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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第二十三話「石の周辺」

敵は、奪い返しに来ているのではなかった。


見に来ている。


それに気づいたとき、ユリウスは勝利の手触りより先に、背筋の奥が冷えるのを感じた。




廃駅南側の破壊地帯は、もう戦場というより、砕かれた記録の山に見えた。


崩れた煉瓦、焼けた枕木、ねじ曲がった信号柱、砲弾で裏返された土。その間から、時代の合わない石の角が幾つも覗いている。近代の駅舎の下から、もっと古く、もっと硬いものが、何事もなかったように顔を出していた。


旧線路は半ば埋まり、築堤の裾は雨で削られている。浅い排水溝が南へ流れ、その先で低地の湿りに溶けていた。兵にとってはただ歩きにくいだけの場所だ。砲兵にとっても、観測兵にとっても、特別な利は薄い。


だからこそ、敵がここを気にし続ける理由が、説明からこぼれていた。




夜明け前の霧がまだ地面に残っていた。


ユリウスは崩れた貨物倉の壁陰から、南側の露出地帯を見ていた。隣にはエリナが伏せ、少し離れてトーマスとフリッツが旧線路の切れ目を押さえている。全員、話すときは喉の奥だけで声を使った。


「左の排水溝、見えるか」


ユリウスが言うと、トーマスが双眼鏡を下ろさず答えた。


「見えます。草の倒れ方が新しいです」


「人数は」


「多くて四。もっと少ないかもしれません」


「射たなくていいんですか」


「まだいい」




普通の斥候なら、まず機関銃座の位置を見る。次に連絡壕、予備の集積、交代路を測る。弱いところを探して、次の局地攻撃に繋げる。


だが排水溝を這ってきた影は、こちらの前哨線を横に舐めなかった。


築堤の陰を使い、壊れた信号所の基礎を迂回し、一直線に露出石材の南縁へ寄っていく。そこは帝国軍の兵力がいちばん薄い場所でも、連絡が弱い場所でもない。ただ、石が見える場所だった。


ユリウスは土の上に指で簡単な線を引いた。排水溝、旧線路、露出地帯、帝国側の伏兵位置。影の進路は、軍事的な合理より、視界の通り方を優先していた。


「少尉」


エリナが低く言った。


「もし奪還前提なら、もう少し西を探ります。あそこだと、見えるものが限られすぎます」


「分かっている」




ひとつの影が、石の縁で止まった。


伏せたまま、顔だけを上げる。双眼鏡ではない。小さな覗き筒のようなものだった。もう一人が背後を警戒し、残りは周囲の土を短く触っていた。地雷や罠を確かめる仕草ではない。深さと硬さを見ている手つきだった。


トーマスが舌打ちを呑み込むように息を吸った。


「おかしいです。こっちを見ない」


「見ている」


ユリウスは答えた。


「俺たちをじゃない。あの場所を見ている」




敵の一人が、石の側面へ何か細いものを当てた。


一瞬だけ、霧の白さの中で金属が鈍く光る。長さを測ったのか、刻み目をなぞったのかまでは分からない。だが次の動きは明瞭だった。確認が終わった途端、四つの影は同じ排水溝へ折り返した。


こちらの陣地まで、まだ十分に射程へ入る。


フリッツが振り向いた。撃つなら今、という目だった。


ユリウスは首を横に振った。


「待て」


「逃がすんですか」


「まだ」




敵は帰る途中でも、帝国軍の壕線を探らなかった。


機関銃座の死角にも入らず、電話線の位置にも寄らず、ただ来た道を、来たときより急いで戻っていく。軍の斥候ではある。だが任務の中心は、こちらの戦力判断ではない。


確認だ。


何が、まだそこにあるかの確認。




霧が持ち上がりかけたところで、ようやく東方側から短い牽制砲撃が来た。


だが着弾は前哨線へ散らない。最初の二発は露出地帯の南、次の一発は旧線路脇、その後は石の北縁を浅く掠めただけで終わった。陣地制圧にも、歩兵前進の援護にもなっていない。むしろ、こちらの頭を下げさせて数十秒だけ視界を奪うための砲撃に近かった。


砲煙が流れたあと、敵影はもういなかった。




「今のを記録して」


ユリウスが言うと、エリナはすでに手帳を開いていた。


「時刻、砲着、接近経路、停止位置、撤退方向。全部」


「書いています」


「石の南縁で止まった時間も」


「はい」


「おおよそ二分弱です」


トーマスが言った。


「見に来ただけにしては、短すぎませんか」


「見たいものが決まっていたなら、長い」




その場を引き払ったのは、日が完全に上がってからだった。


壊れた貨車の陰を抜け、露出地帯へ降りる。足元の土は昨夜の湿りを残している。ユリウスは石の周辺だけ、踏み固められ方が違うことに気づいた。帝国兵の出入りだけでは説明しきれない。敵も、以前から何度かここへ来ている。


石は四つ、斜めに連なっていた。


駅舎の基礎にしては古すぎる。切り出しの目が細かく、角の摩耗の仕方も周囲の煉瓦と合わない。ひとつには浅い溝が走り、もうひとつには欠けた縁の内側に、人工の面が残っている。誰かが土ごと剥がしたような跡もあった。


