第十九話「噂の士官」
英雄は、だいたい本人のいないところで生まれる。
砲煙の中ではなく、鍋の列と寝藁のあいだで。
生き残った兵の口が、死者のぶんまで勝手に話を膨らませる。
トーマスがそれを知ったのは、廃駅を奪ってから五日ほど経った夕方だった。
野営地の空気から、ようやく硝煙の焦げた匂いが少し抜けはじめ、代わりに煮崩れた豆と湿った藁の匂いが戻ってきたころだ。
食糧列は長かった。
錆びた飯盒を抱えた兵たちが、泥を踏みならして蛇のように曲がっている。
誰も腹を立てる元気までは残していなかったが、口だけは動く。口が止まると、死んだ連中の顔が勝手に浮くからだ。
「聞いたか、あの少尉殿、最初から廃駅の下まで見えてたらしいぞ」
列の前の方で、補充兵の一人が声を潜めたつもりで言った。
潜めたつもりでも、腹の減った兵舎では半分叫んでいるようなものだ。
「下って何だよ」
「石だよ、石。あの古いやつだ。最初からあそこ狙いだったって」
「馬鹿言え。少尉殿は工兵でも学者でもねえ」
「でも見てたじゃないか。駅舎の掃討が済んだあとも、将軍の褒賞なんかほったらかして、地面の方ばっかり」
「そりゃ少尉殿だからだろ」
それで妙に話が通るのが、今の隊の悪いところだった。
少尉だから、で済ませてしまう。
何を見て、どう考えて、どこまで先を読んだのかは分からない。ただ、少尉殿ならやりそうだ、で話が閉じる。
後ろで笑い声がした。
「俺は見たぞ。渡河のとき、敵の機関銃がこっち向いた瞬間、少尉殿が一回だけ手を上げた。そしたら砲弾がぴたりと落ちて、あっちの巣が黙った」
「それを先に言えよ。なんだ、少尉殿は砲兵まで操るのか」
「違うな。敵の考えてることが読めるんだ」
「もっと違う。あの人は地図の裏を見てる」
笑いは起きたが、完全な冗談として笑われたわけではなかった。
半分は本気だった。
戦場を抜けた兵は、理屈で説明しきれない生還に、どうしても形を与えたがる。
この隊がここまで残ったこと。
あの崩れた攻勢のあとで、西側へずれて、築堤の陰を使って、廃駅まで食い込めたこと。
それを全部、手順と判断の積み重ねだけで受け止めるには、人はあまりにも疲れている。
トーマスは飯盒の縁を親指でこすった。
少尉がすごいのは、事実だ。
それはもう疑いようがない。
けれど、兵たちの口に乗り始めた少尉は、トーマスの知っている少尉とは少し違っていた。
トーマスの前で、古参のフリッツ・ケルナーが鼻を鳴らした。
「お前ら、勝手に神様にするな」
列が少し静かになった。
フリッツは三十を越えた古参で、背は高くないが、立っているだけで周りの兵が余計な身振りを減らす類の男だった。
勇ましいからではない。生き残り方を知っている顔をしているからだ。
「神様なんかじゃねえよ」とさっきの補充兵が言った。「英雄だ」
「似たようなもんだ。そういうのは、だいたい本人を殺す」
「でも実際、助けられたじゃないですか」
「助けられたさ」
フリッツは前を向いたまま答えた。
「だがな、あの少尉殿がやったのは奇跡じゃねえ。手順を変えたんだ。橋頭堡を広げろって場面で広げず、傷兵と機関銃を捨てず、電話線が死んだあとも走る順番を組み替えた。俺らが生きたのは、その細けえ積み重ねだ」
「じゃあやっぱり英雄じゃないですか」
「違う」
フリッツはようやく振り向いた。
「英雄ってのはな、話した奴の気持ちがよくなるように出来てる。だがあの人は、俺らの気持ちなんざ気にしねえ。死なない形を作る方を先にやる」
列の何人かが苦笑した。
それも否定にはならなかった。
むしろ余計に、本物らしく聞こえてしまう。
鍋の前まで来ると、配給兵が柄杓で豆の煮込みを乱暴によそった。
