第三十四話「学術院からの照会」
紙は、戦場を離れると別の冷たさを持つ。
帝都宿舎の机に積まれた記録束は、もう泥の匂いより乾いた糊の匂いを強くしていた。
それでもエリナには、束ごとに手触りが違うと分かる。
砲着修正の原簿は重い。
分隊長の口述写しは薄い。
捕虜供述の原文は、どの写しよりも言葉の置き方が荒い。
そして、その朝届いた一通だけが、どれとも違う温度を持っていた。
厚手の照会用紙。
宿舎付書記を経て回された封緘。
印は帝国学術院連絡室。
軍務省でも、参謀本部でも、枢密書記局でもない。
そこにまず、異物感があった。
エリナは封を切る前に、差出欄と回付欄を見た。
回付は短い。
形式も整っている。
だが整い方が、官庁の文より少しだけ学者くさい。
結論を先に置かず、
必要箇所を狭く切り出し、
断定より照合を先に置く。
それだけで、書いた人間の癖が見える。
開いてすぐ、彼女の指が止まった。
照会事項は三つ。
灰白河西側廃駅周辺の現地略図。
同地点に関する砲着修正表の原欄。
および、地点呼称の不統一を含む捕虜供述原文。
最後に小さく追記があった。
露出石材、旧線路基部、整理保留地帯の各表記が同一地点を指す可能性につき、原票照合を求む。
エリナは紙から目を離した。
普通ではなかった。
学術院が戦場記録を求めること自体は、まったくないわけではない。
戦史編纂、地誌整理、旧街道調査。
帝都には、戦争が終わる前から戦争を本へ閉じようとする人間がいる。
だが、そういう照会はもっと遅い。
もっと丸い。
勝敗が固まり、戦果が磨かれ、余計な記述が削られた後に来る。
まして、原欄を名指しで求めることはない。
誰もが要約を欲しがる帝国で、
原票を欲しがる文は、それだけで目立った。
しかも、この紙は削られた箇所を知っている。
露出石材。
旧線路基部。
整理保留地帯。
同じ場所を、上へ行く紙ほど別の名前で呼んだ。
それに気づいていたのは、記録を束ね直したエリナ自身と、
最初から「どこで言葉がずらされたか」を見ていたユリウスだけのはずだった。
ノックは一度だけだった。
「入れ」
返ってきたのは、いつもの短い声だった。
ユリウスは窓際の小机で、前線改善案の再提出用草案を直していた。
机の上には通信訓練の標準案、下士官教育の試案、観測記録様式の改訂案が並んでいる。
帝都へ来てからも、彼の目は相変わらず次の戦争に向いていた。
エリナは照会文を差し出した。
「妙なものが来ました」
ユリウスは受け取り、最初に本文でなく末尾の追記を読んだ。
そのあと差出欄へ戻り、また本文を読む。
目の動きが速い。
だが、慌てているのではない。
必要な順で読んでいるだけだ。
「学術院」
「はい。しかも連絡室どまりです。学術局を通っていません」
「通せば止まると見たのかもしれない」
エリナは黙って彼を見た。
彼は紙を置き、追記の一行へ指を置いた。
「原票照合。戦史屋の言い方じゃない」
「私もそう思いました」
「何かと何かを、もう比べている」
彼の声に、好奇心の熱はなかった。
珍しいものを面白がる学者の声ではない。
壊れた橋を見て、次に誰が落ちるか考える時の声だった。
「少尉」
「何だ」
「心当たりはありますか」
「ある」
即答だった。
「戦場図じゃない。別の地図だ」
エリナは小さく息を止めた。
「そこまで行きますか」
「戦場記録だけで、露出石材まで拾う理由が薄い。
呼称の揺れまで集めるなら、同じ地点を別の系統で持っている人間だ」
彼はそこで照会文をたたみ、机の端へ置いた。
「問題は、真実に近いかどうかじゃない」
「では」
「この国の地図が、戦場ごとにずれている可能性があることだ。
地図のずれは、一会戦の失敗で済まない」
エリナはその言い方に、いつものものを聞いた。
栄誉でも、陰謀でもない。
損耗の勘定だ。
この人は何を見ても、最後にはそこへ戻る。
誰が勝つかではなく、
次に何人死ぬかへ。
