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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第二章「帝都に穿たれた空白」

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第二十八話「勲章の重さ」

帝都へ来てから、空が低いと思うことがなくなった。


前線では、朝の色を見る前に泥の匂いで目が覚めた。

ここでは、石畳の乾いた冷たさと、馬車の車輪が跳ねる軽い音で朝が来る。


トーマスは兵営の裏口を出たところで、一度だけ立ち止まった。

灰白河のあと、列車で運ばれ、宿舎へ押し込まれ、気づけば帝都の真ん中へ来ていた。

だが、来たという実感だけが薄かった。

前線から剥がされて、そのまま別の紙へ貼りつけられたような気分だった。


下町の通りは、朝からもう動いている。

荷車が走り、パン屋が煙を吐き、洗濯女が桶の水をこぼし、新聞売りの声が角ごとにぶつかり合う。

兵営の塀の外へ出ただけなのに、戦争がずいぶん遠くへ引いたように見えた。


だが、本当に遠いのは音ではなかった。


「号外だ、号外! 灰白河戦功公報! 若き英雄の叙勲!」


新聞売りの少年が、そう叫んでいた。

声変わりの途中らしい掠れた声で、だが妙に嬉しそうに。


その声を聞いた瞬間、トーマスの足は勝手に止まった。


通りの人間も何人か振り向いた。

市場へ向かう女、荷を担いだ男、学帽をかぶった学生、休暇の水兵。

誰も灰白河を見たことはない顔だった。

それでも「英雄」という言葉だけは、すぐに分かるらしかった。


売り子の手から、一枚の紙が空へ上がる。

活字は大きく、見出しだけでも遠くから読めた。


東方戦線局地再編成功。

帝国軍若年士官、叙勲。

戦況安定に寄与。


そこにユリウスの名が入っていた。


トーマスは胸の奥がひどく静かになるのを感じた。

怒るより先に、冷える感じだった。


紙を買ったのは、彼ではなく隣の仕立屋風の男だった。

男は見出しだけ読んで、感心したように口笛を鳴らした。


「若いのに大したもんだな」

「平民上がりらしいぞ」

「そういうのは気持ちがいいな」

「帝国もまだ捨てたもんじゃない」


言葉は軽かった。

軽いまま、湯気みたいに朝の通りへ広がっていく。


トーマスはその横で、見出しの文字だけを見ていた。

局地再編。

成功。

叙勲。


どれも間違ってはいない。

たぶん、軍の書類にすれば、そう書くしかないのだろう。

だがその三つの語のあいだに、泥へ顔を伏せたまま起き上がらなかった兵の数は入っていない。


勲章という言葉を聞くと、トーマスの頭には金属ではなく顔が浮かんだ。

橋材の横で脚を失った工兵。

弾薬箱ごと沈んだ補充兵。

名前を呼ばれても返事をしなかった若い伝令。

湿地の真ん中で、転んだまま起きなかったハンス。


勲章の重さは、たぶん金では量らない。

あれは胸にぶら下がる前に、先に土へ埋まった人数で決まる。


「おう、買わねえのか」


背後から声がして、トーマスは振り向いた。

フリッツだった。

外套を片手に引っかけたまま、いつもの乾いた顔で立っている。


「見てただけです」


「見てただけにしちゃ、シケた面してんな」


フリッツは売り子の少年から紙を一枚買い、四つに折ってトーマスへ寄越した。

紙はまだ刷りたてで、指先に煤みたいな黒がついた。


「読めよ」

「読みたくもないです」

「俺もだ。だから読むんだよ」


トーマスは渋々ひらいた。


文は整っていた。

帝国東方戦線における局地再編の成功。

機動的判断による戦線維持。

若年士官の果断なる指揮。

下士官兵の奮励。


下士官兵の奮励、のところだけが、やけに短かった。


長く書かれているのは、判断と成功と叙勲だった。

短く済まされているのは、泥と断線と負傷兵と、機関銃の三脚を一本ずつ運んだ順番の方だった。


「上手く書くもんだな」


フリッツが言った。

感心しているのではない。

よく知っている者の言い方だった。


「嘘ではねえな」

「でも、違います」


トーマスは紙から目を離せずに答えた。

違う、という言葉だけでは足りなかったが、それ以上の言葉がすぐには出なかった。


紙の中のユリウスは、綺麗すぎた。

一つの判断で戦況を救い、冷静な指揮で成功を収め、帝都へ凱旋して勲章を受ける若き英雄。

そう読めるように、ちゃんと並んでいた。


だがトーマスが知っている本物は、もっと嫌な顔をしていた。

勝ったあとでも喜ばず、兵の噂より先に、靴底の損耗と弾薬箱を運んだ順番を聞く人間だ。

英雄というより、壊れたところを数えに来る人間に近い。


「ほらな」

とフリッツが言った。

「もうできあがってるよ」


「何がです」


「別人の少尉殿がな」


フリッツは顎で、通りの向こうを示した。

