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第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

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第十四話「勝利報の書式」

勝利は、砲声が止んだあとにもう一度殺されることがある。


前線書記壕の天幕は低く、湿っていた。

外ではまだ瓦礫をどける音が続いているのに、内側では紙の擦れる音のほうが大きい。

濡れた軍靴、煤けたランプ、乾ききらないインク、血のついた包帯と一緒に積まれた報告用紙。そのどれもが、戦いが終わったとは少しも言っていなかった。


エリナは机代わりの弾薬箱に身を屈め、記録束を左から右へ移していった。

砲兵観測記録。

信号所制圧時刻。

敵電話線切断の確認。

負傷者後送名簿。

弾薬消費。

工兵の補修要求。

それから、トーマスのような兵たちから拾い上げた、書式にもならない断片の証言。


紙の上では、戦場は細かく切り刻まれる。

誰がいつ走ったか、どこで電話線が切れたか、どの壕で三名死んだか。

だが本当は、その切り刻まれた断片のつながりにこそ意味がある。

ユリウスはいつもそこを見ていた。

だからエリナも、最近は一枚の紙だけを見なくなっていた。


彼女は新しい報告用紙を引き寄せ、罫線に沿って見出しを書いた。


灰白河西部廃駅地区戦果報告

第一東方方面軍前進連隊群提出

起草担当 准尉相当補佐官 エリナ・ヴァイス


そこまで書いて、一度だけ指を止める。

起草担当。

その語の小ささが、少しだけ腹立たしかった。


外で誰が戦況を変えたかを、彼女は知っている。

泥の中で横移動を通し、砲兵の眼をつなぎ、電話線ではなく敵の神経そのものを切りに行ったのが誰か。

そして駅舎の下から、時代の合わない石組みが顔を出した瞬間に、兵たちの勝利の顔色が変わったことも知っている。


彼女は書いた。


「同日未明より廃駅本棟および信号所に対する掃討を実施。敵残兵の抵抗を排除し、通信・観測・連絡結節として機能していた駅区を制圧した。

特に北側観測壕帯と信号所を結ぶ電話線集中部の切断により、敵後方の砲着修正および伝令循環は著しく遅滞したと認む」


ここまではよい。

書式上も通る。

問題は、その先だった。


エリナは別紙の現地覚え書きをめくった。

トーマスの口述をもとに急いで書きつけたものだ。字が揺れている。

地下室の床面崩落。

古い石材露出。

近代建築の基礎としては不自然。

信号所周辺の地下線路図と地上構造に軽微不一致。


さらに、彼女自身が加えた注記がある。


当該地点に関する既存地図格子の扱い曖昧。

砲着記録上、一部座標のみ上級文書との照合不能。

電話線集中の度合い、通常の前線中継拠点としては過剰。


インクが少し滲んだ。

紙が湿っているのではない。

自分の指先が冷えているのだと、エリナは少し遅れて気づいた。


「そこ、書くのか」


顔を上げると、壕の入口にユリウスが立っていた。

軍服にはまだ駅舎の埃が残っている。肩のあたりに細かい石粉までついていた。

どこか怪我をしていても不思議ではない顔色なのに、本人は怪我より先に紙を見る。


「書きます」

「通りにくい」

「分かっています」


ユリウスはそれ以上すぐには言わなかった。

壕の中に入り、机の端へ置かれた砲着記録を見て、それからエリナの書きかけへ視線を戻す。

彼の沈黙は、たいてい急かしではない。考えている時間だ。


「削られますよ」

「だろうな」

「なら最初から、通る形で」

「いや」


短かった。

だがその一音で、彼が何を優先しているかは分かった。


「最初の文は事実でいい。通すための文は、そのあとで作る」

「二本立てにするんですか」

「残すためだ」


ユリウスは机上の別紙を一枚引き寄せた。

駅舎地下の簡易見取り図だ。トーマスに言わせて書かせたので線が粗い。

その粗い線を、彼は少しだけ眺めた。


「勝ったことより、何に勝ったかが重要だ」

「でも帝国軍が欲しいのは、何に勝ったかじゃありません」

「知ってる」


彼はそう言って、紙を戻した。

怒っていないように見えるのが、かえって不気味だった。

自分の功績が奪われることより、記録の形が変わることのほうを先に見ている。

エリナには、その優先順位がときどき腹立たしく、同時に少しだけ恐ろしかった。


彼女は再び筆を走らせた。


「なお、駅舎地下より露出した石組み構造は現行施設の施工年代と合致せず、加えて信号所周辺への電話線集中は通常の前線運用規模を超過している。軍事上の価値のみをもって当該地点の防御厚を説明し難く、工兵・地図・戦時記録の三系統による照合を具申する」