底の方から掬われたのか、汁より豆が多い。
今日は当たりだ、と誰かが言って、また小さく笑いが走った。
トーマスは飯盒を受け取り、列から外れた。
兵舎代わりの粗末な板囲いの脇、風の当たりにくいところへ腰を下ろすと、すぐ隣へフリッツも来た。
「お前はどう思う」
唐突にそう言われて、トーマスは豆をひと口飲み込んでから答えた。
「何がです」
「少尉殿だよ。噂の士官様だ」
トーマスは少し考えた。
泥の中で、怒鳴りもしないまま横移動を決めた顔。
砲弾の遅れを見て、すぐ捨てる場所を決めた手。
駅舎の地下で古い石が出たあと、誰よりもそれを見ていたくせに、誰より先に兵を遠ざけた背中。
褒賞が決まったと聞かされても、顔色一つ変えずに、証言の取りまとめと地図の写しを優先させた姿。
「死なせない人だと思います」
フリッツは「そうだな」とだけ言った。
その一言に、妙な重みがあった。
「でも」とトーマスは続けた。「兵が言うみたいな、景気のいい人じゃないです」
「景気がよかったら困る」
「困るんですか」
「勝って浮かれる士官は、次でまとめて死なせる」
フリッツは飯盒の湯気越しに、東の空を見た。
夕方の雲は低く、向こうの前線は見えない。ただ空が少し暗いだけで、まだその先に敵がいると分かる。
「覚えとけ、トーマス。噂ってのは、兵が自分を納得させるための道具だ。あれが英雄なら俺たちは運がよかったことになる。だが、少尉殿はそういう運の話にしたがらねえ」
「じゃあ何なんです」
「手順を変える人だ。だから厄介なんだよ」
フリッツはそこで話を切った。
あまり多くを語る男ではない。
それでもトーマスには、その短い言葉が妙に引っかかった。
手順を変える人。
それは褒め言葉のようで、どこか怖くもあった。
戦場では、手順は命綱だ。
皆が知っている順番、皆が従う形、それが崩れると人は死ぬ。
なのに、少尉はそれを変える。
変えて、そのたびに生き残る人数を増やしてしまう。
兵が噂を作るのも無理はない、とトーマスは思った。
普通の言葉では収まりが悪いのだ。
夜、兵舎の中はさらにうるさくなった。
濡れた靴下を火のそばへ吊るし、背嚢を枕にして寝転ぶ者、飯盒の底を舐める者、爪のあいだから泥をほじる者。
砲声が遠のくと、人は自分の声量をうまく調整できなくなる。
「少尉殿は将軍に向かって、あの渡河案は死人の順番表だって言ったらしいぞ」
「言うかよ、そんなこと」
「いや、言っててもおかしくない」
「もっとすごい話を聞いた。敵の捕虜が、あの人の顔を見ただけで口を割ったんだと」
「それはただ怖かっただけだろ」
「違うな。少尉殿は怖いんじゃない。見抜くんだ」
「同じだろ」
笑いと咳が混じる。
誰かが脚の傷を掻いて叱られている。
別の誰かが、戦死した仲間の名をふと口にして、一瞬だけ沈黙が落ちる。
その沈黙を埋めるように、また噂が始まる。
英雄譚は、たいてい死者の隙間に流し込まれる。
トーマスは寝床の端に座り、膝を抱えた。
あまり遠くないところで、エリナの声がしていた。
記録班の連中に何か指示を出しているらしい。
紙の擦れる音、板机にペン先が当たる音、兵の名を確かめる短いやり取り。
そこへ、兵舎の入口で急に背筋の伸びる気配が走った。
ユリウスが入ってきた。
騒がしさは、一拍遅れてしぼんだ。
誰も敬礼の号令をかけないのに、自然と姿勢だけが少し正される。
それが今の隊の少尉に対する反応だった。
噂の中心にいる本人は、相変わらず地味だった。
軍服は泥の色が抜けきっておらず、襟も新しくはない。
勲章らしいものも、胸の前に増えていない。
顔立ちは整っているのに、それを売り物にする気配がまるでなかった。
英雄らしく見えない。
