第四十一話「版差」
皇統資料閲覧室は、読むための部屋ではなかった。
読ませる順を整え、見せる深さを量り、見えすぎるものから先に手を当てるための部屋だった。
扉の内側は暖かかったが、その暖かさには人を落ち着かせる気がなかった。
火鉢は置かれている。
灯りも十分にある。
それでもここでは、指先より先に許可票が冷たかった。
壁際の棚は古地図庫ほど高くない。
だが、その代わりに鍵が多かった。
抽斗ごとではない。
段ごと、束ごと、時代ごとに、開く許可が分けられている。
前室で止められたユリウスは、扉の手前で待つことになった。
軍人であること自体が問題なのではない。
皇統資料に対しては、どの立場の人間が何を読むかが、本文の一部になっているのだとソフィアはもう知っていた。
ベルタは閲覧票と照合札を抱え、低い声で言った。
「今日出るのは、照合用控え三種だけです。原本扱いは出ません」
「十分です」
「十分、ですか」
「ええ。異本を見るのに、いつも最も古いものが要るわけではありません」
卓上に並べられたのは、同じ皇統区間を扱う三つの本だった。
ひとつは古い系譜抄本の断簡。
ひとつは典礼院系の継承記。
もうひとつは学術局整理後の照合本である。
ソフィアが見たかったのは、誰が即位したかではなかった。
誰が正統かでもない。
その正統が、いつから同じ顔で語られ始めたかだった。
最初の数葉までは、むしろ安心できるほどばらばらだった。
建国期の継承部では、断簡ごとに語が違う。
ある本は即位を戴冠と書き、ある本は推戴と書く。
皇后の家名を先に置く写しもあれば、諸侯誓署を先に書く写しもある。
欄外には後代の手が重なり、短い異議と補注が生きたまま残っていた。
そういう揺れは自然だった。
人が本を書けば、癖が出る。
どの語を避け、どこで息を継ぎ、何を欄外へ逃がすかに、その時代の恐れと利害が出る。
異本は一致しないから価値がある。
ソフィアは二冊を並べ、さらに一冊を少し斜めに置いた。
行数、割注、欄外の詰まり方。
ベルタは彼女の手元を見ながら、まだ結論を急がない顔をしている。
「ここまでは普通です」
ベルタが言う。
「ええ」
「違いはありますが、不自然ではない」
「そう。まだ人の筆です」
だが、ルートヴィヒ一世末期の継承部へ入ったところで、その自然さが途切れた。
最初に違和感を出したのは本文ではない。
欄外だった。
それまでの本には、余白の使い方にためらいがなかった。
小さく押し込む者、斜めに逃がす者、前代の注記へ噛みつくように後註を重ねる者。
それが、ある箇所から急に整いすぎる。
三本とも、欄外の空き幅が近すぎた。
紙の寸法も、写字の手も違うのに、補注の置かれる位置だけが同じだった。
右端の三行分が、まるで見えない定規で避けられたように、揃って白い。
ソフィアは最も古い断簡へ顔を寄せた。
紙は痩せ、墨は沈み、線はところどころ擦れている。
それでも、その白さだけが新しすぎた。
「ベルタ」
「はい」
「ここ、誰かが書かなかったのではないわ」
「書けなかった?」
「ええ。最初から、ここには何も入れない形で版面が決められている」
ベルタは別の本へ視線を移した。
典礼院系の継承記でも、同じ位置が薄く広い。
学術局整理後の照合本では、さらに露骨で、そこだけ欄外線がまっすぐ引き直されていた。
「偶然では」
「ありません。偶然なら、空き方が散る」
ソフィアは頁を繰った。
ルートヴィヒ一世崩御から、フェルディナント一世即位へ移る接続部。
皇統の継ぎ目として最も敏感なはずの箇所で、三本の本は急に礼儀正しくなっていた。
それまでの断簡には、
前王崩御後、諸家議長し、
とか、
后系証札別冊照合、
のような、書き手の位置が見える語が混じっていた。
ところが、そのあたりから文が揃い始める。
三本とも、細部は少し違うのに、要所の言い回しだけが同じ顔になる。
継承過程に混乱を見たが、諸機関の調停により秩序は保たれた。
その文が、一冊だけにあるなら別だった。
だが、写字の癖も紙質も異なる本で、同じ位置に、同じやわらかさの文が置かれている。
しかも、その前後だけはまだ揺れている。
揺れている流れの中に、その一文だけが整いすぎていた。
「公定史の語です」
ベルタが小さく言った。
「ええ」
「でも、これは皇統記録です」
「だからです」
ソフィアは答えた。
「皇統記録に公定史の文が混じったのではない。
皇統記録の方が、途中から公定史の文法で書き直されている」
彼女は学術局照合本の注記欄を開いた。
そこには注の数そのものは少なくない。
だが、その減り方が異様だった。
争点が減ったのではない。
争点の出し方だけが、あらかじめ許された形へ整えられている。
旧い断簡では、人名が主語になる。
誰が異を唱え、誰が署し、誰の婚姻が根拠として持ち出されたかが見える。
ところが整版本では、主語がすべて制度へ後退する。
当時の情勢に照らし。
継承上の整理が進められた。
便宜上、別冊参照。
人が消えたのではなかった。
人を消す書き方が、途中から急に上手くなるのだ。
ベルタは口を閉じたまま、古い断簡の左端を押さえた。
若い補佐官の手の下で、擦り切れた紙がわずかに鳴る。
「標準化、という可能性は」
彼は慎重に言った。