菓子屋の前で、子どもが二人、新聞の見出しを声に出して読んでいる。

そのそばで母親らしい女が笑い、向かいの帽子屋の店主が「帝国の若いのもやるじゃないか」と言っている。


誰も間違ったことは言っていない。

ただ、そこには泥の匂いがない。


「兵の噂より早いですね」


トーマスがぼそりと漏らすと、フリッツは少しだけ目を細めた。


「兵の噂は、知ってる奴らが作る。

こっちは知らねえ奴らが作る。

数が違え」


ふたりは紙を折りたたみ、そのまま通りを歩いた。

新聞売り場の前は、朝なのに妙に明るかった。

紙面を掲げる木枠、紐で吊るされた号外、戦況図の粗い挿絵、赤鉛筆で丸をつけられた見出し。

前線では、赤は地図の上でしか見なかった。

帝都では、それが商いの色になっている。


別の売り子が、今度はもっと大きな声で叫んだ。


「叙勲式詳報! 灰白河の英雄、宮廷に列す!」


列す、という言葉が、トーマスには妙に引っかかった。

あの少尉が列ぶ、という感じがしなかったからだ。

列んでも、たぶん列のことを考えている顔しかしない。

誰より前に立ちたい人間ではない。

むしろ、前に立たされた理由を嫌がる方だ。


通りの端では、古着屋の店先にまでその話が流れていた。

「勲章ってのは銀か」

「いや、家格で差があるんだろう」

「英雄なら今ごろ祝宴か」

「写真があれば売れたのに」


写真、のところで、トーマスは思わず足を止めた。

もし本当に紙面へ載るとしたら、どういう顔が選ばれるのだろう。

泥のままの軍服でも、目の下の隈でもなく、たぶん勲章をつけた静かな横顔だけが残る。

そうなれば、ますます本物から遠くなる。


フリッツが横で鼻を鳴らした。


「売れる顔じゃないだろうに」

「はい」

「だから、紙の方が勝手に足す」


それは前線で兵たちがやっていたことと、どこか似ていた。

兵は兵で、少尉に地図の裏が見えるだの、敵弾を読むだの、勝手な英雄譚をつけ足した。

ただ帝都の方が、もっと上手い。

噂ではなく活字でやる。

一度活字になったものは、兵の焚き火話より長く残る。


兵営へ戻る道すがら、トーマスは紙をたたんだまま握っていた。

手の中で皺が深くなる。

捨ててもいい気はした。

だが捨てると、何かを認めたことになる気もした。


宿舎の前では、兵たちがすでにその紙を回し読みしていた。

休養扱いで帝都へ上がってきた者、補充待ちの者、負傷の浅い者、記録呼び出しを待つ者。

前線帰りの顔と、帝都の朝の顔が、狭い兵営の庭で混じっている。


「おい、ゲイル」

「見たか」

「少尉殿だぞ」

「勲章だってよ」


何人かは嬉しそうだった。

それが悪いわけではない。

兵にとって、自分たちの隊から名が出たというだけで、少しは意味がある。

無駄死にではなかったと、自分に言い聞かせる足場にもなる。


だが、その嬉しさの中に、死んだ者の分まで薄くなる感じがあった。


「大したもんだな」

と若い補充兵が言った。

まだ灰白河を見ていない顔だった。

「少尉殿、やっぱり本物の英雄なんだ」


トーマスは答えなかった。

代わりに、手の中の紙の端を折った。


フリッツが先に口を開いた。


「英雄かどうかは知らん。

だが、少尉殿は勲章が欲しくて動いてたわけじゃねえ」


「じゃあ何のために」

と補充兵が聞く。


フリッツは肩をすくめるだけだった。

あまり多くを喋る男ではない。

その沈黙の代わりみたいに、トーマスの口が勝手に開いた。


「死なせないため、だと思います」


言ったあとで、庭の空気が少し止まった。

誰も笑わない。

否定もしない。

ただ、その言葉だけでは少し足りない顔をしている。


トーマス自身も分かっていた。

それだけでは足りない。


死なせないため。

たしかにそうだ。

だが少尉は、一人二人を助けて満足する顔ではなかった。

もっと多い何かに、いつも間に合わせようとしている。

兵には見えない大きさの壊れ方を、先に嫌がっている顔だった。


昼前、兵営の配給所で薄い麦粥を受け取りながら、トーマスはまた新聞を見た。

今度は内側の記事まで読んだ。


記事は叙勲式の様子まで書いていた。

広間、列席者、儀礼、整然たる式次第。

戦場の泥は一行もない。

代わりに「帝国秩序の栄誉ある顕現」とあった。


その文を読んだ瞬間、トーマスには妙に納得できた。

ああ、そういうことかと思った。


あれは、灰白河を書いているんじゃない。

帝都を書いているのだ。

前線で何があったかより、それを帝都でどう並べるかの方が大事なのだ。


だから紙面の中では、死者も泥も、最後にはきちんと整列させられる。


勲章の重さも、ここでは胸の上でしか量られない。


食堂の片隅では、別の兵たちがもう別の噂を作り始めていた。

少尉は皇帝に直接名を呼ばれただの、女伯が見初めただの、近く昇進して参謀へ抜かれるだの。

帝都へ来ると、噂は前線より派手になるらしい。