だからこそ兵たちは、勝手に英雄らしさを付け足すのだろう。
ユリウスは兵舎全体を見回すのではなく、必要なものだけ拾うように視線を動かした。
「ゲイル」
名前を呼ばれて、トーマスは慌てて立ち上がった。
「は、はい」
「お前の班の証言、まだ一人分抜けている。渡河直後に左へずれたとき、機関銃を運んだ順番だ。思い出せるか」
思い出せるか、だけだった。
労いも、勝利を讃える言葉もない。
さっきまで兵たちが語っていた噂の少尉なら、ここで一つくらい気の利いた台詞を吐いて、兵舎を黙らせてもよさそうなものだった。
トーマスは口を開きかけ、すぐ閉じた。
思い出せるか、と言われて、自分がほとんど正確に順番を思い出せることに気づいたからだ。
「ええと……最初がフリッツ伍長で、その後ろが俺です。機関銃本体は二人で、三脚が別でした。弾薬箱は――」
「そこだ」
ユリウスは短く言った。
「弾薬箱を誰が持っていた」
「ケルナー伍長の後ろ、補充のハンスです。途中で転んで、俺が片方持ちました」
「その時刻は」
時刻までいるのか、と兵舎の空気が少しざわついた。
だがユリウスは気づかないふりをしているのか、本当に聞こえていないのか、表情を変えなかった。
トーマスは必死に思い出した。
砲声。
泥。
壕の縁に刺さった板。
誰かの悲鳴。
エリナが伝令を通した時間。
築堤の陰へ入ったときの呼吸の苦しさ。
「最初の断線報告の、たぶん少し後です。ヴァイス准尉が走って来たあとで……」
「十分だ。あとで地図の上で確認する」
それだけ言って、ユリウスは次の兵へ視線を移した。
「靴底の損耗を見せろ。明日の移動で切れる者は先に申告しろ」
兵たちが一瞬、ぽかんとした顔になる。
褒賞の報告でもなければ、戦勝の訓示でもない。
靴底だった。
「食糧列の待機が長すぎる。後方の受け取り口を二つに分ける。湯を沸かす場所と配る場所を同じにするな」
今度は配給係が慌てて姿勢を正した。
ユリウスは責める口調ではなかったが、責任の所在より先に改善の順番を決めてしまう。
そのせいで、怒鳴られた時よりも逆らいにくい。
「負傷兵名簿は」
入口の外からエリナが顔を出した。
「今まとめています。証言の照合が三人分、まだです」
「死者の持ち物は」
「まとめてあります。識別票と分けてあります」
「分かる形で返せ」
「はい」
そのやり取りは短く、乾いていた。
けれどトーマスには、奇妙なことが分かった。
少尉は、勝ったあとの夜をまるで勝ったあとの夜として扱っていない。
気が緩めば終わるものではなく、ここから始まる作業だとでも思っているようだった。
兵たちが噂で少尉を英雄にしているその時に、本人は靴底と配給口と死者の持ち物を見ている。
兵舎の隅で、誰かが小声で言った。
「ほらな。やっぱり普通じゃない」
今度は笑いが起きなかった。
否定できる者がいなかったからだ。
ユリウスは兵舎の中央まで入ってきて、火の明るさの届くところで止まった。
その目は疲れているはずなのに、妙に醒めていた。
戦った者の目ではある。だが勝った者の目ではない。
「明日から証言をもう一度取る」
低い声が兵舎の中を通った。
「何を見て、どこで止まり、誰が先に気づいたかを残せ。うまくやった話はいらない。失敗した順番を先に出せ。次で同じことを繰り返さないためだ」
誰も返事をしなかった。
命令は理解できる。
だが、その意味はすぐには飲み込めない。
勝ったのだ。
敵の電話線も観測線も切った。
廃駅も押さえた。
将軍連中は勲功だの報告書だのを並べている。
その夜に、少尉はまだ次の失敗の話をしている。
トーマスの胸のあたりで、何かが静かに落ちた。
ああ、この人は、と彼は思った。
本当に、勝って嬉しいわけじゃないのだ。
