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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第二章「帝都に穿たれた空白」

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第三十二話「削られた戦場」

戦場は、帝都へ届くたびに小さくなる。


枢密書記局の応接室で、ユリウスはそのことを紙の厚みで知った。

前線の紙は湿っていた。

泥を吸い、血のついた指でめくられ、急いで綴じ直されるたびに角が傷んだ。

だが帝都の紙は乾いている。

乾いているくせに、触れた瞬間だけ妙に重かった。


卓上へ置かれた返戻綴りは、彼が出したものより少し薄い。

封紐は新しく、綴じ穴の位置も揃っていた。

誰かが丁寧に開き、丁寧に削り、丁寧にまた閉じたのだと分かる仕上がりだった。

応接室の窓は高く、外の夏光は白く鈍い。

前線の空みたいに、砲煙で曇った白ではなかった。


「文言整合済みでございます」


向かいの書記官が言った。

若い男だった。

声も姿勢も過不足がない。

だが、その過不足のなさが、ここでは一つの技術なのだとユリウスはすぐに理解した。


「回付順は維持されております。

局地試行案としては、前向きに扱われました」


前向き。

その言葉がどれだけ薄いかを、ユリウスは知っている。

前線で前向きと言う時は、たいてい死人がまだ増える。

帝都で前向きと言う時は、たいてい何かが削られている。


彼は返事をせず、表題から読んだ。


東方戦線灰白河方面における前送・通信・分隊級実務確認要目整理案。


最初の一行で、もう別の文だった。

具申第一案ではない。

軍全体の骨組みに触れる文でもない。

灰白河方面の不便を少し整えるだけの、通りのよい文に変わっている。


頁をめくる。

字面だけ見れば、内容は残っているようにも見えた。

橋材。

前送。

連絡。

現地措置。

事後照会。


だが、残っているのは部品だけだった。

部品と部品を繋いでいた考え方が、綺麗に抜かれている。


下士官教育の標準化は、分隊級実務確認要目の整理へ。

停止判断の付与は、現地状況に応じた措置権限の確認へ。

兵科横断の観測基礎配布は、連絡補助要領の補備へ。

失敗要因報告の定式化は、事後照会様式の整理へ。


言葉が弱くなっているのではない。

責任の立ち上がり方だけが、丁寧に消されていた。


ユリウスの頭の中で、灰白河の湿地が戻る。

電話線が切れた時刻。

観測兵が沈んだ位置。

橋材の予備集積が吹き飛んだ順番。

分隊長が死んだあと、誰も退く判断を言葉にできなかった数分間。


あの戦場で先に死んだのは、勇気ではなかった。

立て直す手順だった。

見直す言葉だった。

次へ残す訓練だった。


それに触れている箇所ほど、薄くなっている。


「誰の修正ですか」


書記官はすぐには答えなかった。

答えないのではない。

答え方を選んでいた。


「所掌照合の結果でございます」


「どこの所掌です」


「軍務省教育局、工務省通信監部、度支主計局、そのほか関係各部のご意見が」


ご意見。

ユリウスは視線を紙へ戻した。


余白の薄い朱。

別の頁には、乾き方の違う墨。

さらに末尾には、付箋を剥がした痕がある。

一人の悪意ではない。

何本もの手が、違う理由で同じ骨を削っている。


教育局は、教育を握りたい。

通信監部は、通信を握りたい。

砲兵は観測を渡したくない。

度支は集積と備蓄を勝手に増やされたくない。


表向きには、全部もっともだ。

全部、役所として正しい。

だからこそ、余計に厄介だった。


「差し戻しではありません」


若い書記官が、ほとんど言い訳のように言った。


「局地試行としては、かなり通りやすい形です」


ユリウスはそこで初めて顔を上げた。


「ええ」


それだけ答えた。

相手を責める必要はなかった。

この男は、何も壊していない。

壊したのは構造だ。

この男はただ、その構造の中で最も摩擦の少ない言い方を運んでいるだけだった。


応接室を出る時、廊下は静かだった。

誰も走らない。

前線なら怒号で埋まる距離を、ここでは呼鈴ひとつで人が動く。

書類箱の蓋が閉じる音だけが、小さく続いていた。


戦場は遠い。

だが遠いから消えるわけではない。

別の形へ畳まれて、別の順番で処理されるだけだ。


宿舎へ戻る頃には、日が傾いていた。

帝都の夕方は長い。

前線の夕方みたいに、暗くなる前に何かを終えねばならない圧がない。

その緩さが、ユリウスにはいつも少し遅すぎるものに見えた。


机の上へ原案と修正文を並べる。

向かいでエリナが綴り紐をほどき、紙の端を揃えた。

彼女は一枚ごとに見比べ、やがて短く息を吐いた。


「通すために痩せさせていますね」


「そうだ」


「でも、変え方が偏っています」


ユリウスは頷いた。


「残してよい不便だけ残している」


エリナは視線を上げた。


「橋材と前送は残っています。

現地措置も、形だけなら残っている。

