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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第二章「帝都に穿たれた空白」

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第二十五話「封緘列車」

列車は、見送られるための速度では走らなかった。


負傷兵車両を後ろにつけたまま、灰白河後方駅を離れたときの揺れはまだ鈍かったが、幹線へ入るたびに震えは細く、規則正しいものへ変わっていった。

床板の下で刻まれる継ぎ目の間隔が揃うにつれ、前線の土の粗さが足元から剥がれていく。

戦場から遠ざかっているのではない。

別の仕方で組まれた戦場へ、引き込まれている感覚だった。


向かいの席で、エリナは膝の上の記録束をほどき、また結び直していた。

持ち出した紙は少なくない。

砲着修正の原簿、地図照合写し、捕虜供述の原文、分隊長報告の一次書きつけ、修正前の勝利報草案。

順番を変え、紐を替え、表紙を入れ替え、見られたときに一度では意味が通らないようにしている。


「まだやるのか」

「やります。着くまでに三回は変えます」

「そこまで必要か」

「必要です。奪う側は急いでるので、整った束から触ります」

「君らしい」

「少尉が整えなさすぎるんです」


疲れているはずなのに、声は平常だった。

オスヴィンの言葉が、二人のあいだで短く残っている。

前線から中央へ行く紙だけが、妙に軽くなる。

枚数は合っていても、中身が違う。

現場の人間がああいうことを言うときは、噂ではなく、何度か見ている。


ユリウスは窓へ目を向けた。

まだ外は、戦線の延長に近い色をしていた。

修理途中の側線、砲弾箱の山、煤けた給水塔、濡れた土手、低く張った電話線。

遠くの空にだけ、灰白河流域の白い曇りが残っている。


勝利はあった。

敵の神経線は切れ、廃駅は落ち、前線の形は変わった。

だが、それで説明のつく勝利ではなかった。

敵が守っていたものも、帝国が消したがっているものも、まだ名前の手前にある。


深夜の連結替えで、一度だけ扉が叩かれた。


開けると、軍帽の庇だけが妙に新しい男が立っていた。

後ろには鉄道兵と憲兵がひとりずついる。

所属章は見える位置にあるのに、見た瞬間に覚えにくいような付け方だった。

後方の確認に慣れた人間の立ち方である。


「命令書と携行指定の確認です」

「どうぞ」


エリナが先に紙を出した。

男は本文より先に押印を見た。

東方総軍司令部印、その上に重ねられた参謀本部印、同行一名、関連記録封緘携行。

必要な箇所だけを追い、彼はすぐに顔を上げた。


「現物確認は」

「命令文に記載なし」

「例外指定がある場合がある」

「本件はその例外ではないはずです」


エリナは丁寧に答えたが、退かなかった。

男は彼女を見て、それからユリウスを見る。

戦功士官を見に来たというより、どの程度まで扱いにくいかを測りに来た顔だった。


「少尉殿は、ずいぶん熱心に紙を持ち帰るそうで」

「兵は紙で死ぬことがある」

「帝都では、紙で生きる者も多い」


それだけ言って、男は命令書を返した。

扉が閉まり、車輪の音がまた規則へ戻る。

エリナはしばらく扉を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「監察でしょうか」

「たぶんな」

「着く前から嫌な感じですね」

「着いてから軽くなるよりはいい」


彼女は返事をせず、記録束を抱え直した。

紙はただの紙ではない。

誰がどこを削り、何を別名に置き換えたか、その痕跡ごと持っている。

だからこそ中央は欲しがり、こちらは渡し方を選ぶ必要がある。


夜が更けるにつれて、列車の外の光は増えていった。


前線の灯は低い。

見つからぬために低く、届かぬためにまばらだ。

だが帝都へ向かう幹線の灯は違う。

信号灯、操車場の火、倉庫の窓、工場の煙突の根元に連なる明かり。

暗闇に穴を開けるのではなく、夜そのものを押し返すための光だった。


帝国は、明るい場所ほど隠すものが多い。

ユリウスはそう思った。


明け方、車窓の色が変わった。


壊れた土手と野戦倉庫のあいだから、整った畝が見え始める。

水路は詰まらず、柵は歪まず、村の屋根には砲撃の跡もない。

洗濯物が風に揺れ、畑の端では子どもが犬を追い、荷馬車は泥でなく石敷きの道を音高く進んでいく。

同じ帝国の中にあるはずなのに、土の使われ方そのものが違って見えた。


「懐かしいか」


エリナは少し考えてから答えた。


「どうでしょう。帝都の近くって、近すぎて故郷って言いにくいんです」

