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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第二章「帝都に穿たれた空白」

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第三十六話「欠字の名簿」

死者の名は、消されるより先に、薄く書かれる。


追悼式でもらった小冊子は、持っていることを忘れるほど軽かった。

だがエリナの鞄の中で、それは前線から持ち帰った灰白河方面戦没者暫定集計より重く感じられた。

紙の厚さではない。

あちらは悼むために作られ、こちらは忘れないために残された紙だった。


朝の軍務省は、典礼院より実務的で、参謀本部より鈍かった。

階段の石は減っているのに、手すりの真鍮だけがよく磨かれている。

廊下の両側には、補充要員一覧、再編予定表、軍籍異動控え、欠員表。

英雄の肖像はなく、代わりに数字が壁の顔になっていた。


ここでは勲章より欠員欄の方が強い。

追悼式で見た白い花より、この国の戦争はむしろこちらで続いているのだとエリナは思った。

誰が死んだかではなく、どこに穴が開いたか。

それを埋める手順の方が、ずっと丁寧に整えられている。


軍務省記録室は北棟の奥にあった。

扉は厚く、蝶番の音が小さい。

中へ入ると、乾いた紙と糊の匂いがまず来た。

前線の書記壕のような湿り気はない。

湿っていないことが、かえって冷たかった。


棚は高く、見出し札が等間隔に揃っている。

方面軍別、軍団別、連隊別、月別、損耗区分別。

死者と負傷者と行方不明者が、同じ几帳面さで背表紙へ押し込まれていた。

卓は広いが、人は声を落として動く。

ここでは怒鳴る必要がないらしい。

紙が先に、黙らせるからだ。


受付卓の向こうにいた記録係は、四十前後の男だった。

痩せた顔に丸眼鏡をかけ、袖口だけが妙に白い。

東方軍司令部系統の臨時照会札を見せると、男は一度だけエリナの肩章を見て、それから視線を紙へ戻した。


「照会対象を」


「灰白河方面局地再編戦の戦没者名簿です。追悼式配布抄録と、前線暫定集計の照合をしたいのですが」


男は抄録冊子を受け取り、頁を繰った。

そこに載っているのは昨日、慰霊殿でユリウスが見ていたあの整った一覧だ。

方面、連隊、戦没者数。

工兵は連隊附、電話班は附属通信要員、観測補助は補助要員。

死に方の違う者たちが、帝都へ来た時点で、同じ欄へ沈められている。


男は少し考えてから、後ろの棚へ向かった。

しばらくして運んできたのは、厚い本簿が二冊、薄い索引控えが一冊。

革表紙に押された金字は簡潔だった。


東方軍戦没者本簿 帝国暦千九百二年秋季整理分


「奉掲用の本簿です」

男は言った。

「追悼抄録の元になります。照合でしたら、こちらで足りるはずですが」


足りるはず。

その言い方が、もう足りないことを示していた。


エリナは礼を言い、卓の端へ移った。

鞄から前線暫定集計を出す。

灰白河後方駅で綴じ直した薄い冊子。

欄外には彼女自身の細い補記が入り、時刻の訂正、識別票番号、持ち物返送控え、仮埋葬位置の目印まで残してある。

前線では、残せるうちに残すしかなかった。

帝都へ来てからは、残したものが何に変えられるかを見るしかない。


最初の数頁は、見た目の上では合っていた。

