第十三話「駅舎制圧」
勝った時、兵隊はまず自分がまだ生きていることを信じない。
それから、自分の足が動いていることを、妙に腹立たしく感じる。
さっきまで泥に張りついていた脚が、今は勝手に前へ出る。
死ぬはずだった場所を越えた身体だけが、遅れて勝利を知る。
廃駅の本棟は、煙の向こうで黒く立っていた。
屋根は半分落ち、正面の破風には砲片が入っている。
窓ガラスはほとんど残っておらず、割れた枠の奥で暗い穴がいくつも口を開けていた。
駅というより、焼けかけた倉庫か、死に損なった要塞に見えた。
トーマスは銃を胸に抱えたまま、築堤の陰にしゃがんで息を吐いた。
喉の奥が鉄みたいに苦い。鼻の中は煉瓦の粉と煤でざらついていた。
隣でフリッツ・ケルナーが、土を払うでもなく短く言う。
「止まるな。止まると自分が撃たれることばっか考える」
「もう十分考えてますよ」
「なら動ける」
それだけだった。
前の方で手が上がる。
突入の合図だ。
誰かが吠えたわけではない。いつ砲が止み、いつ走るかは、さっきのうちに決められていた。
あの少尉が決めたのだ、とトーマスは思った。
名前を出さなくても分かる。
敵の裏へ回る角度も、どの窓を砲で潰して、どの壁はあえて残すかも、細かく決めていたのはユリウスだった。
駅舎を吹き飛ばすのでなく、使える形で奪れ、と彼は言った。
勝つためではなく、そのあと使うために。
兵隊にはときどき、その違いがよく分からない。
だが、分からないまま従って生き残ることはある。
「行くぞ!」
フリッツが飛び出した。
トーマスもつられて地を蹴る。
砕けた枕木、捻じ曲がったレール、砲撃でえぐれた構内の穴を越えるたび、肺がひっくり返りそうになる。
駅前広場の手前で、右の二階窓から火が走った。
乾いた三発。壁の煉瓦が耳の横で砕ける。
誰かが伏せ、誰かが叫び、誰かがそのまま動かなくなる。
トーマスは倒れた男を見なかった。
見れば足が止まる。
止まれば次は自分だ。
「右窓!」
喉が勝手に怒鳴った。
自分の声なのに、自分のものではないみたいだった。
隣の機関銃が短く吐く。
窓の中の暗がりが砕け、火が消える。
その瞬間にまた前へ出る。
考えるより先に、教え込まれた手順で身体が動く。
待合室の扉は、半ば吹き飛んでぶら下がっていた。
中は煤と紙片と木片の匂いでむせ返っていた。
長椅子は横倒しになり、時刻表の板は弾痕だらけで、床には切れた電話線が蛇みたいに這っている。
駅員窓口の奥から、誰かが呻いた。
トーマスは銃口を向けた。
先に撃ったのは向こうだった。
板壁を抜いた弾が頬をかすめ、熱い線だけ残して過ぎる。
気づけば引き金を引いていた。
肩が跳ねる。
薄暗い窓口の奥で影が崩れ、帳簿の束がばさりと落ちた。
勝った、とはその場では思わない。
ただ、次の扉へ行かなければと思う。
一つ終わったら、その次だ。
戦場の中では、安心がいちばん遅れて来る。
「左、事務室! 二人!」
フリッツの声で、また走る。
事務室にはまだ敵がいた。
軍服の色は煤で見分けがつかず、顔もほとんど分からない。
分かったのは、相手もこちらと同じように若く、同じように目を剥いていたことだけだ。
狭い室内で銃床がぶつかる。
誰かが机ごと倒れ、インク瓶が割れた。
黒い液が床に広がり、靴底でぬるりと滑る。
トーマスは相手の肩口に体当たりし、そのまま壁へ押しつけた。
相手が何か言った。
言葉は分からなかった。
祈りみたいにも、罵りみたいにも聞こえた。
次の瞬間、横から入ったフリッツの銃床がその男のこめかみを打った。
