第四話「春泥」
泥は、敵より先に人を選ぶ。
撃たれる前から、沈む者がいる。
トーマス・ゲイルは、壕の底で靴を脱ごうとしてやめた。
両手で踵を引いても、革は足から離れない。靴そのものが泥に噛まれていた。無理に引けば靴下ごと剥がれ、次に履くとき、冷えた布が皮膚へ貼りついて歩けなくなる。そういうことは、教本ではなく隣の兵の足で覚える。
彼は諦めて、膝を抱えるようにして座り直した。
集結壕の壁は半ば崩れ、掘り返した土と雨と踏み荒らされた粘土が一緒くたになっている。誰かが敷いた板は、最初の三歩ぶんだけ役に立ち、その先はもう泥の下だった。夜のあいだに降った細い雨が、天蓋代わりの防水布を叩いている。雫は端から絶えず垂れ、壕の底にできた黒い水たまりへ落ちて、油膜のような色を揺らした。
寒い、というより、湿っている。
全身が、ゆっくり別のものに変わっていく感じがした。外套は水を吸い、下着は皮膚へ張りつき、指先は自分のものなのに感覚だけが薄い。鼻の奥には泥と煤と馬糞、それに濡れた羊毛の匂いが詰まっていた。
壕の向こうで、誰かが咳き込んだ。
「また寝てたのか、新兵」
声をかけてきたのは、フリッツ・ケルナーだった。
年の頃は三十を少し越えたあたりだろう。頬がこけ、髭は無精のままだが、目だけは妙に乾いている。古参兵に特有の、何を見ても驚かない目だった。彼は壕の斜面に背を預け、濡れた煙草を指で弄びながら、トーマスの足元を一瞥した。
「脱ぐなよ。次に履くとき地獄を見る」
「脱いでません」
「顔が脱ぎたそうだった」
フリッツはそう言って、煙草を諦めた。湿気で火が移らないと分かっているのだろう。器用に耳へ挟み、代わりに水筒を一口だけ飲んだ。喉を鳴らす音まで、節約しているように聞こえる。
トーマスは壕の外へ目をやった。
夜は明け切っていない。だが空は低く、雲の向こうから白んだ光が泥濘を平たく照らし始めていた。前方には灰白河へ向かう低地が広がっているはずだが、ここから見えるのは踏み荒らされた連絡路と、途中で沈んだ輜重車の車輪、それに馬の脚だけだった。胴体は泥の向こうにあって見えない。脚だけが、折れた杭みたいに斜めに突き出ている。
昨夜のうちに引き抜けなかったのだ。
「明日には臭うかな」
トーマスが呟くと、フリッツは頷いた。
「明日までそのままならな」
その言い方が妙に引っかかった。
明日まで。つまり、こちらの攻勢が始まれば、馬一頭の始末をしている暇もなくなるということだ。壕の中にいる者は皆それを知っていた。誰も口に出さないだけで、全員が同じ時刻の方を向いている。
壕の上を、伝令が一人走っていった。
泥で足を取られ、二度よろけ、それでも転ばなかった。拍手するほどのことでもないが、この地面ではそれだけで少し尊敬できる。伝令の背には書類筒が括りつけられている。どこかでまた命令が書き換わったのだろう、とトーマスは思った。前日から、上から降りてくる言葉は何度も形を変えていた。
前進時刻。
工兵集合。
渡河材の移動順。
予備中隊の待機位置。
紙の上では整っているのだろうが、ここへ来るころには泥を一度くぐり抜ける。そのせいか、命令はいつも地面の都合より少しだけ遅い。
「今朝のは何だと思います」
トーマスが尋ねると、フリッツは肩をすくめた。
「どうせ同じだ。早く動け、遅れるな、沈むな、死ぬな。その順番が少し入れ替わるだけだ」
壕の反対側で笑いが起きた。
笑ったのは若い兵ばかりだった。寒さに歯が鳴るのを誤魔化すための笑いで、長くは続かない。すぐに誰かが「あの河の向こうは石が出るらしい」と言い出し、笑いはそのまま別の色へ変わった。
トーマスは耳をそばだてた。
こういう話は、止めろと言われるほど早く広がる。
「また始まった」
フリッツが面倒そうに言った。
三人ほど向こうで、顔の赤い兵が声を低くしていた。
