消す書き方が、途中から急に上手くなるのだ。


ベルタは口を閉じたまま、古い断簡の左端を押さえた。

若い補佐官の手の下で、擦り切れた紙がわずかに鳴る。


「標準化、という可能性は」

彼は慎重に言った。

「学術局設置以後、様式が統一されたとか」

「様式の統一なら、書誌に残ります」

ソフィアは頁を返しながら答えた。

「写しの順序、引用符、略号、訂正記号に出る。

でもこれは違う。本文だけでなく、何を異本として残すか、その残し方まで揃えられている」


彼女は三本を縦に並べた。

同じ継承部の、同じ位置。

右欄外の空白。

本文中の婉曲句。

別冊参照の入り方。

どれも、違う本に見えて、違い方の種類が少なすぎた。


異本が異本として生きている時代は、もっと騒がしい。

書き手は、自分の時代の正しさを持ち込む。

だから乱れる。

だから読める。


だが、ここから先の本は、乱れ方まで統治されていた。


ソフィアは、もっと古い断簡の下へ挟まれた細紙を見つけた。

本来の附箋ではない。

後から紛れた、薄い照合票の切れ端だった。

端だけが残り、本文は失われている。

だが残った二語だけで、彼女には十分だった。


后系。

未了。


ベルタが息を呑んだ。

「先生」

「ええ」

「それは」

「断定には足りないわ」


ソフィアはすぐに言った。

足りない。

だが、足りないこと自体が今は大きかった。


后系未了。

その程度の語なら、ただの照合作業でも出る。

証札の到着待ちかもしれない。

地方庫からの返送遅延かもしれない。

その一行だけで、皇統の偽装など言えない。


だが問題は、その語が後の本から消えていることではなかった。

消えるならまだ分かる。

本当に気味が悪いのは、その消えた跡が、三本とも同じ幅で残っていることだった。


誰かが一冊を直したのではない。

どの版で、どの位置に、どの程度の揺れだけを残すかが、先に決められている。

そうでなければ、この整列は起きない。


「版が並んでいるんじゃない」

ソフィアは、ほとんど独り言のように言った。

「並べられているのよ」


皇統資料閲覧室は静かだった。

だがその静けさは、古地図庫の静けさとは違う。

向こうが残りものの部屋なら、こちらは残し方の部屋だった。


何を削るかではなく、

何をどの顔で残すか。

どの異論なら歴史の中に置いてよく、

どの異論は別冊へ飛ばし、

どの異論は欄外の白さに変えるか。


国家は、事実を消すより先に、

事実の揺れ方を決めている。


ベルタが低く尋ねた。

「この箇所だけですか」

「いいえ」

ソフィアは即答した。

「ここは接続部だから見えやすいだけ。たぶん、同じ処理は他にもある」

「では、皇統の矛盾が」

「矛盾そのものはまだ言えない」


彼女は断簡の端へ指を置いた。

紙は古い。

だが古さよりも、そこに届いた手の多さが重い。


「いま言えるのは、連続しているはずの皇統記録が、ある時点から異本としての生き方をやめているということ。

血が偽物だとは、まだ言えない。

でも、血が本物に見えるよう、版の揺れ方まで整えられているとは言える」


その言葉を口にした瞬間、彼女は昨日の古地図の端を思い出した。

地図では、通過の層だけが残されていた。

こちらでは、継承の層だけが整えられている。

違う場所のはずなのに、同じ手つきが出ていた。


使える部分だけを生かし、

不都合な深さは別冊へ送り、

本文は滑らかに見せる。


戦場も、地図も、皇統も、

この国ではまず編集の形式から先に揃う。


閲覧係が時間を告げに来た。

やわらかな声だったが、内容は硬い。

延長には追加の許可票が要る。

この部屋では、考える時間まで帳簿で量られる。


ソフィアは頷き、必要頁を控えへ写し始めた。

全文ではない。

揺れの位置だけでよかった。

同じ婉曲句がどこに現れ、

どの欄外が同じ幅で沈黙しているか。

それが分かれば、版面そのものが証言になる。


前室へ戻ると、ユリウスが壁際で待っていた。

扉の内側へ入れなかった男の顔は、苛立っているというより、計算している時の顔に近かった。


「見えたか」

彼が言う。


ソフィアは手袋を外しながら答えた。

「ええ。ただし、血統の嘘が見えたわけではない」

「なら、何が見えた」

「皇統が連続しているように見える方法です」


ユリウスは少しだけ目を細めた。

彼は説明の早い人間ではない。

だが、要点の位置だけはすぐ掴む。


「記録が揃いすぎている?」

「ええ。異本なのに、異本として残っていない。

途中から、違う本が違う仕方で間違えるのではなく、同じ仕方で整えられている」


「誰かが一度、全部通した」

「たぶん一度ではないわ」

ソフィアは言った。

「通し直してる。必要な時代ごとに」


ユリウスはそれ以上すぐには問わなかった。

その沈黙で、彼がもう別のところまで考えていると分かった。

この男は、史料の異常を知識の快楽として受け取らない。

それが戦争に、国家に、次の破局への備えにどう繋がるかを先に見てしまう。


「この国は」

彼が低く言う。

「血を守ってるんじゃないな」


ソフィアは首を振った。


「血が正しく見える形を守っているのよ」


前室の奥で、鍵が一つ回る音がした。

短く、乾いた音だった。

だがソフィアには、それが頁を閉じる音ではなく、版を揃える音に聞こえた。


皇統は、断絶しているとはまだ言えない。

けれど連続しているとも、もう前のようには読めなかった。


ある箇所から先、

この国の歴史は書かれているのではない。

正しい揺れ幅だけを残して、配り直されている。

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