「学術局設置以後、様式が統一されたとか」
「様式の統一なら、書誌に残ります」
ソフィアは頁を返しながら答えた。
「写しの順序、引用符、略号、訂正記号に出る。
でもこれは違う。本文だけでなく、何を異本として残すか、その残し方まで揃えられている」
彼女は三本を縦に並べた。
同じ継承部の、同じ位置。
右欄外の空白。
本文中の婉曲句。
別冊参照の入り方。
どれも、違う本に見えて、違い方の種類が少なすぎた。
異本が異本として生きている時代は、もっと騒がしい。
書き手は、自分の時代の正しさを持ち込む。
だから乱れる。
だから読める。
だが、ここから先の本は、乱れ方まで統治されていた。
ソフィアは、もっと古い断簡の下へ挟まれた細紙を見つけた。
本来の附箋ではない。
後から紛れた、薄い照合票の切れ端だった。
端だけが残り、本文は失われている。
だが残った二語だけで、彼女には十分だった。
后系。
未了。
ベルタが息を呑んだ。
「先生」
「ええ」
「それは」
「断定には足りないわ」
ソフィアはすぐに言った。
足りない。
だが、足りないこと自体が今は大きかった。
后系未了。
その程度の語なら、ただの照合作業でも出る。
証札の到着待ちかもしれない。
地方庫からの返送遅延かもしれない。
その一行だけで、皇統の偽装など言えない。
だが問題は、その語が後の本から消えていることではなかった。
消えるならまだ分かる。
本当に気味が悪いのは、その消えた跡が、三本とも同じ幅で残っていることだった。
誰かが一冊を直したのではない。
どの版で、どの位置に、どの程度の揺れだけを残すかが、先に決められている。
そうでなければ、この整列は起きない。
「版が並んでいるんじゃない」
ソフィアは、ほとんど独り言のように言った。
「並べられているのよ」
皇統資料閲覧室は静かだった。
だがその静けさは、古地図庫の静けさとは違う。
向こうが残りものの部屋なら、こちらは残し方の部屋だった。
何を削るかではなく、
何をどの顔で残すか。
どの異論なら歴史の中に置いてよく、
どの異論は別冊へ飛ばし、
どの異論は欄外の白さに変えるか。
国家は、事実を消すより先に、
事実の揺れ方を決めている。
ベルタが低く尋ねた。
「この箇所だけですか」
「いいえ」
ソフィアは即答した。
「ここは接続部だから見えやすいだけ。たぶん、同じ処理は他にもある」
「では、皇統の矛盾が」
「矛盾そのものはまだ言えない」
彼女は断簡の端へ指を置いた。
紙は古い。
だが古さよりも、そこに届いた手の多さが重い。
「いま言えるのは、連続しているはずの皇統記録が、ある時点から異本としての生き方をやめているということ。
血が偽物だとは、まだ言えない。
でも、血が本物に見えるよう、版の揺れ方まで整えられているとは言える」
その言葉を口にした瞬間、彼女は昨日の古地図の端を思い出した。
地図では、通過の層だけが残されていた。
こちらでは、継承の層だけが整えられている。
違う場所のはずなのに、同じ手つきが出ていた。
使える部分だけを生かし、
不都合な深さは別冊へ送り、
本文は滑らかに見せる。
戦場も、地図も、皇統も、
この国ではまず編集の形式から先に揃う。
閲覧係が時間を告げに来た。
やわらかな声だったが、内容は硬い。
延長には追加の許可票が要る。
この部屋では、考える時間まで帳簿で量られる。
ソフィアは頷き、必要頁を控えへ写し始めた。
全文ではない。
揺れの位置だけでよかった。
同じ婉曲句がどこに現れ、
どの欄外が同じ幅で沈黙しているか。
それが分かれば、版面そのものが証言になる。
前室へ戻ると、ユリウスが壁際で待っていた。
扉の内側へ入れなかった男の顔は、苛立っているというより、計算している時の顔に近かった。
「見えたか」
彼が言う。
ソフィアは手袋を外しながら答えた。
「ええ。ただし、血統の嘘が見えたわけではない」
「なら、何が見えた」
「皇統が連続しているように見える方法です」
ユリウスは少しだけ目を細めた。
彼は説明の早い人間ではない。
だが、要点の位置だけはすぐ掴む。
「記録が揃いすぎている?」
「ええ。異本なのに、異本として残っていない。
途中から、違う本が違う仕方で間違えるのではなく、同じ仕方で整えられている」
「誰かが一度、全部通した」
「たぶん一度ではないわ」
ソフィアは言った。
「通し直してる。必要な時代ごとに」
ユリウスはそれ以上すぐには問わなかった。
その沈黙で、彼がもう別のところまで考えていると分かった。
この男は、史料の異常を知識の快楽として受け取らない。
それが戦争に、国家に、次の破局への備えにどう繋がるかを先に見てしまう。
「この国は」
彼が低く言う。
「血を守ってるんじゃないな」
ソフィアは首を振った。
「血が正しく見える形を守っているのよ」
前室の奥で、鍵が一つ回る音がした。
短く、乾いた音だった。
だがソフィアには、それが頁を閉じる音ではなく、版を揃える音に聞こえた。
皇統は、断絶しているとはまだ言えない。
けれど連続しているとも、もう前のようには読めなかった。
ある箇所から先、
この国の歴史は書かれているのではない。
正しい揺れ幅だけを残して、配り直されている。