「返しますか」
「返さない」
「出しますか」
「出し方を選ぶ」
彼は少し考え、それから言った。
「お前が先に行ってくれ」
「私が」
「連絡室なら、言葉の癖が出る。
何を知っていて、何をまだ知らないか。
お前の方が拾える」
エリナは照会文を取り返しながら、半歩だけ眉を寄せた。
「少尉は行かないんですか」
「あとで行く。
だが最初に俺が出れば、向こうは人を読む。
お前なら文を読む」
それは、信頼の言い方としてはひどく素っ気なかった。
だがエリナには分かる。
この人は、役に立つから任せると言う時だけ、少しだけ本音に近い。
「分かりました。何を持っていきますか」
「原票そのものは持つな。
一覧だけ作れ。
何があるかだけ見せて、どこまで見たいかを言わせる」
「試すんですね」
「必要な範囲をだ」
「向こうも同じことを考えていたら」
「その時は、ようやく話が早い」
宿舎を出ると、八月の終わりの熱が石畳の上にまだ残っていた。
帝都は前線の暑さと違う。
土の下から上がってくる熱ではなく、
石と壁が一日かけて溜めこんだ熱だ。
馬車の窓から見える街路は整いすぎている。
兵営、倉庫、官庁、記章店、書籍商。
どの建物も、戦争を遠くに置いた顔をしていた。
だが、その整いの中でだけ、
見えなくなるものがある。
学術院は、宮廷の建物ほど高くなかった。
正面は地味で、柱も細く、威圧のための沈黙を持たない。
代わりに、階段の擦り減り方と窓枠の古さに、
長く人が出入りしてきた建物の癖が出ていた。
連絡室は本館脇の渡り廊下の先にあった。
入った瞬間、エリナは空気の違いを知った。
ここは宮廷より散らかっていて、
軍務省より熱があった。
壁際の棚には地図筒が立ち、
結び紐の色だけで系統を分けた綴りが積まれ、
奥では誰かが早口で年号を言い合っている。
同じ紙の匂いでも、
ここでは紙が隠すためでなく掘るために使われていた。
窓口にいた若い書記官は、軍服姿のエリナを見ると少しだけ姿勢を直した。
だが、官庁の書記のような冷たさは薄い。
むしろ、場違いなものが来た時の困惑に近かった。
「帝国学術院連絡室です。ご用件を」
エリナは照会文を差し出した。
「この件で確認に来ました。照会対象は現在、当方保全中です」
書記官は文を見て、すぐに奥へ回そうとはしなかった。
まず追記を読み、
それから表情をわずかに変えた。
「これは……ああ」
「ああ、とは」
「失礼しました。担当研究官から急ぎで回ってきた案件です」
「戦史編纂ですか」
「いいえ」
返答が早すぎた。
エリナはその速さを逃さなかった。
「では、地誌整理」
「それにも近いですが、少し違います」
「何が違うんですか」
書記官は答えに迷った。
答えてはいけないのではない。
説明の仕方を選んでいる顔だった。
「現行軍用図と、旧記録の位置照合です。
王朝期史料の再目録化の過程で、灰白河周辺の地図記載に少し齟齬が出まして」
王朝期史料。
エリナは心の中でその語をなぞった。
戦場記録と並べて出てくるには、古すぎる。
「それで、今春の戦場原票を」
「はい。正式報告では、地点名が整えられている可能性があるので」
整えられている。
隠されている、と言わない。
消された、とも言わない。
だが意味は近い。
エリナは一歩だけ距離を詰めた。
「この照会、普通ではありませんね」
書記官は目を上げた。
敵意ではなく、観念したような顔だった。
「普通では、ありません。
最近の戦場原票へ、ここまで早く学術院が触れることは稀です。
それに、普通なら学術局が間に入ります」
「今回は入っていない」
「ええ」
「なぜですか」
今度こそ、書記官は周囲を見た。
誰かに聞かれることを恐れるより、
言ったことが紙になるのを恐れる動きだった。
「担当研究官が、先に照合したいと」
「学術局を通す前に」
「そうです」
「名前は」
書記官は一瞬だけためらい、