そこまで書き切ったところで、外から足音が駆けこんできた。


「ヴァイス准尉」

「はい」


司令部系統の伝令だった。泥より先に書類鞄を守る種類の走り方をする男で、息を切らしていても紙だけは濡らしていない。

彼は封緘紙を差し出した。


「方面軍書記班より修正案です。至急、清書前に反映せよとのことです」


速い。

速すぎる、とエリナは思った。

こちらの原稿はまだ上へ出していない。なのに修正案だけが先に来る。

つまり向こうは、内容を読んで直しているのではない。

最初から、どう書かせるかを決めている。


封を切る。

中には薄青の用紙が二枚、整った字で綴じられていた。


一枚目を見た瞬間、エリナのこめかみが冷たくなった。


灰白河西部廃駅地区戦果報告

第一東方方面軍司令部整理案


同日未明、方面軍の周到なる攻勢指導のもと、各部隊は敵前衛を圧迫しつつ廃駅地区へ突入、同地区を奪取せり。

駅区は敵連絡拠点として一定の価値を有し、これを失いたる敵は後退を余儀なくされ、我が軍は当方面における戦線安定化の端緒を得たり。


それだけなら、まだよかった。

定型句だ。

どこの戦場にもある。

彼女の視線を本当に止めたのは、その下の削除指定欄だった。


「電話線集中の件 不要事項」

「地下石材露出の件 工務照会外、記載不要」

「地図格子不一致の件 戦果報告書式に不適」

「観測壕帯・信号所・駅舎地下の相互関連記述 煩雑につき簡略化」

「個別現場判断に関する記述 上級指導の趣旨を損なうため調整」


最後の一行で、エリナは息を吸うのを忘れた。


個別現場判断。


そこに名前はない。

だが、消されるのが誰かは明白だった。


二枚目には、功績配分案があった。

方面軍司令部の統制、将官級の統率、工兵監部の迅速な連携、砲兵群の精確な支援。

その列のずっと下に、「前進部隊各員奮戦」という便利な一語で現場がまとめて沈められている。

ユリウスの名はどこにもなかった。


「……ひどい」


声に出したつもりはなかった。

だが出ていたらしい。


伝令は気まずそうに目を逸らした。

彼に責任はない。そんなことは分かっている。

それでもエリナは、用紙の端が破れそうなほど強く握っていた。


「原本はまだでしょう」

と彼女は言った。

「こちらの起草前に、どうして整理案だけ先に来るんですか」


伝令は少し黙り、それから事務的に答えた。


「上で必要と判断されたからです」

「何を必要と」

「通る形を、です」


その言い方が、いちばん腹立たしかった。

通る形。

人が死んだ順ではなく、責任が散る形。

勝敗の理由ではなく、家格が収まりのいい形。


エリナは修正案を机へ叩きつけた。

薄い紙なのに、乾いた音が壕の中へ広がった。


「駅舎の下にあったものも、電話線の異常も、全部見たんです。見た上で書いてるんです。あれを消したら、ただの奪還戦になる」

「戦果報告は戦果を記す文書です」

伝令はなおも事務的だった。

「照合未了事項や推測を混ぜれば、上で止まります」

「推測じゃありません」

「証明も未了です」


エリナは反論しかけて、言葉を呑んだ。

それが、いちばん厄介だったからだ。

相手は完全な嘘を言っていない。

証明は未了。

工務照会もまだ。

地図格子の不一致も、今の時点では戦場実感にすぎない。

だからこそ、削除はいつでも「慎重さ」の顔をしてやって来る。


彼女が黙った隙に、背後でユリウスが口を開いた。


「赤鉛筆は」

「え」

「あるか」


エリナは無言で差し出した。

ユリウスは修正案の余白に、淡々と線を引き始めた。

怒りで、ではない。砲兵の修正値を直すときと同じ手つきだった。


「この文だと、敵がなぜそこを守ったかが消える」

「はい」

「ここもだ。駅区の価値を“一定”と書くなら、過剰防御の説明がなくなる」

「はい」

「つまり勝った理由が消える」


伝令が言う。

「少尉、それは報告書の目的では」

「違う」


ユリウスは顔を上げた。

声は低いままだったが、壕の中の空気がそこで少し張った。


「報告書の目的は、次で同じ死に方をしないことだ」


その一言で、伝令は黙った。

ユリウスは構わず続ける。


