第三話「進言却下」
前進司令幕舎に呼ばれた、と伝えられた時、ユリウスは最初に人選の誤りを疑った。
少尉が将軍級会議へ顔を出す理由など、本来はない。
あるとすれば、誰かが責任を薄めたい時か、あるいは若い平民士官に恥をかかせて場を締めたい時だけだ。
泥の跳ねた長靴を天幕の外で拭いながら、ユリウスはそう考えた。
背後で、書類鞄を抱えたエリナが小走りに追いつく。
「少尉、回付順を直した清書です。工兵監部と砲兵監部の欄、入れ替えました」
「見せてくれ」
受け取った紙には、まだ乾ききらないインクの匂いが残っていた。
昨日まで前線連絡所を混乱させていた誤記は消え、文面だけ見れば整った命令書になっている。美しい書式だった。死ぬには十分なほどに。
「ありがとう。助かった」
「助かったで済む話じゃないです。あの文面のまま回っていたら、集積地の輜重列が正面に寄せられていました」
「分かってる」
ユリウスは紙を返した。
エリナは口をつぐんだが、目だけは険しかった。書類の誤りで人が死ぬことを、彼女はもう理解している。
「会議の間は、外で待て」
「はい。でも、終わったらすぐ声をかけてください。嫌な予感がします」
「俺もだ」
敬語を削った言い方に、エリナはほんの少しだけ眉を上げた。
だが何も言わず、一歩下がった。
幕舎の中は、外より暖かく、外より冷たかった。
炭火の熱で湿気だけが持ち上がり、軍服の布地と革具の匂いが重く混ざっている。
卓上には灰白河方面の作戦図が広げられ、色付きの旗針が河岸、集積地、砲兵陣地、予備連隊の位置に整然と刺さっていた。
整然としている、ということ自体が不吉だった。
現地は整っていない。湿地は昨日の雨でさらに緩み、河岸は踏むたびに崩れ、軍用道路は車輪の轍で深くえぐれている。だが地図の上では、どれもただの線と面でしかない。
卓の中央にいたのは、ルドルフ・フォン・グランツだった。
勲綬の列は乱れなく、髭もきれいに整えられている。
軍服には一つの皺もなかった。戦場にいながら、戦場の汚れが似合わない男だった。
「アーデルハイト少尉」
名を呼ばれ、ユリウスは一礼した。
「前線実見を重ねていると聞く。昨日の会議でも、渡河点の地耐力について面白いことを言ったな」
「事実を述べただけです」
「結構。ならば今日も、事実を述べよ」
声音は柔らかかった。
柔らかいが、好意ではない。若い平民士官に発言の機会を与える自分の寛大さまで演出している声だった。
卓の左右には参謀、砲兵将校、工兵監部の連絡官、それに家名の重さで椅子に座っている種類の貴族士官たちが並んでいた。
彼らの視線は、興味半分、侮り半分でユリウスに向けられている。
グランツが杖の先で地図を叩いた。
「春季攻勢の主軸は変えない。正面で渡る。敵に中央突破の意志を見せ、北岸微高地を奪い、橋頭堡を拡張する。諸官はその前提で準備を進めている」
そこで彼は一拍置いた。
「異論があるなら述べろ。今だけは許す」
ユリウスは卓へ一歩進み出た。
「正面渡河は失敗します」
ざわめきは小さかった。
だが空気は確かに変わった。
すぐに怒鳴る者はいない。
彼らはまず、どこまで無礼を重ねるかを見ていた。
ユリウスは地図の中央ではなく、その少し西を指した。
「第一渡河点は河岸土が脆すぎます。橋材を降ろす前に輜重車が沈む。第二渡河点は幅こそ足りますが、北岸微高地からの観測が生きている限り、架橋開始後十五分で砲着されます」
砲兵将校の一人が口を挟む。
「前進砲兵で制圧する」
「できません。展開地が狭い。湿地縁で車輪が取られる。初弾修正が遅れます」
「それは臆測だ」
「現地を見れば分かります」
その言葉に、右手側の貴族士官が鼻で笑った。
「少尉。君は“見た”というが、軍は個人の印象で動くものではない」
「印象ではありません。地耐力、射界、道路幅、予備の通過時間です」
ユリウスは感情を乗せずに続けた。
「仮に第一波が渡っても、その後ろが続きません。橋頭堡を取れても、砲兵と電話線が渡れない。予備連隊はこの涵路で詰まる。敵は第一波の歩兵ではなく、工兵、観測兵、敷設班、伝令を狙います。再編能力から殺しに来る配置です」
数人の表情が変わった。
言っている内容が分からないのではない。分かるからこそ、聞きたくないのだ。
グランツは視線を細めた。
「では、君の案は」
「主攻正面を西へずらすべきです。築堤の陰を使う。正面は砲兵と示威で固定し、本命の工兵資材と予備連隊は西側へ寄せる。さらに渡河後すぐ前へ押し出すのではなく、北岸で一度再編できる余地を残すべきです」
「再編」
グランツはその語を繰り返した。
そこに初めて、あからさまな軽蔑が混じった。
「少尉、攻勢とは前進するためにある。渡って、止まって、並べ直すためではない」
「並べ直せない攻勢は、一度で終わります」
「一度で終えるために、我々は総力を傾けるのだ」
低い笑いがいくつか漏れた。