トーマスがしゃがみ込んだ。


「前に片づけたときより、土が減ってます」


「帝国側の作業か」


「俺たちはそこまで掘ってません。触るなって命令でしたから」


フリッツが短く付け足した。


「でも夜のうちに誰か来てます。兵の靴じゃない。底が薄い」




エリナが顔を上げた。


「昨日整理した報告でも、この区画だけ表現が変でした。工兵の損害図では旧線路基部。砲兵の修正文書では南側露出地。後送品目表では、なぜか整理保留地帯です」


「同じ場所なのに、呼び方が揃っていない」


「揃えたくないみたいでした」


ユリウスは石の角へ手袋越しに触れた。


冷たい。朝の気温のせいではない。土の中に長くあったものの冷え方だ。




軍が隠したがるものはいくつかある。


弾薬集積所、観測所、地下倉庫、工兵の仮橋材。どれも戦術で説明がつく。敵が執着しても不自然ではない。


だが、もし地下弾薬庫なら、敵は測る前に壊しに来る。


もし秘密通信所なら、もっと広く周辺を探る。


もし奪還の橋頭堡なら、こちらの機関銃と交代路を先に見る。


今朝の連中は、そのどれでもなかった。


彼らは、軍事的に一番おいしい場所を無視した。


石だけを見た。


石が、まだここにあることを確かめて帰った。




「少尉」


エリナが言った。


「この場所、敵も帝国も、ちゃんと名前を付けていない感じがします」


「名前を付けると、意味が固定される」


「意味を固定したくないから、ずらしてる」


「あるいは、知っている者だけ別の名前で呼んでいる」


トーマスが眉を寄せた。


「つまり、何なんです」


ユリウスは答えなかった。




立ち上がって周囲を見る。


旧線路は廃駅本棟へ向かう途中で、不自然に一度だけ角度を変えている。築堤もその折れに合わせて膨らみ、露出石材はちょうどその内側へ食い込んでいた。駅を建てるなら、もっとまっすぐ通した方が早い。わざわざ避けたのか、もともと何かを跨いだのか。


その違和感は、地図の継ぎ目で見たものと似ていた。


記号の癖、縮尺のわずかなずれ、注記の濁し方。全部が、小さな不一致としては片づけられる。だが別々の場所で同じ方向へ歪むなら、それは事故ではない。




ユリウスはエリナから手帳を受け取った。


昨夜からの記録。砲着。敵影の停止位置。工兵報告の表現差。兵の証言。瓦礫処理の立会名簿。そのどれもが、軍の勝ち負けだけを追えば、脇へ除けられる情報だった。


だから逆に残る。


大きすぎる事実は消されるが、小さすぎる不一致は、整理の網からこぼれる。




「エリナ」


「はい」


「石材周辺の記録をまとめ直してくれ。工兵、砲兵、歩兵、後送、全部」


「名目はどうします」


「地形異常でいい」


「通るでしょうか」


「通らなくても残す」


「分かりました」


「トーマス」


「はい」


「瓦礫処理に入った兵全員から、見たものを口頭で取れ。言葉の揺れも含めて」


「また証言集めですか」


「まただ」


トーマスは少しだけ口の端を上げた。


「了解です」




フリッツは石から目を離さずに言った。


「敵はまた来ます」


「来る」


「次は人数を増やすかもしれない」


「それでも最初に見るのは、たぶんここだ」


「なら、守るんですか」


ユリウスは短く息を吐いた。


守る。


その言葉は簡単だ。だが何を守るのかを誤れば、兵を無駄に張りつけるだけになる。石そのものか、周辺の地形か、記録か、意味か。まだ分からない。


分からないものを、勝手な名前で固定するのがいちばん危ない。




「兵を増やしすぎるな」


ユリウスは言った。


「敵に、こちらが価値を理解したと思わせたくない」


エリナが顔を上げた。


「では」


「見張る。記録する。掘らない。壊さない。触った者の名前を残す」


「了解です」


「それと、今朝の接近経路を地図へ写しておけ。排水溝の深さも測る」


「そこまで見ますか」


「敵が選んだ道は、敵の目的を教える」




その日の午後、東方側からもう一度だけ砲撃が来た。


今度も廃駅本棟ではなく、南側の露出地帯を浅く叩いて終わる。射角は粗く、損害もほとんど出ない。だが偶然ではないことだけは、誰の目にも明らかだった。


兵たちの間では、地下火薬庫だの古い井戸だの、好き勝手な噂が広がり始める。


ユリウスは止めなかった。


誤った説明は危険だが、説明の空白そのものもまた、人を不安で動かす。今はまだ、騒がず、散らさず、観察を続ける方がいい。




夕方、壊れた駅舎の壁に背を預けて、ユリウスは一枚の簡図を見直していた。


排水溝。旧線路。露出石材。敵影の停止位置。砲着。昨日までの敵哨戒路。そこへ、捕虜の使ったあの曖昧な言葉が重なる。駅ではない。補給点でもない。もっと境界に近い何か。


そこまで考えたところで、背後から足音がした。


エリナではない。軍靴の打ち方が固い。伝令だ。




振り向くと、若い下士官が敬礼し、封緘された書類筒を差し出した。


蝋印は厚く、前線司令部のものではない。さらに外側へ、もう一段、見慣れない印が重ねて押されている。


「アーデルハイト少尉あて。至急」


「差出は」


「上から、としか」


ユリウスは筒を受け取った。


重さは紙だけのものだ。だが手の中で、それは妙に冷たかった。




背後では、夕陽が露出石材の角へ長い影を落としている。


敵はそこを見に来た。


帝国もそこをまともな名で呼ばない。


ならば隠しているのは、ひとつの国ではない。




ユリウスはまだ封を切らず、石の方を見た。


この戦争は、やはり戦場だけで終わっていない。

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