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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第二十四話「帝都召喚」

召喚命令は、勝利の顔をして届いた。


封緘された厚紙の表には、東方総軍司令部印と、その上から重ねられた参謀本部の印が押されていた。泥と煤で薄黒くなった前線の机の上で、その赤だけが妙に新しかった。


ユリウスは封を切る前に、紙の重さを一度だけ指先で量った。命令文は短いだろう。短い文ほど、消されるものが多い。


「少尉」


エリナが呼んだ。彼女は脇に記録束を抱えたまま立っていた。駅舎跡の一室は、もはや指揮所というより、勝ったはずの戦場の残滓を積み上げた保管庫に近い。机には砲着修正記録、捕虜尋問の抜粋、現地踏査図、分隊長たちの口頭報告を移した紙片が、仕分けの途中で何度も山を変えていた。


ユリウスは命令を開いた。


中央召喚。

速やかに後方駅へ移動の上、帝都行き軍用列車に乗車せよ。

同行一名を認む。

戦果報告および関連記録は封緘して携行のこと。


本文は、それだけだった。


褒賞とも査問とも書いていない。理由を曖昧にしたまま人を動かす文だ。帝国はこういう文体のとき、最も多くのことを隠す。


「ずいぶん急ですね」

「急がせたいんだろう」


ユリウスは紙を畳んだ。勝った直後の前線士官を中央が呼ぶこと自体は珍しくない。だが、石の周辺を見ていた敵斥候の動きと、昨日の時点で届いているはずのない文書日付が噛み合わなかった。


誰かが、彼が何を見たかを、前線より早く知っている。


その事実だけで十分だった。



駅舎跡の外へ出ると、六月の光は思ったより白かった。灰白河は春の濁流を越え、水位だけは幾分落ち着いている。だが水面の色はまだ鈍く、北岸の微高地を越えて吹いてくる風には、湿地の冷えが残っていた。


戦いの終わった地面は静かではない。破片の沈む音、遠い工兵槌の反響、負傷兵を後方へ送る担架のきしみ、乾ききらない土を踏む靴の粘り。勝利のあとには、いつも片づけるべき現実が大量に残る。


トーマスが線路際で待っていた。若い顔に、ここ数日の寝不足がそのまま刻まれている。それでも姿勢は以前より崩れていない。兵が死なない手順を、少しずつ身体が覚え始めている。


「本当に行くんですか」

「命令だ」

「向こうで、あれを調べられるんですか」


あれ、で通じるようになってしまっていた。露出石材、敵斥候の接近点、地図の継ぎ目、削られた記述。名称がないまま共有される違和感は、部隊の中で既にひとつの現実になっていた。


「前線に残って見えることには限りがある」

「じゃあ、ここは」


ユリウスは南側の破壊地帯へ目を向けた。瓦礫の一部は覆い布をかけられ、見張りが二重に立っている。軍事上はそこまで厚く守る必要のない場所だ。だからこそ、守り方そのものが不自然だった。


「記録を残せ。誰が来たか、何を見たか、何を運び出したか。思い込みで書くな。見た順に書け」

「はい」

「噂も拾え。ただし噂と事実を混ぜるな」

「はい」


トーマスは一瞬だけ口を結び、それから声を低くした。


「少尉。あそこを見てた敵、昨日だけじゃないです。おとといの夜も、線路向こうの窪地に足跡がありました。見張りに報せたら、上は狐か野犬だって」

「お前はどう思う」

「狐は石を見に来ません」


ユリウスは頷いた。


「その答えを忘れるな。だが、書くときは足跡の深さと数だけ書け」


トーマスは苦い顔で笑った。以前なら不満だけが先に出ただろう。その短い笑いの奥に、命令の意味を飲み込む速さがあった。


「分かりました。見たことだけ、残します」



戻る途中、フリッツ・ケルナーが壊れた信号柱にもたれて煙草を揉んでいた。火はついていない。口に咥えているだけで落ち着くのだろう。


「聞きましたよ。帝都だそうで」

「耳が早い」

「こういう話だけは列車より早いもんです」


フリッツは川向こうを見ず、足元の道床を見たまま言った。


「ここは、まだ終わっちゃいないですよ。勝った形にはなったが、死に方が普通じゃない場所は、だいたい二度目が来るのが相場です」

「分かってる」

「ならいいんですが。少尉は勝った場所より、残った癖を見る男ですから。あっちへ行っても、その癖を手放さんでください」


老いた兵の忠告というより、地面の側からの確認に近かった。ユリウスは短く頷き、歩を進める。


褒賞でも慰留でもなく、前線の人間たちは彼が何を見ているかで彼を量るようになっていた。英雄譚は兵の口で勝手に膨らむが、彼らが本当に信じているのはそこではない。死に方を変える者かどうかだ。


その信頼は、勲章より重い。

だからこそ、置いていくには重すぎた。



指揮所へ戻ると、エリナが既に三つの束を作っていた。持っていく記録、残す記録、残したように見せる記録。机の上の紙は減ったのではなく、危険の種類ごとに並び替えられていた。


「持っていくのはこれです。砲着修正の原簿、地図の照合写し、捕虜の供述の原文、分隊長報告の一次書きつけ。それから」


彼女は少し迷い、最後に一枚の薄紙を出した。


「勝利報の修正前草案です。消された文が分かるので」

「持っていこう」

「見つかったら面倒です」

「見つからないように持っていく」


エリナはため息をついたが、反対はしなかった。彼女自身、その紙がただの事務残滓ではないと理解している。


「同行一名、ですね」

「お前が来い」

「聞くまでもないですけど、一応、命令として受け取っておきます」


そう言ってから、彼女は少しだけ声を落とした。


「少尉。本気で、あっちに答えがあると思ってますか」

「答えそのものはないかもしれない」

「じゃあ」

「嘘の置き場所はある」


エリナは黙った。窓の外では、壊れた駅舎の骨組みが午後の光を受け、黒い線のように空へ突き出している。その下に、近代より古い何かが埋まっている。敵はそこだけを見て来た。帝国はそこだけを文から消した。