方面軍の総数。

旅団ごとの死者数。

歩兵連隊単位の損耗。

数だけなら、追悼式の抄録と本簿はきれいに噛み合う。


だが、細目へ下りたところで、紙の温度が変わった。


第一東方方面軍。

灰白河方面。

局地再編戦。

ここまでは同じ。


その下で、前線集計では独立していた欄が、軍務省本簿では丸められている。

工兵仮設架橋分隊三名。

電話班二名。

観測補助一名。

前線では、最初に死んだと言ってよかった連中だ。

本簿では、まとめて「連隊附技術要員 六」としかない。


エリナの指が止まった。


もう一度見る。

薄い索引控えも引く。

索引には姓名順の札がある。

だがそこでも、妙な切れ方が続いていた。


メルク。

姓はある。

名の欄は、二つの升目だけきれいに空いている。


クライン。

こちらも姓だけ。

その右に小さく朱で、補一。


ノルデン。

行自体はある。

だが所属欄の中央だけが抜け、前後の字だけが残っていた。

にじみではない。

汚れでもない。

そこだけ、最初から置かなかったように白い。


欠字だった。


エリナは前線暫定集計を開き直した。

オットー・メルク。

橋材ごと沈んだ工兵一等兵。

識別票番号は控えてある。

持ち物は折れた懐中時計、濡れた書簡一通、識別票、工具袋。


エーリヒ・クライン。

電話班。

有線敷設中、断線修正の最中に砲撃。

遺体確認者はフリッツ・ケルナー、マルタ・シュタイン。


ヨナス・ノルデン。

観測補助。

北側観測壕。

頭を上げて戻らず。

回収時刻まで、彼女自身が書いた。


紙の上では、たしかに存在していた。

前線では、死んだ場所も持ち物も誰が見たかも、残してある。

それなのに帝都の本簿へ来た途端、姓だけになり、欄外の記号へ回され、あるいは所属の真ん中を失っている。


エリナは一頁ずつ追った。

抜けているのは偶然ではなかった。

歩兵本隊の戦死者は、家名も名も所属も比較的きれいに残る。

将校はなおさらだ。

だが、連隊附、臨時編入、再編過程で付け替えられた技術要員、電話班、観測補助、工兵分遣。

灰白河で実際にはいちばん重要だったところほど、記載が粗くなる。


粗いのではない。

辿れないようにされている。


「何か不備がありましたか」


記録係が静かに寄ってきた。

エリナは本簿を閉じなかった。


「この欄です」

指で示す。

「前線控えでは個人別に残っている者が、本簿では要員一括になっています。索引でも姓だけ、あるいは欠字があります。しかも同じ記号が続いている」


男は眼鏡を押し上げ、本簿を覗いた。

それから、驚きもせずに答えた。


「奉掲用ですので」


「奉掲用」


「追悼、掲示、抄録配布に回す本簿です。臨時再編部隊、連隊附、原所属との重複が生じる者は、整理上、簡略記載になります」


整理上。

昨日、小冊子の欄外にあったあの穏やかな言葉だ。


「簡略記載で、名が欠けるんですか」


「重複整理の都合です」


「都合」


「同一人物が原所属と現所属の双方へまたがる場合がありますので」


男の声は事務的だった。

悪意はない。

悪意がないことが、かえって息苦しい。


エリナは前線暫定集計の頁をめくり、識別票番号の並びを示した。


「この三名は、二重計上ではありません。現場確認者もあります。仮埋葬も一箇所です。原所属が別だったとしても、死んだのは灰白河です。しかも本簿側では所属欄まで欠いている」