「なあ、ゲイル」

と一人が言った。

「お前、近くにいたんだろ。

少尉殿、やっぱり嬉しそうだったか」


トーマスは麦粥の匙を止めた。


嬉しそうだったか。


前線からずっと見てきて、その問いだけはいちばん答えやすかった。


「いいえ」


庭のざわめきが一度だけ細くなる。

皆、続きを待った。


「少尉は、たぶん……勲章そのものは見てないです」


「じゃあ何を見てる」


トーマスはそこで黙った。

本当は言葉があった。

壊れた場所。

次に切れる線。

まだ足りないもの。

だが、それをそのまま喋ると、また別の噂にされそうだった。


だから少しだけ形を変えた。


「たぶん、あれで終わりになることを嫌がってるんだと思います」


誰もすぐには返さなかった。

分かるような、分からないような言い方だったからだ。

けれどフリッツだけは、黙って湯気の向こうで頷いた。


午後、トーマスは一人で兵営裏の水場へ出た。

桶の水は冷たく、軍靴の泥を落としてもすぐには綺麗にならない。

前線の泥と帝都の泥では質が違う気がした。

向こうは足を取った。

こっちは、うわべだけ洗わせる。


水場の向こうでは、また新聞売りの声が聞こえていた。


英雄。

叙勲。

若き名将。

帝国の希望。


どの言葉も大きくて、通りがよかった。

それだけに、トーマスには空っぽに聞こえる時があった。

空っぽ、というより、中身を入れ替えた後の箱みたいだった。


彼は軍靴を持ったまま、ふと兵営二階の窓を見上げた。

記録室の窓だ。

昼なのに、薄い灯りがついている。


紙の擦れる音が、風に乗ってかすかに聞こえた。


そこへ、エリナが出てきた。

片腕に書類束を抱え、急ぎ足で廊下を渡っていく。

祝い事の空気をまとった歩き方ではない。

いつもよりむしろ速い。


トーマスは思わず声をかけた。


「ヴァイス准尉」


エリナは階段の途中で振り返った。

疲れてはいたが、目ははっきりしていた。


「何ですか、ゲイル」


「少尉は……どこにいます」


聞いたあとで、自分でも変な問いだと思った。

叙勲のあとなら、人に呼ばれているか、祝宴に出ているか、どこか上の部屋にいるのが普通だろう。


だがエリナは、少しだけ不思議そうな顔をしたあと、あっさり答えた。


「会議室です」


「会議室」


「軍務省付属の小部屋を借りました。紙が足りないと騒いでます」


「何の紙を」


「具申書です」


それだけ言って、エリナは階段を下りかけた。

けれどトーマスの顔を見て、少しだけ言葉を足した。


「補給線、通信、下士官教育、観測訓練の項目を先に書くそうです。

叙勲のうちにやらないと、あとで潰されるからと」


トーマスはしばらく何も言えなかった。


遠くの通りでは、まだ新聞売りが叫んでいる。

英雄がどうした、勲章がどうした、と。

帝都じゅうがそちらを向いているのに、当人は紙と表を前にして、別のことを書き始めている。


エリナはそれ以上説明せず、また歩き出した。

廊下の角で一度だけ立ち止まり、振り返りもせずに言う。


「ゲイル」


「はい」


「兵の噂、集めておいてください。

少尉があとで使います」


それだけで、彼女は去った。


トーマスは水場に立ち尽くした。

手の中の軍靴から、濁った水が細く落ちる。

勲章の話は、帝都の表へ流れていく。

だが少尉の関心は、また別の場所にあった。


あの人にとって勲章は終点ではない。

死者の上に置かれた印でも、栄達でもない。

たぶん、帝都の中でようやく紙へ変えられる権利の一つにすぎない。


そう思った瞬間、朝から胸につかえていたものが、少しだけ形を持った。


勲章の重さは、死んだ者の数に見える。

それは変わらない。

だがその重さを、ただ胸へ下げて終わらせない人間もいる。


新聞は英雄を売る。

兵は噂でそれを膨らませる。

国家はそれを秩序の形へ並べる。


その全部の外側で、少尉はたぶん、別の表を作り始めている。

誰を先に残すか。

どこが先に切れるか。

どうすれば次に折れにくくなるか。


帝都の空は高かった。

灰白河みたいに、低く人を押し潰してはこない。

それなのにトーマスは、ここにも別の重さがあるのだと思った。


見え方の重さ。

活字の重さ。

順番の重さ。


そして、その全部の下で少尉が机に向かっているなら、勲章はまだ終わっていない。


通りの方から、また売り子の声が飛んだ。


若き英雄。

東方戦線の新星。

帝国の誇り。


トーマスは濡れた軍靴を持ち直し、その声を聞きながら兵営へ戻った。

紙の上では、少尉はもう英雄になっている。


だがトーマスが知っている本物は、そう呼ばれるより先に、次に壊れる場所へ線を引く人間だった。

そしてたぶん、その方がずっと重い。

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