戦場で起きた異常は、偶然にしては手際がよすぎる。


「……分かりました。なら、紙は全部、順番を変えて持ちます。見られても、すぐ意味が繋がらないように」

「頼む」

「少尉は?」

「現地踏査図を持つ」

「一番危ないのを自分で持つんですね」

「一番危ないからだ」


エリナは呆れたように眉を寄せ、だがすぐに実務の顔へ戻った。


「後方駅までの馬車は二刻後です。負傷兵列車の後ろに一両つくそうです」

「豪勢だな」

「褒賞者としては、たぶん最低限です」

「査問対象としてなら、十分か」

「その言い方、縁起が悪いです」


だが否定もしなかった。



出立前、ユリウスはもう一度だけ廃駅南側へ足を向けた。見張りには何も言わず、覆い布の手前で立ち止まる。布の下からは、不規則ではない直線の気配がある。石は砲撃で偶然露出したには角が立ちすぎていた。


軍用地図の継ぎ目。

敵の呼称のずれ。

削除された報告文。

戦略価値の薄い地点への執着。


それぞれは小さい。だが、小さいものほど、同じ方向へ揃うと不気味になる。


ここで掘れば何か出るかもしれない。

だが、今ここで掘っても、前線の一士官に許されるのはせいぜい地下火薬庫か旧砦跡という説明までだ。その説明に回収される瞬間、真実はまた別の名前で封じられる。


必要なのは、もっと上の回路を見ることだった。

誰が地図を継ぎ、誰が文を削り、誰が戦場の意味を選んでいるのか。


ユリウスは布の手前から離れた。


勝った地点を後にする足取りとしては、あまりに乾いていた。未練ではない。納得がないのだ。勝利に納得していない人間は、戦場を去るとき、凱旋ではなく転地のような顔になる。



後方駅は、前線駅舎跡よりもまだ鉄道の形を保っていた。煤けたガラス屋根の下で、負傷兵を積んだ車両が白い湯気を漏らしている。担架の乗せ換え、薬品の匂い、石炭の煙、油で黒ずんだ車輪。ここでは戦争は砲声ではなく輸送量で数えられる。


オスヴィン・ヘルマーという駅区将校が、胸の前で書類板を抱えて立っていた。軍服を着ていても、将校というより時刻表そのものが歩いているような男だ。


「アーデルハイト少尉殿、ヴァイス准尉殿。帝都行きの封緘車両はこちらです」

「負傷兵列車の後ろか」

「はい。最優先ではありませんが、遅延させてもいけない扱いです」


言い方が、物ではなく厄介な荷札を読むようだった。


オスヴィンは声を潜めた。


「途中で連結替えがあります。書類は肌身から離さないでください。最近、前線から中央へ行く紙だけ、妙に軽くなることが」

「軽く」

「枚数は合ってるのに、中身が違うことがあるんです」


エリナがわずかに目を細めた。オスヴィンはそれ以上は言わず、乗車口を示した。こういう現場の人間は、知っていることを全部は言わない。だが、言わない量で事態の重さが分かる。


「助かる」

「礼はいりません。列車は時間に間に合えばそれで。間に合わないと、だいたい誰かが余計に死ぬんです」


ユリウスはその物言いを嫌いではなかった。将軍が地図を見るなら、この男は時刻表で死者数を見ている。



乗り込む前に、エリナが振り返った。駅の外れ、積み荷の影、壊れた信号柱、遠い築堤。そのどこかに、いまも前線の匂いが残っている。


「少尉」

「何だ」

「帝都に着いたら、たぶん最初に言われますよ。おめでとうございます、って」

「だろうな」

「そのとき、変な顔しないでください」

「努力はする」

「努力だけですか」

「保証はできない」


彼女は小さく笑った。その笑いは、ここへ来た頃より短く、だが強かった。前線で生き残る人間の笑いになっている。


「じゃあ、私が少しだけ翻訳します。少尉が黙りすぎたら」

「頼む」

「でも、全部は翻訳しません」

「全部されると困る」

「そうでしょうね」


会話が切れたあと、汽笛が一度、低く鳴った。負傷兵車両の窓は曇り、見送りの兵たちは敬礼よりも先に帽子を押さえる。風が変わったのだ。内地へ向かう列車の風は、前線へ来るときの風と温度が違う。



車両の木椅子に腰を下ろし、ユリウスは窓の外を見た。駅舎跡の黒い骨組みはもう見えない。代わりに、補修された線路、弾薬木箱の山、濡れた土手、遠い河の白い反射だけが残っている。


勝利は確かにあった。

敵の神経線は切れ、廃駅は落ち、前線の形は変わった。


それでも、あの地点を巡って起きたことの説明としては足りない。


敵は何を守っていたのか。

帝国は何を消したのか。

なぜ地図だけが、あそこで継ぎ直されていたのか。


列車がゆっくりと動き始める。車輪が継ぎ目を越えるたび、床板の下で短い衝撃が返ってきた。前へ進んでいるはずなのに、何かの表面を剥がしに行く感覚がある。


エリナは向かいに座り、膝の上に記録束を置いた。互いにしばらく言葉はない。必要なのは会話ではなく、まだ繋がっていない断片を頭の中で落とさないことだった。


やがて灰白河方面の空が、車窓の端で遠のいていく。


ユリウスはそこでようやく、自分の中にあった感覚へ短い言葉を与えた。


この戦争は、おかしい。

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