「そういうものか」

「生活はあります。でも、どこまで行っても国家の手触りが先に来るんです」


列車はさらに速度を上げ、河を渡り、町を抜け、また広い農地へ出た。

工場の煉瓦壁、穀物倉、機械部品の積荷、軍需以外の貨車。

前線を支える国家ではなく、国家を支える生活がここにはある。

だが、その豊かさが前線の欠乏を消すわけではない。

むしろ、欠乏が配分の結果であることを、あまりにもはっきり示していた。


ユリウスは窓の外を見ながら言った。


「同じ国家の中で、別の戦争が行われている」

「前線と内地で、ですか」

「それだけじゃない」


エリナが顔を上げる。

ユリウスは続けた。


「前線では、地形と砲兵と時間で人が死ぬ。ここでは、順番と導線と予算で人が死ぬ」

「……嫌な言い方ですね」

「だが、たぶん正しい」

「少尉は帝都に着く前から帝都を嫌いすぎです」

「嫌うのとは違う。仕組みを見ているだけだ」

「それが一番怖いんです」


そう言ったあと、エリナは窓へ視線を戻した。

彼女の横顔には、帰郷の緩みよりも、ここから先で必要になる翻訳の量を測る緊張があった。

前線でのユリウスは、兵を残すための異物で済んだ。

だが中央では、制度のほうが彼を異物として測るだろう。


昼前、列車は大きな操車場へ入った。


そこには軍用車両だけでなく、民需貨車、郵便車、工廠向けの鋼材車、家畜輸送車までが幾本もの線路に並んでいた。

その中に、ひと目で用途の分からぬ封緘貨車が混じっている。

窓はなく、側板の継ぎ目には余計なほど新しい封蝋が打たれ、積載票の区分だけが異様に簡潔だった。

軍需と書けるなら、もっと細かく書く。

細かく書かれていないということは、書かないほうが安全な荷だ。


オスヴィンの顔が一瞬だけ脳裏をよぎった。

軍需では説明しきれない封緘貨物。

戦争の背骨としての鉄道は、砲弾も兵も運ぶ。

だが骨の内部を流れているものの全てが、前線の兵に説明されるわけではない。


「少尉」

「何だ」

「あれ、見ましたか」

「見た」

「何だと思います」

「今はまだ、分からない」

「珍しいですね。分からないってすぐ言うの」

「分かると言うほうが危ない」


エリナは少しだけ笑った。

その笑いは短い。

前線で生き延びる人間の笑い方だった。


午後になると、列車の窓に映る風景はさらに整っていった。


堤防は高く、橋は太く、道路は駅と倉庫を無駄なく繋ぎ、どの町にも軍の配給所と学校の塔がある。

帝国は巨大だ。

そして巨大であることを、兵員数や領土ではなく、継ぎ目の少なさで示してくる。

線路、予算、命令、文書、掲示、徴発、再配分。

国家の内側は、前線よりはるかに均質に見えた。


だが均質さは、真実と同じではない。

むしろ均質であるほど、どこで削り、どこで差し替えたかが見えにくくなる。

灰白河の勝利が、帝都に届くまでに別の名へ変わるなら、それは偶然ではなく技術だ。

この国は真実を保存するより先に、真実を通すか止めるかを決める技術を育ててきた。


エリナが机代わりの板へ肘をつき、少しだけ眠そうな目で言った。


「少尉、帝都に着いたら、まず休んでください」

「必要なことが先だ」

「そう言うと思いました」

「補給の配分表を見たい。灰白河方面の再編がどこで止まるか確かめる。観測兵の訓練課程が標準化されていないなら、その理由も知りたい」

「ほら始まった」

「それと」

「まだあるんですか」

「地図の原板がどこにあるか調べる」

「一番危ないのが最後に来ましたね」


エリナは呆れたように言ったが、止めはしなかった。

彼女も分かっている。

ユリウスが帝都へ来たのは、褒賞のためではない。

嘘の置き場所を遡るためだ。


夕方が近づくころ、遠い地平に光の層が見え始めた。


ひとつの都市ではない。

停車場、倉庫街、工廠区、官庁区、居住区が幾重にも重なって作る巨大な明るさだ。

その手前で、列車は速度を落とし、分岐をいくつも渡った。

一本の線路が帝都へ続くのではない。

帝都そのものが、無数の優先順位へ枝分かれした線路の集まりとして待っている。


ユリウスは地図箱に手を置いた。

木の感触の下には、灰白河の泥、削られた座標、継ぎ直された記号、名前を変えられようとしている地点の形が眠っている。

前線を離れたのではない。

前線の意味を選ぶ側へ近づいているだけだ。


窓の外で、豊かな帝国が暮れ始めていた。

畑も、工場も、学校も、橋も、線路も、全てが同じ国家の内側にある。

それでも、その内側では別の種類の消耗が進んでいる。


同じ国家の中で、別の戦争が行われている。

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