「勝ったとだけ書けば、次は同じ誤りが再生される。どこが要地で、何が異常で、どこに線が集まっていたかが残らない。そうなれば、次の将官はまた地図の上で勝つ」


エリナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

怒りではない。

それだけではない。

この人はやはり、手柄を奪われることそれ自体に一番傷ついているのではないのだ。

もっと先の、まだ起きていない損耗のほうを見ている。

だから、自分が代わりに腹を立てなければならない気がした。


「ではどうするんですか」

彼女はユリウスへ向いた。

「この形で上げれば、事実が死にます。こちらの形で上げれば、止められます」


ユリウスは少しだけ考えた。


「両方やる」

「両方」

「通る文で戦果を上げる。別紙で現場記録を残す。分離して送る」

伝令が顔をしかめる。

「別紙は所管外に回される可能性が」

「構わない。回された先があると分かるだけでも残る」

「残らないこともあります」

「なら複写を作る」


エリナはそこで、ようやく息をついた。

それでいいのだ。

正面から正しさを押し通せないなら、痕跡を増やす。

消される前に、別の導線へ逃がす。

それは帝都近郊で覚えた、あまり好きではない処世術だった。

けれど前線では、たぶん生存技術でもある。


彼女は新しい用紙を引き寄せた。

一枚は司令部へ通す用。

一枚は現場照合用。

さらにもう一枚、薄い複写紙を差し込む。


「分配を変えます」

「任せる」


エリナは筆先を整え、通るための文を書き始めた。

それは彼女にとって屈辱だった。

だが同時に、戦うことでもあった。


「方面軍の指導下、廃駅地区敵拠点を制圧し、敵連絡能力を低下せしめたり」


その下の別紙には、別の文を書く。


「駅舎地下に露出した石組み構造および電話線集中の異常は、当該地点の戦術価値を超える意味を示唆する可能性あり。後日照合を要す」


さらにその複写の余白へ、ごく小さく書き足す。


「削除指定あり。原本保全要」


文字が細かくなるほど、怒りは静かになった。

怒鳴るより先に、残す。

文句を言うより先に、導線を増やす。

それはたぶん、ユリウスのやり方に近い。


伝令が修正版を受け取って出ていったあと、壕の中にはまた紙の音だけが残った。

外では勝利の片づけが続いている。

負傷兵のうめきと、鉄板をずらす音と、誰かが笑う声。

勝っているはずなのに、そのどれもが少し乾きすぎて聞こえた。


「少尉」

「何だ」

「私、腹が立っています」


ユリウスは、書類棚代わりの木箱へ視線を落としたまま答えた。


「知ってる」

「手柄を取られたからじゃありません」

「それも知ってる」

「起きたことを、起きなかったみたいに直されるのが嫌なんです」


そこで初めて、彼はエリナのほうを見た。

灰青の目は疲れていたが、妙に静かだった。


「それでいい」

「よくないです」

「怒るのは必要だ」

「少尉は怒ってない」

「怒っている」


嘘だ、とエリナは言いかけた。

だが彼は続けた。


「ただ、相手の望む形では見せないだけだ」


その言い方が、妙に残った。

怒りにも形式がある。

帝国ではたぶん、怒鳴る者から先に切り離される。

なら残るのは、静かに複写を増やす者だ。


壕の外で、短い喚声が上がった。

誰かが入口布を跳ね上げる。


「捕虜を連れてきました!」


若い兵が顔を出した。泥と興奮で目が赤い。

後ろには、手首を縛られた東方兵が二人、憲兵に押されて立っていた。

一人は肩を撃たれ、もう一人は駅の煤を顔じゅうにつけている。

信号所から引きずり出された連中だろう。


兵は言った。


「地下へ潜ろうとしていたやつです。言葉は通じませんが、何度も同じ場所を見てました。あの石の出たあたりを」


エリナは反射的にユリウスを見た。

ユリウスはすでに立ち上がっていた。


勝利報は、まだ乾いていない。

その乾かない紙の匂いの向こうで、別の口が開こうとしている。


エリナは机の上の複写を押さえ、消される前の文字がそこにあることを確かめてから、ユリウスのあとを追った。

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