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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第二十二話「評価書」

戦場にいない者にも、敗北と勝利の匂いは分かる。


ただし紙の上でそれを嗅ぎ分けられる人間は、あまり多くない。




帝国後方の参謀系統評価室は、病室のように静かだった。


窓は高く、磨り硝子の向こうで曇った昼が白く滲んでいる。石炭の熱は足元にだけ薄く溜まり、部屋の上半分は冷えたままだった。壁には灰白河方面一帯の作戦図が掛けられていたが、色鉛筆の線はもう古く、実際の戦線はそれより少し西へずれている。


机の上には報告書が積まれていた。戦果報、損耗表、砲兵修正記録、工兵架橋経過、輜重遅延一覧、前線聞取抄録、将官所見。どれも同じ戦いを語っているはずなのに、机の上では別々の戦争に見えた。


エルンスト・ハイベルクは眼鏡を押し上げ、いちばん薄い紙束を手に取った。


薄い紙ほど、たいてい重要だった。




灰白河西側廃駅周辺戦闘経過補遺。


表題は無機質だった。勲功を飾る言葉も、勝利を煽る形容もない。ただ日付、時刻、地点、処置、損耗、回復可能戦力、連絡再接続所要。並んでいるのは事実だけだった。


だが、その並び方が妙だった。


普通の現場士官は、何を奪取したかを書く。何を撃破したかを書く。どれほど勇戦したかを書く。上へ通る文とはそういうものだ。読まれるための報告には、勝利の姿勢がある。


この紙束にはそれがない。


あるのは、失敗要因の分類だった。渡河遅延の原因。電話線再敷設の所要時間。観測壕確保後の砲着安定時刻。下士官判断で節約された損耗。負傷兵後送のために切り捨てなかった機関銃の再運用可否。


戦果の報告ではない。


戦い方の報告だった。




エルンストは二枚目をめくった。


分隊長口述要旨。


三枚目。


兵の証言整理。


四枚目。


再編時に有効だった命令文言例。


そこで彼は紙を置いた。椅子の背にもたれ、しばらく天井を見た。白漆喰のひびが、一本、照明の近くを斜めに走っている。


「どうした、ハイベルク少佐」


向かいの机から声がした。軍衣の襟をきちんと締めた中佐級の参謀で、名前より先に整った髭の形が記憶に残る男だった。前線を知らないわけではないが、紙の上で戦争を整えることに慣れすぎている顔だった。


「妙なものでも混じっていたか」


エルンストは紙束を軽く持ち上げた。


「混じっているのではありません。これ自体が妙です」


「勝ち戦の補遺だろう。灰白河の西側は、あのグランツ閣下の方面で久々に見栄えのする成果だ。むしろ珍しく景気のいい話だと思ったが」


「景気のいい報告なら、こんな書き方にはなりません」


彼は最初の頁を相手の机へ滑らせた。


「読めば分かります。奪取した地点より、再接続した命令線と残存戦力の記録が先に来ている。しかも戦闘のたびに兵の証言を採り、分隊長ごとに失敗要因を残している。これは武勲の整理ではない。戦場を教材化しています」