でも、通信の訓練体系と、下士官の判断基準と、観測の基礎配布と、失敗の記録様式は全部薄くなっています」


「そこが骨だからだ」


「骨」


「部隊が壊れたあと、もう一度立つための骨だ」


エリナはしばらく黙り、修正文の一文へ指を置いた。


灰白河方面における前送・連絡・現場措置の便宜を増す余地あり。


便宜。

その語を見た瞬間、彼女の目が少しだけ冷えた。


「便宜ではないんですよね」


「違う」


「灰白河で足りなかったのは、少し便利になることではない。

切れても繋ぎ直せることだった」


「そうだ」


「誰かが死んでも、次の者が同じ判断を再現できることだった」


ユリウスはその紙から目を離さなかった。


「そうだ」


「でも、それを書くほど消されています」


そこで室内が静かになった。

外では車輪の音が遠く流れている。

帝都はまだ動いている。

砲も泥もないまま、同じ国家が別の速さで夜へ入っていく。


ユリウスは原案の末尾を見た。

自分で書いた一文は、もうそこにない。


帝国軍が失敗を次回編制へ変換する能力を獲得しうる点にある。


その一文だけが、丸ごと消されていた。

便利にする話なら残る。

局地で試す話なら残る。

だが失敗を次へ変える能力となると、急に残らない。


戦果は欲しい。

局地改善も欲しい。

けれど、現場が切れた命令の先で自分で立ち直る力となると、制度は急に身構える。


それは単なる縄張り争いに見える。

実際、表層ではそうなのだろう。

教育は教育局のもの。

通信は通信監部のもの。

観測は砲兵のもの。

備蓄は度支のもの。


だがその全部が重なった先にあるのは、一つの癖だった。

前線が自分で学ぶ速度を、中央はまだ受け入れない。


「少尉」


エリナが静かに言った。


「怒ってますか」


ユリウスは少し考えた。

怒りではなかった。

むしろ、合っていた。


「いいや」


「では」


「位置が見えた」


エリナは問い返さなかった。

それでも意味は通じたらしい。

彼女は原案と修正文の間へ、白紙を一枚差し入れた。


「次を書きますか」


「書く」


「削られた箇所を戻す形で?」


「それではまた同じように削られる」


ユリウスはそこでようやく椅子に深く腰を下ろした。

机上の紙は、戦場の地図より静かだった。

だからこそ、何が怖がられているかがよく見える。


「次は項目の正しさから入らない」


「では、何から」


「責任だ」


エリナの指が止まった。


「誰が持つか、ですか」


「誰が失うか、でもある」


彼は修正文の余白を指でなぞった。


「教育局が嫌がるのは、教育を奪われるからじゃない。

事故が起きた時、なぜ今までやっていなかったのかと問われるからだ。

通信監部も同じだ。

砲兵も度支も同じだ」


「つまり」


「機能を足す文では通らない。

誰の責任線をどこで切らず、どこで限定するかまで書かなければならない」


エリナは小さく息を吸った。

理解が早すぎる時、彼女はむしろ黙る。

今がそうだった。


「……嫌な書き方になりますね」


「そうだろうな」


「でも、通る書き方です」


「通させる」


それは決意というより、修正だった。

前線で橋材の位置をずらす時と同じ種類の確かさだった。


ユリウスは白紙を手前へ引いた。

具申第一案の続きではない。

同じ戦場を、別の入口から書き直す文だ。


通信は誰の所掌に残し、

観測はどこまで砲兵権限に留め、

下士官教育は誰の責任名義で導入し、

失敗記録は誰を裁く文でなく誰を生かす文として整えるか。


戦場の話に見せかけたまま、

責任の動線を書かなければならない。


「エリナ」


「はい」


「軍務、工務、度支、参謀の所掌表を出してくれ。

できれば回付順も」


「今夜中に揃えます」


「それと、原案と修正文の差を一覧にしろ。

削られた箇所だけではなく、言い換えられた理由も横へ置く」


「理由までですか」


「理由が次の文の入口になる」


エリナはもう迷わなかった。

別綴りを開き、見出しだけ先に書く。


削除。

言換。

所掌。

責任。

再提出。


その字を見ながら、ユリウスは思った。

戦場は灰白河にあった。

廃駅にもあった。

だが今は違う。

今、削られているのは戦場そのものではない。

戦場が次へ残すはずだった学習の形だ。


だから、取り返すべきものも同じだった。


彼は最初の一行を書いた。


局地改善案にあらず。

帝国軍平時責任分界を侵さぬ範囲での戦時再編即応要目案。


長い。

醜い。

だが今度は、それでよかった。


正しいことを書くだけでは足りない。

誰が判を押しても自分の首が飛ばない形へ直して、初めて帝都の文になる。

その醜さごと通さなければ、灰白河の死者はまた次の紙で削られる。


宿舎の灯は静かだった。

前線のランプみたいに震えない。

震えない明かりの下で、ユリウスは紙へ次の線を引いた。


次は、戦場の順では書かない。


責任の順で書く。

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