「ほんとだって。昨日、前哨の荷運びから戻った奴が言ってた。河辺を掘ると、土の下から石が出るんだと。しかも、角が立ってるやつが」
「石なんてどこでも出る」
「畑の石とは違う。平たいんじゃない。壁みたいに立ってるって」
「壁が埋まってんのか」
「知らん。ただ、地図にないって話だ」
壕の中が、そこで少しだけ静かになった。
地図にない。
それは兵にとって、祟りや怪物より嫌な言葉だった。見えているのに書かれていないもの。書かれているのに現地にないもの。そういうずれがある場所では、たいてい死ぬ理由だけが後から増える。
別の兵が、鼻で笑った。
「じゃあ何だ、昔の城でも沈んでるってのか」
「城なら城で書くだろ」
「書けない城なんじゃないか」
「やめろよ」
笑った者も、止めた者も、本気では信じていない顔をしていた。だが、完全に馬鹿にもしていない。そこが嫌だった。戦場の噂は、嘘ならもっと大きい。妙に細かい話だけが、あとまで残る。
トーマスは視線を落とした。
泥の表面に、細い泡がいくつも浮いては消えていた。まるで地面そのものが息をしているみたいだと思って、すぐにその考えを追い払う。
兵は疲れると、何でも生き物のように見始める。
「お前は聞いたことあるか」
フリッツが、不意にそう言った。
「何をです」
「石の話だよ」
トーマスは首を振った。
「初めてです。怪談なら昨日も聞きましたけど」
「怪談じゃない」
フリッツの声は低かった。いつもの乾いた冗談半分の調子ではない。
「河向こうだけじゃない。こういう話は前にもあった。掘ったら変な石組みが出たとか、誰も住んでないはずの低地に古い杭列が埋まってたとか、地図の縮尺が妙に合わないとか」
「じゃあ本当に」
「本当かどうかじゃない」
フリッツはそこで言葉を切り、壕の外を見た。
「そういう場所は、上が妙に欲しがる」
トーマスは黙った。
向こうの兵たちの話し声も、いつの間にか細くなっている。誰かがパンを齧る音だけがした。固い乾パンではなく、湿って少し柔らかくなった黒パンだ。噛むたび、嫌な音がする。
「欲しがる?」
「死守しろとか、何としても取れとか、何でそこなのか説明もなく命令が降りる。そんな場所がある。兵站の要地だの渡河点だの、理由は後からいくらでもつく。だが、先に決まってる感じがする場所があるんだ」
「先に、ですか」
「そうだ」
フリッツは短く頷いた。
「将軍が地図を見て決めたってより、最初からそこへ引っぱられてるみたいな場所だ」
そこで彼は、自分の言い過ぎに気づいたらしかった。口を閉じ、水筒の蓋を締め直した。金具の音が、やけに大きく響く。
トーマスはそれ以上聞かなかった。
古参兵が言葉を止めるときは、たいてい理由が二つある。本当に知らないか、本当は知っていて、口にする価値がないと思っているかだ。どちらにせよ、新兵がねばって聞き出してもろくなことにならない。
壕の入口から、炊事兵がぬるい湯を配りに来た。
金属椀へ注がれた液体は茶色く濁り、何の味もしなかった。だが熱だけはあった。トーマスは両手で椀を包み、その頼りない温度が指先へ移るのを待った。温かいものを持っている間だけ、人はまだ壊れていないと思える。
壕の外では、工兵が板を運んでいた。
渡河材ではない。連絡路へ敷く応急の歩板だ。二人がかりで担いでも、半分以上は泥に埋まる。工兵たちの顔には、前線歩兵とは別種の疲れがあった。彼らは撃たれる前に、まず地面と戦っている。
その中に、一人だけやけに背筋の伸びた少尉がいた。
泥まみれなのに、どこか図面の上から降りてきたような雰囲気がある。工兵のマルタ・シュタインだと、隣の兵が小声で教えてくれた。橋だの壕だのの設計を任されている実務屋で、将校のくせに怒鳴らず、自分で泥へ入るから工兵連中に嫌われていないらしい。
マルタは歩板の沈み方を見て、何か指示を出した。