嬉しくない、は違う。
そんな簡単な顔ではない。
もっと厄介な、言葉にしにくい感覚だ。
足りないのだ。
一つ勝っても、足りない。
一つ助かっても、足りない。
一つ正しい手順を作っても、それで終わりにならないと知っている顔だ。
兵たちは少尉のことを、敵の考えを読むだの、砲兵を操るだの、地図の裏が見えるだのと噂する。
だが本当におかしいのは、そこではないのかもしれない。
勝ったあとに、人より先に祝わないこと。
人より先に、次に壊れる場所を探すこと。
生き残った者の口を、武勇談ではなく失敗の記録へ向けようとすること。
それは英雄の顔ではない。
もっと冷たくて、もっと遠い。
けれど、トーマスは不思議と嫌ではなかった。
怖いとは思う。
少しだけ、人間と噛み合っていないとも思う。
それでも、あの顔を見ていると、自分たちがただ将軍の勲章のために残されたのではないと信じられた。
ユリウスは必要なことだけ言い終えると、すぐ兵舎を出ていこうとした。
そこでふと立ち止まり、振り返りもせずに言った。
「ゲイル」
「はい」
「お前は噂を集めるのがうまい」
兵舎の何人かが吹き出しかけて、慌てて飲み込んだ。
トーマスは顔が熱くなるのを感じた。
「明日から、それも使え。兵が何を怖がっているか、何を勝手に信じ始めているか、まとめろ」
「噂を、ですか」
「噂は地面の上を流れる。命令より早いことがある」
それだけだった。
からかわれたのではない。
本気で使うつもりの声だった。
ユリウスが出ていくと、兵舎の中に押し殺したざわめきが戻った。
だがさっきまでの浮ついたものではない。
少しだけ、自分たちの言葉が見張られているような、妙な緊張が混ざっていた。
フリッツが小さく息を吐いた。
「言ったろ。神様じゃねえ」
「じゃあ何です」
トーマスはもう一度聞いた。
フリッツは肩をすくめた。
「知らん。だが、俺たちが勝ってよかったと安心する前に、次にどこが壊れるか考えてる人間だ。それだけは確かだ」
火がぱちりと鳴った。
外では夜風が板壁を撫でている。
遠く、東の方で一度だけ鈍い砲声がした。遅れて届くその響きは、まるで戦場そのものが眠るのを拒んでいるようだった。
トーマスは寝藁へ横になったが、なかなか目を閉じられなかった。
兵たちの作る噂の中で、少尉はもう半分伝説になりかけている。
敵弾を読んだ、地図の裏を見た、将軍を黙らせた、石の下の秘密まで知っていた。
明日になればもっと増えるだろう。
生き残った兵の数だけ、別の少尉が生まれる。
けれどトーマスだけは、今夜見た本物の顔を覚えていた。
誰より静かで。
誰より浮かれず。
勝った場所ではなく、まだ足りない場所を見ていた目。
あれなら、兵たちの噂なんか一つも嬉しくないだろう。
むしろ邪魔ですらあるかもしれない。
それでも噂は広がる。
人はそうやってしか、生き残った意味を抱えきれない。
トーマスは薄暗い天井を見上げた。
少尉の言った言葉が、耳の奥で何度か反復した。
噂は地面の上を流れる。
命令より早いことがある。
兵の口が作る英雄。
本人が見ている足りなさ。
そのあいだには、思っていたより大きな溝があった。
そしてたぶん、少尉はその溝ごと使うつもりなのだ。
トーマスはそこでようやく、自分が少しだけ震えていることに気づいた。
寒さのせいではなかった。
あの人は、ただ強いのではない。
強い者の顔で、もっと先の何かに間に合わせようとしている。
廃駅を取っても終わらない。
勲功をもらっても終わらない。
兵に英雄扱いされても、まだ足りない。
それが分かった瞬間、トーマスには、少尉の背中が昼より遠く見えた。
遠いのに、見失ってはいけない背中だった。