だがグランツ自身は笑わない。彼は本気でそう信じていた。
「帝国軍が春季攻勢の初動から横移動と再編を前提にしていると知れれば、何が起きると思う。前線は慎重を口実に鈍る。後方は臆病と呼ぶ。宮廷は東方軍の意志を疑う。戦争は兵科の都合だけで動くものではない」
その言葉で、ユリウスは理解した。
この男は愚かではあるが、ただの無能ではない。
見ているものが違うのだ。
河をどう渡るかではなく、誰の名で渡ったことにするかを見ている。
砲兵の展開幅ではなく、攻勢の見栄えが帝都へどう届くかを気にしている。
軍を勝たせたいのではない。
帝国秩序が、正面から前へ出るものだという体裁を守りたいのだ。
ユリウスは静かに口を開いた。
「将軍。軍が必要としているのは、見える勇気ではありません。渡った後も戦える形です」
「違うな、少尉」
グランツの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、反論の余地がなかった。
「帝国軍が必要としているのは秩序だ。局地の才覚で全体を乱す者は、敵より先に自軍を崩す。君のような若い士官が現場で機転を利かせること自体は結構。だが、それを作戦原理にしてはならん」
そこで会議は終わった。
正確には、終わらせられた。
何か言おうとした工兵連絡官は、隣の将校に袖を軽く引かれて黙った。砲兵将校は視線を地図から外し、誰が決裁文に署名するかだけを考える顔になっていた。
ユリウスはそれ以上言わなかった。
言葉を重ねれば、議論になる。議論になれば、彼らは自分たちが正しかったという形を整え始める。それは時間の無駄だった。
一礼して下がる途中、卓の端に置かれた回付文書が目に入った。
同じ攻勢案に、軍務、砲兵、工兵、補給、それぞれ別の押印欄が並んでいる。
誰も戦場を一枚で見ていない。
見ているのは、自分の欄だけだった。
幕舎を出ると、風が冷たかった。
エリナがすぐに歩み寄ってきた。
「少尉」
「ああ」
「その顔、却下されましたね」
「見れば分かる」
彼女は周囲を一度見てから、声を落とした。
「どうします」
「準備する」
「正式命令は」
「変わらない。だから、変わらない範囲で変える」
エリナの目が細くなる。
理解が早い。ユリウスはそれをありがたいと思った。
「予備弾薬の再集積名目で、西側に小分けの置き場を作れ。表向きは道路損壊対策。工兵資材も同じだ」
「電話線は」
「予備を余計に持たせる。敷設班は前へ出しすぎるな。渡河直後に死なせるな」
「伝令系統の予備表、作ります」
「分隊ごとに、下士官の判断権限も書いておいてくれ。線が切れた時、誰がどこまで決めていいか」
エリナは一瞬だけ黙った。
それが、命令違反すれすれであると分かっている沈黙だった。
「……少尉」
「何だ」
「あなた、最初から負けた後のことを考えてますね」
「違う」
ユリウスは首を振った。
「負けた後じゃない。崩れた後だ。勝っても崩れる形がある」
エリナは息を吐いた。
呆れているのか、感心しているのか分からない顔だった。
「了解です。通る言葉に直します」
「頼む」
彼女が去った後、ユリウスは集結壕の並ぶ低地へ歩いた。
兵たちは泥の中で装備をいじり、馬は鼻息を白く吐き、輜重兵は車輪に板を噛ませていた。
誰もまだ攻勢の全体図など知らない。ただ、上から来る命令に従って河へ近づいていく。
その中から、古参の下士官を三人、観測兵を二人、伝令役の若い兵を四人だけ呼び出した。
「聞け。公式命令は正面渡河だ」
誰も口を挟まない。
「だが、第一波で線が死ぬ。死んだ時の話を今しておく」
泥だらけの顔が上がる。
不吉な話なのに、兵たちはむしろ少しだけ落ち着いた。分からないまま突っ込まされるより、崩れた後の手順があるほうが人は息ができる。
ユリウスは築堤線の方向を示した。
「赤杭を見たら、西へ寄れ。機関銃は捨てるな。観測兵を先に潰すな。伝令は二人一組だ。片方が死んでも、線を残せ」
「少尉殿」
年かさの下士官が低い声で言う。
「そいつは、正面が抜けねえ時の話ですか」
「正面が抜けても同じだ」
ユリウスは答えた。
「前へ出るより先に、後ろと繋がっていろ。軍は前だけで戦わない。砲兵、工兵、電話、輜重、全部が生きていて初めて次がある」
「次、ですか」
「ああ。次だ」
兵は頷いた。
完全に理解したわけではない。ただ、この少尉は、自分たちを一度きりの消耗品として見ていない。それだけは伝わった。
日が傾くにつれ、河の向こうから冷たい靄が流れてきた。
灰白河はまだ静かだった。静かなものほど、壊れる時は大きい。
進言は却下された。
作戦も変わらない。
正面渡河は、そのまま始まるだろう。
だが、敗北の形はまだ削れる。
溶ける前に、残せる骨組みはある。
ユリウスは再び地図を開いた。
今度は勝つためではなく、崩れてもなお次を作るために。