すぐに運ぶ順番が変わり、太い板が先に、細い板があとになった。ほんの些細な違いだが、そのあと兵が歩く速度は目に見えて変わった。こういう場面を見ると、戦争は勇気より先に、手順で死者数が決まるのだと分かる。
「工兵は偉いな」
トーマスが言うと、フリッツは鼻を鳴らした。
「偉いんじゃない。まともなだけだ」
「同じです」
「違う。偉いやつは、だいたい泥の外にいる」
その通りだったので、トーマスは少し笑った。
笑うと頬の皮膚がひび割れそうに感じる。寒さで顔が固まっているのだ。
昼前になるころには、壕の中の空気はさらに悪くなった。
兵が増えたからだ。集結壕はもともと一個中隊を想定した広さしかないのに、今はその倍近い人数が押し込まれている。誰かの背嚢が誰かの膝へ当たり、銃床が肩へ食い込み、立ち上がるだけで三人が動かねばならない。上から見れば整然とした待機だろうが、中では人間が荷物に近い扱いへ変わっていく。
命令がまた回ってきた。
前進は明朝未明。
第一梯隊は指定順に連絡路へ集結。
火器・工兵材の持ち出し順厳守。
沈没輜重は後回し。
最後の一文に、壕のあちこちで乾いた笑いが漏れた。沈没輜重を後回しにせよ、というのは命令として正しいのだろう。だが実際には、後回しにされたものの上へまた別の荷が積み重なり、翌朝には道そのものになる。そうやって戦争は、放棄を手順へ書き換えていく。
エリナ・ヴァイス准尉が、その命令を伝えに来たのは午後だった。
若い。しかも女だ。最初に見たとき、トーマスはこんな場所へ来る種類の人間には見えないと思った。だが彼女は壕の入口で足を止めず、裾を汚すことも気にせず斜面を下り、伝令へ二言三言だけ告げた。それだけで、さっきまで詰まっていた人の流れが少し動いた。
「第四小隊、右側へ寄せてください。歩板の列を空けます。食糧箱は先に出さないで。先に出すと誰かが座ります」
口調は丁寧なのに、内容は妙に現場的だった。
座ります、で何人かが苦笑する。
その通りだからだ。箱があれば人は座る。座れば動かない。動かなければ列が死ぬ。そういう詰まりは、前線では砲撃より先に兵を殺す。
エリナは紙片を見ずに、必要なことだけを短く言った。
そのあと、壕のさらに奥で誰かに呼ばれ、すぐに姿を消した。残ったのは、濁った空気がわずかに流れ直した感覚だけだった。
「書類屋にしちゃましだな」
誰かが言った。
フリッツが答える。
「書類屋だからだ。死ぬ場所を知ってる顔だ」
トーマスには、その言葉の意味が半分しか分からなかった。
だが、あの准尉が来たあとの壕は、少しだけ歩きやすくなっていた。そういう変化は、兵にはよく分かる。偉い将軍の名前より、こういう小さな詰まりを減らす人間のほうが覚えやすい。
夕刻には雨がやんだ。
その代わり、冷えが増した。
湿った空気が落ちてきて、低地全体が薄い霧へ沈み始める。灰白河そのものはまだ見えない。だが河がある方角だけ、色が違った。地面の暗さの中に、もっと鈍い白が横たわっている。あそこへ行くのだ、と考えると、腹の底がゆっくり重くなる。
壕の上で、砲兵隊が移動を始めた。
車輪が泥を噛み、砲架が軋み、馬の息が白く立つ。野戦砲はまだ後方だが、前進観測のための器材が先に運ばれていく。工兵は連絡路の補修を急ぎ、通信兵は濡れた線を手で払いながら有線を延ばしていた。誰も走ってはいない。だが全員が、明朝までの時間が足りないと知っている動きだった。
「あの」
トーマスは、小さく呟いた。
「少尉は、あれを分かってると思いますか」
「どの少尉だ」
「アーデルハイト少尉です」
フリッツはしばらく黙った。
ユリウス・アーデルハイト。
この二日で何度か、その名は兵のあいだにも流れていた。上で将軍に食ってかかっただの、作戦図の前で嫌な顔をしただの、命令が変わったのはあの若い少尉が騒いだからだの。どこまで本当か分からない。だが、現場では名前より先に空気が伝わる。嫌な予感を持っている将校が一人いる、と。