中佐は鼻で小さく笑った。


「几帳面な現場士官はいる」


「ここまで徹底してはいません」


エルンストは即答した。


「この士官は、一度の勝利に興味がない。次でも使える形で部隊を残すことにしか興味がない」




部屋の空気が少しだけ変わった。


相手は黙り、ようやく紙面へ視線を落とした。そこに書かれている数列は地味だ。華やかな勇名に変換しようと思えばいくらでも削れる。だが消し切れないものがある。


たとえば、損耗比率。


たとえば、連絡再建の速さ。


たとえば、敵の神経線を断つことを地点奪取より優先した判断。


そして何より、補遺の末尾に付された短い一文。


戦闘の成否は局地奪取ではなく、次局面移行時の統制維持能力によって判定すべきである。


現場士官の報告にしては、書きすぎていた。


階級の低い人間ほど、そんなことは書かない。書けば、命令の外まで見ていると知られるからだ。




「誰だ」


中佐が言った。


「アーデルハイト少尉です」


「平民か」


「平民です」


「なら、いずれ潰れる」


あまりに即物的で、エルンストは逆に少し感心した。帝国という国は、こういう短い文で大事なことを言い切る人間がいるから長持ちしている。正しいかどうかとは別に。


「潰れるでしょう」


エルンストは答えた。


「放っておけば」


「拾うつもりか」


「拾わなければ、帝国軍のほうが先に潰れます」


相手は紙から目を上げた。冗談を探す顔だったが、エルンストの顔にそれがないと分かると、小さく息を吐いた。




彼は別の書類束を引き寄せた。将官所見。そこには別の戦争が書かれていた。


方面軍の指導が適切であり、前線各部は勇戦敢闘し、敵後方結節点を奪取せり。


美しい文章だった。責任の所在が曖昧で、功績の所在だけが上へ集まるように作られている。典型的な勝利報だった。


その横に、アーデルハイト少尉の補遺がある。


同じ戦場の記録なのに、片方は勲章のために書かれており、片方は次の戦争のために書かれていた。


エルンストはその落差に、寒気に近いものを覚えた。


この少尉は戦術がうまいのではない。


戦争を、学習可能なものとして扱っている。


それは帝国軍に最も必要な資質であり、同時に最も嫌われる資質でもあった。学習する軍は、古い名誉の置き場を奪う。家格で埋めてきた無能を、数字で露出させる。




彼はさらに頁を繰った。


砲兵修正記録の余白に、細い文字で追記がある。


観測壕確保後、敵砲は壕本体より視界回復を優先して反応。地点防御より観測線維持を重視する傾向あり。


エルンストの指が止まった。


戦場を読む目としては正しい。正しすぎる。


しかも、その前の記録には、電話線の結節位置、伝令路の重複、敵搬入路の鈍化時刻まで書いてある。現場でここまで拾う少尉は、珍しいでは済まない。


「グランツ閣下は、この記録を読んだと思うか」


「読む必要があるなら読むだろう」


「必要だと判断しないでしょう」


エルンストは静かに言った。


「閣下に必要なのは、勝ったという形です。なぜ勝てたかではない」




磨り硝子の向こうで、運炭車の音がかすかに鳴った。後方の午後は、前線の砲声より鈍い。


エルンストは椅子を引き、壁の地図の前へ立った。灰白河、湿地、築堤、廃駅。赤と青の細線が絡み合うその一点だけ、報告書に現れる言葉の密度が異様に高い。


戦略価値だけで見れば、執着するほどの場所ではない。


それでも敵は観測線を厚く置き、撤退の直前までその周辺を見ていた。こちらは勝利報から余計な記述を削りたがる。


偶然にしては、双方とも手つきが似すぎている。


だが今、この部屋でそこまで考えるのは危険だった。危険なのは真相に近いからではない。証明できない疑念は、組織の中では無能より始末が悪いからだ。


彼は思考を戻した。


今、読むべきなのは石でも地図でもない。


この記録を書いた人間だ。




机へ戻り、評価書の様式紙を引き出す。


氏名。

階級。

所属。

戦果概要。

指揮適性。

参謀適性。

将来運用案。


帝国は人を認めるとき、必ず枠にはめる。枠に入らないまま認めれば、それは褒賞ではなく脅威の確認になる。


エルンストはペン先を整え、書き始めた。


前線局地指揮において高い状況再構成能力を示す。


通信断絶下における命令簡略化、観測修正、下士官判断活用に卓越。


局地勝利の追求よりも、再編可能戦力の保持を優先する傾向あり。


兵站・観測・通信・教育を一体で把握するため、単純な武勲士官としては扱うべきにあらず。


書きながら、口の中で苦味が広がった。


こう書けば通る。


だが同時に、こう書いた瞬間から、この少尉は前線の片隅に埋もれてはいられなくなる。拾われる。見られる。測られる。中央は有能な人間を褒める前に、使える形へ切り分ける。


それでも書かずにはいられなかった。


帝国が変わらねば生き残れない。


それは彼が若い頃から、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だった。だが多くの場合、その言葉は会議室で縮む。予算と家格と先例に削られ、結局は少しだけましな旧制度に戻る。


この記録だけは違った。


会議室で作られた改革論ではない。


泥の中で、実際に死者を減らすために生まれた考え方だった。




「推薦するのか」


向かいの中佐が言った。


「帝都へ」


「ええ」


「褒賞名目でか」


「それがいちばん通りやすい」


「面白い男だな、おまえは。拾うと言いながら、最初から食わせる餌の味を考えている」


エルンストは顔を上げなかった。


「帝国は、正しい文だけでは人を動かせません」


「少なくとも、あの少尉は動くまいよ。勲章に興味がある顔ではない」


「だからです」


彼は一拍置いた。


「勲章に興味のない人間ほど、帝都へ連れて来る価値がある」




最後の欄に、彼は少しだけ迷ってから書いた。


将来運用案

前線実務の聴取を要す。参謀本部付短期召致、もしくは帝都戦訓照合への出頭を提案。


短期召致。


言葉は穏やかだ。だが前線の少尉にとって、帝都は褒賞の場である前に、測定の場だ。そこへ出す推薦状を、自分はいま書いている。


ペンを置くと、窓の外の白さが少しだけ濃くなっていた。夕方が近い。後方では、一日が静かに終わる。前線ではまだ泥が乾かず、兵たちが同じ外套で夜を越す。


エルンストは報告書の束の上に手を置いた。


紙は冷たかった。


その冷たさの下に、妙な熱がある。勝利の熱ではない。もっと扱いにくいものだ。軍を変えようとする熱だ。戦場の手順を、国家の骨組みにまで伸ばそうとする熱。


帝国は、たぶんこういう人間を愛さない。


だが、こういう人間なしでは、次の戦争で立っていられない。


彼は評価書を封筒へ入れ、参謀本部回付の印を押した。乾ききらない赤い印影が、白い紙の上でじわりと滲む。


拾うか、埋めるか。


中央の仕事は、たいていその二つしかない。


エルンストは封筒を立て、呼鈴を鳴らした。


入ってきた書記兵に、短く言う。


「至急扱いだ。東方軍経由で、帝都本部へ」


書記兵は敬礼し、封筒を受け取った。


扉が閉まる。


部屋の静けさは元に戻ったが、エルンストには、もうさっきまでと同じ部屋には思えなかった。


灰白河の泥は、まだここまで届いていない。


だが記録は届いた。


それで十分だった。


紙だけで、戦場の先を見せる人間がいる。


そういう人間を、帝国は必要としている。


そして、必要としていることを、たぶん最後まで認めたがらない。

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