男は少しだけ黙った。

そこで初めて、彼は本当に紙を見た顔になった。


「……本簿は、細目を保持するためのものではありません」


「では何のためです」


「奉掲のためです」


同じ答えだった。

だが今度は意味がはっきりした。


悼むためではない。

見せるためだ。


エリナは抄録冊子を開いた。

昨日、慰霊殿で配られた上質紙。

持ちやすく、軽く、よく整った戦没者奉掲一覧。

そこでは人は、国家が悼んだことにできる形でだけ残される。

具体の死に方も、誰が何を持って沈んだかも、そこへ辿る導線も要らない。


「完全な記載は、別にあるんですね」


男の視線が、ほんの少しだけ動いた。


それで十分だった。

ある。

そして、それはここには出ていない。


「補助簿がありますか」


今度は、男はすぐには答えなかった。

後ろの棚では別の書記が帳簿を戻している。

紙の擦れる音だけが聞こえる。

その静けさの中で、答えないということ自体が一つの答えだった。


やがて男は声を落とした。


「あります」


エリナの胸の奥が、冷えたまま一度だけ速く打った。


「見せてください」


「当室配架ではありません」


「どこに」


「別綴です」


「どこの管掌です」


男はそこでも一拍置いた。

聞き慣れていない質問なのだろう。

記録室に来る者の多くは、紙があるかないかだけを確かめる。

紙がどこへ退いたかまで聞く者は少ない。


「原整理補助簿、ならびに重複照合控えは、別管です」


「軍務省内ですか」


「……照合経路が違います」


「見せてください」


「閲覧札が必要です」


その言い方は柔らかかった。

だが、扉を閉める音に似ていた。


閲覧札。


昨日まで、エリナにとってそれは学術院や皇統史料の側にある言葉だった。

古地図、異本、再目録化、別管保全。

そういう高いところで人を止めるための語だと思っていた。

それが今は、灰白河で死んだ電話班と工兵と観測補助の名へ届く手前に置かれている。


国家の空白は、もっと遠い場所の話ではなかった。

兵の名のところまで降りてきている。


エリナは本簿の余白を見た。

端に、細い朱字が並んでいる。


補一。

補三。

重。

別。


穏やかな記号だった。

けれど、その一字一字の下に、人がいた。

橋材を抱えたまま沈んだ者。

断線を繋ごうとして死んだ者。

観測壕で空を見たまま帰らなかった者。

彼らは消されてはいない。

消してはいないのだと、たぶんこの国は言う。


ただ、本簿からは少しだけ外される。

姓だけ残し、所属の真ん中を抜き、補助簿という別の暗い棚へ送る。

存在したことは残す。

だが、そこへ辿る道だけを細くする。


エリナは静かに本簿を閉じた。


「この処理、よくあるんですか」


男は首を傾けた。


「戦時ですので」


「戦時だと、人の名が欠けるんですか」


「戦時ですので、整理が優先されます」


それ以上、男を詰めても意味はないと分かった。

この人間が決めたのではない。

たぶん、彼は手順どおりに処理しているだけだ。

その手順の形の方が、問題だった。


彼女は前線暫定集計を綴じ直した。

抄録冊子、本簿の照合控え、索引の記号。

必要な頁番号と記号だけを小さくメモへ落とす。

補一。

補三。

別管。

閲覧札。


記録係は、その筆記を止めなかった。

止める必要がないと判断したのだろう。

本簿にある記号を書き写すだけなら、まだ違反ではない。

違反は、その先にある。


立ち上がると、椅子の脚が短く鳴った。

記録室の窓は高く、昼の光が棚の上だけを白くしている。

下の列は薄暗いままだ。

この国の記録の作り方に、よく似ていた。

上の段は見える。

下の段は、あると知っている者だけが覗く。


扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。

棚は整い、背表紙は揃い、何一つ乱れていない。

それなのに、そこには昨日の慰霊殿よりはるかに大きな不敬があるように思えた。

ここでは死者が軽んじられているのではない。

整えられすぎている。

整えられた結果、人が人でなくなる。


廊下へ出ると、軍務省の空気は記録室より少しだけ生ぬるかった。

向こうから補充担当らしい軍政官が、再編表を抱えて足早に通り過ぎる。

別の卓では、欠員補充の打鍵が続いている。

誰も灰白河の死者を悼んではいない。

悼まない代わりに、埋める穴として扱っている。


その時、廊下の窓際に寄りかかるようにして立つ影が見えた。

ユリウスだった。

軍帽を手に持ち、壁の掲示を読むふりをしている。

彼がこうして待っている時は、待ちながら別のものまで見ている。


「どうだった」


エリナは近づき、周囲に人がいないのを確かめてから答えた。


「数は合っています」


「そうか」


「合って見えるように、です」


ユリウスの目が少しだけ細くなった。


エリナは手帳を開き、記号を書いた頁を見せた。


「本簿は奉掲用でした。個別の死が、連隊附とか補助要員とか、通る欄へ丸められています。しかも一部は姓名や所属に欠字があります。汚れじゃありません。最初から抜いてあります」


「理由は」


「重複整理だそうです」


「補助簿は」


エリナは頷いた。


「あります。ただ、別綴です。別管で、閲覧札が要るそうです」


その言葉を聞いても、ユリウスは驚かなかった。

驚かない代わりに、目の奥のどこかだけが冷たく固まった。


「消してはいないんですね」


エリナは自分でも少し意外なほど静かな声で言った。

「残してはいます。けれど、本簿には辿れない形で」


ユリウスはしばらく何も言わなかった。

廊下の向こうで紙束が揃えられる音がした。

軍務省の午後は、穏やかだった。

穏やかであることが、不気味だった。


やがて彼は手帳の記号を見ながら言った。


「なら、次は紙ではないな」


「はい」


「権限だ」


その一語が、廊下の空気を変えた。


エリナは手帳を閉じた。

昨日まで、追悼式の小冊子にある不自然な粗さは、帝都らしい冷たさに見えていた。

だが今は違う。

あれは冷たさではない。

導線だった。

死者へ届く道を、国家の中でどこまで許すかを決める、静かな導線。


軍務省の窓の外では、九月の空が高く晴れていた。

帝都は今日も整っている。

その整いの下で、灰白河で死んだ者たちの名は、まだどこかの棚にある。


ある。

けれど、そこへ届くには、許可が要る。


それが分かっただけで、追悼式の白い花より、この国の方がよほど冷たく見えた。

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