「分かってるかもな」
フリッツは言った。
「だが、分かってることと止められることは別だ」
「じゃあ意味ないじゃないですか」
「意味はある」
古参兵は、珍しくはっきりした声で言った。
「止められなくても、見えてる奴がいるだけで、死に方は少し変わる」
トーマスはその言葉を胸の中で転がした。
死なない、ではない。
勝つ、でもない。
死に方が変わる。
それがこの戦場で言える精一杯の希望なのだとしたら、ずいぶん小さい。だが小さいからこそ、本物のようにも思えた。
日が落ちるころ、兵たちは各自の装具を点検した。
銃身の泥を拭く。
弾薬盒の革紐を締め直す。
濡れた靴紐の結び目を作り替える。
乾パンを半分だけ残す。
水筒の中身を確かめる。
銃剣を抜き、戻す。
どれも明日のための手順だ。だが実際には、手順をなぞることで今夜を持たせているだけかもしれない。人は準備をしている間だけ、まだ自分に順番が回ってきていないと思える。
トーマスは背嚢の底から、家から持ってきた布切れを取り出した。
母親が包みとして使っていたもので、もう匂いは残っていない。それでも、指先で触ると、戦争の外側に手が届く気がした。彼はそれをすぐにしまい直した。ここで長く見ていると、隣の兵まで家を思い出してしまう。
誰かが、小声で歌い出した。
すぐに別の誰かが止めた。今はやめろ、と。縁起でもないのか、単に耳障りだったのかは分からない。どちらでもよかった。歌が始まる夜は、たいてい翌朝に人が死ぬ。
空が完全に暗くなると、前方で時折、鈍い光が明滅した。
敵の照明弾ではない。たぶん向こうも、こちらと同じように泥の中で何かを動かしている。河を挟んだ両側で、人間はまるで同じことをしているのだろう。冷えに耐え、命令を待ち、地面の都合に悪態をつき、それでも朝には前へ出る。
戦争の理由なんて、兵にはほとんど届かない。
届くのは、地面の固さと、命令の時刻と、砲声の順番だけだ。
深夜に近づくと、壕の中の会話は自然と減っていった。
眠っている者はいない。だが皆、眠ったふりを始める。目を閉じていれば、少なくとも次の命令が来るまでは自分が選ばれていない気がする。トーマスも外套の襟を立て、銃を抱えたまま目を閉じた。
そのときだった。
遠く、後方で、最初の一発が鳴った。
重い。腹の底へ来る音だ。野戦砲ではない。もっと奥に据えた砲兵群の試射か、照準合わせの一門だろう。音は低地を這うように流れ、泥の表面を震わせた。
壕の中の全員が、目を開けた。
二発目が来る。
三発目が来る。
次第に間隔が詰まり、やがて後方全体が鈍く唸り始める。砲兵は、夜明けを待たずに仕事を始めたのだ。
フリッツが立ち上がった。
「来るぞ」
誰に言うでもなく、そう言った。
トーマスも立つ。膝が固く、最初の一歩で足が痺れた。だが立てる。まだ立てる。それだけを確かめるように、彼は銃の負い革を引き、背嚢の紐を締め直した。
壕の外では、砲声がもう一つ増えていた。
空気が震え、泥の水面に細かな波紋が走る。灰白河の方角は見えない。それでも、あの白い低地の向こうで、明日から何が始まるのかだけは分かった。
トーマスは無意識に、足元の泥を見た。
黒い。重い。冷たい。
そして、深い。
この地面は、人を前へ通すふりをして、半分は最初から呑むつもりでいる。
砲声が連なった。
そのたび、壕の壁から湿った土がぱらぱらと落ちる。
誰かが十字を切り、誰かが悪態をつき、誰かが何も言わずに歯を食いしばる。トーマスはただ、耳の奥で鳴り続ける音を聞いていた。もう眠気は消えていた。寒さも、腹の底の重みも、その音の向こうへ押しやられていく。
明朝未明前進。
その一文が、今度は紙ではなく砲声で届いた。
トーマスは銃床を握りしめた。
灰白河へ向かう夜が、動き始めていた。