それでも隠し切れないと諦めたらしかった。
「ソフィア・エレンベルク研究官です」
その名は、エリナにも聞き覚えがあった。
帝都の学者名など多くは知らない。
だがこの名だけは、戦場から遠いはずの場所で何度か聞いた。
古地図。
王朝期史料。
整理済み史料の再目録化。
そういう、帝国が綺麗に積み上げたものの継ぎ目を掘る人間の名として。
「研究官は、何を見つけたんですか」
「そこまでは」
書記官は首を振った。
ただし、知らない人間の首の振り方ではない。
「分かっているのは、同じ地点が時代ごとに違う名で現れることと、
現行図の継ぎ目が不自然に滑らかすぎること。
それから、灰白河西側の一点だけ、古図の記載と今春の戦場記録が妙に重なることです」
戦場記録と歴史研究が、
エリナの目の前で一本の文になった。
それは派手な発見ではない。
石が光ったわけでも、
禁書が開いたわけでもない。
ただ、別々の机の上にあるはずの紙が、
同じ一点を指している。
それだけで十分に不気味だった。
「面会はできますか」
書記官はすぐに予定簿を開いたが、次の瞬間、顔を曇らせた。
「直近は難しいです。
院内は来月の追悼式と秋季整理で、人の出入りが詰まっています」
秋季追悼。
帝都では、死者もまた順番どおりに並べられる。
「最短で」
「九月初め。
閉館後の比較室なら、研究官が時間を取れるそうです」
書記官は細い予約票を切り、時刻と部屋名を書いた。
比較室。
地図台のある部屋だと、部屋割り表で見たことがある。
「原票は全部でなくて結構です。
まず一覧と、呼称の揺れが分かる部分だけで」
「研究官は、何を見たいんでしょう」
書記官はペン先を止めたまま、低く言った。
「駅ではないのに、なぜ駅として書かれたか。
その逆かもしれませんが。
……たぶん、そこです」
エリナは予約票を受け取った。
宿舎へ戻る馬車の中で、彼女はその小さな紙を何度も折り直した。
一枚の予約票に過ぎない。
だが戦場では、命令一枚で部隊の進路が変わる。
帝都では、面会一枚で言葉の向かう先が変わる。
宿舎の部屋には、もう夕方の影が入っていた。
ユリウスはまだ机に向かっている。
通信訓練案の余白に、何本もの線を引き直していた。
エリナは予約票を机へ置いた。
「取れました。九月初め。学術院比較室です」
ユリウスは手を止め、票を見た。
「誰の照会だった」
「ソフィア・エレンベルク研究官」
その名を聞いた瞬間も、彼の顔は大きくは動かなかった。
だが目だけが、紙のさらに先を見た。
「何を言っていた」
「戦場図と旧記録の位置照合です。
灰白河西側の一点だけ、古図の記載と今春の原票が妙に重なると」
ユリウスは予約票を裏返し、また表へ戻した。
「そうか」
「驚かないんですね」
「驚いている」
「見えません」
「見せる必要がない」
それはいつもの返しだった。
だが、その次に続いた言葉は少しだけ違った。
「戦場の異常が、戦場の中だけで閉じていないと分かった。
それで十分だ」
エリナは机の端に残っていた照会文と予約票を並べた。
一方は学術院から来た紙。
一方は学術院へ行くための紙。
どちらも軽い。
軽いのに、前線で運んだ弾薬箱より危うく見えた。
「持っていく一覧、今夜まとめます」
「頼む」
「少尉」
「何だ」
「これ、改革案より面倒な相手かもしれません」
ユリウスは短く息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが、否定もしなかった。
「面倒で済むうちに見ておいた方がいい」
窓の外では、帝都の屋根が薄く赤くなり始めていた。
戦場から運ばれた記録は、まだ机の上にある。
だがもう、あれは前線だけの紙ではない。
灰白河の廃駅で拾われた異常は、
叙勲でも、具申でも、戦果配分でも消え切らず、
ついに別の机へ届いてしまった。
そして帝都では、
別の机へ届いたものは、
次に必ず、人を会わせる。