相手は崩れ、机の脚に引っかかって止まった。
静かになってから、トーマスは自分が相手の襟を掴んだまま離していないことに気づいた。
「離せ」
言われて、ようやく手が開いた。
待合室を抜けると、廊下の先に階段があった。
上へ行けば信号所だ。
そこを取れ、と何度も言われていた。
ただの駅なら、あそこまで言われない。
階段の途中で、また銃声が鳴る。
今度は上からではない。横だ。
壁の向こう、倉庫側に残っていた敵兵が撃っていた。
兵たちが散って伏せる。
木箱が裂け、中の信号灯具が転がる。
赤い硝子が靴先で砕けた。
「倉庫は後! 上を先に取る!」
下士官が怒鳴る。
命令は短かった。
短い命令ほど、今はありがたい。
トーマスは階段を駆け上がった。
板段がきしみ、灰が舞う。
二階の扉は内側から机で塞がれていたが、さっきの砲撃で蝶番が死んでいた。
三人がかりで体当たりすると、扉ごと机がひっくり返った。
信号所の中は、まだ生きていた。
窓の列。
てこの並んだ信号扱い台。
切断されたはずの線がなお壁に束で集まり、机の上では送受器が短く鳴いている。
廃駅のはずなのに、死にきっていない。
そこに残っていた敵兵は三人だった。
一人は窓際で撃ち、一人は床に膝をついて何かを燃やそうとしていた。
もう一人は、振り向きもしなかった。
壁際の配線盤にへばりつき、必死で何かを切ろうとしていた。
「撃つな! 盤を残せ!」
誰かが叫んだ。
たぶん、下から上がってきた伝令の声だった。
トーマスには、どうしてそんな余裕があるのか分からなかった。
目の前の敵より板の箱を守れと言われても、兵隊の頭はすぐには追いつかない。
だが、またあの少尉の声が頭に浮かぶ。
使えるものを残せ。
フリッツが燃やしかけの紙束を蹴り飛ばし、トーマスは窓際の兵へ飛びついた。
銃が一発、天井へ抜けた。
硝子の残りが頭上から降り、襟の中へ入る。
痛いより熱いが先だった。
もみ合いの末、相手の手から拳銃が落ちる。
床板を滑って、てこの間へ消える。
そのころには、配線盤にいた男も後ろから押さえつけられていた。
静かになった信号所で、送受器だけがまだかすかに鳴っていた。
誰もすぐには喋らなかった。
窓の外には構内が見え、さらに向こうには灰色の低地が広がっている。
ついさっきまで、あの向こうからこちらを見ていた敵の眼が、ここを通って動いていたのだと、兵隊の頭でも分かった。
「廃駅、ねえ」
誰かが息を切らしながら言った。
「死んでねえじゃねえか」
返事はなかった。
冗談にしては、部屋に集まりすぎている線の数が多かった。
トーマスにもそれくらいは分かった。
窓下の机に、焼け残った紙片が散っていた。
地図でも時刻表でもない、短い符号と数字の列。
意味は分からない。
ただ、この場所がただの駅でないことだけは、読めなくても伝わる。
階下からまた叫び声が上がった。
「地下だ! まだいる!」
息を整える暇もなく、皆が振り返る。
勝ったと思うたび、戦場はその先を寄こしてくる。
地下室への入口は、倉庫の奥にあった。
石炭庫か酒保の貯蔵だろうと、最初は皆そう思った。
実際、階段の途中までは煤と湿気と腐った麻袋の匂いしかしなかった。
だが、下で違う音がした。
銃声ではない。
金属でも木でもない、硬いものに何かが触れて返る、鈍い反響だった。
地下が思ったより広いのだと、その音で分かる。
ランプを持った兵が先に下りる。
トーマスはその背中の肩越しに暗がりをのぞいた。
壁は煉瓦のはずだった。
駅舎の土台ならそうでなければならない。
途中までは、そうだった。
奥の一角だけ、違う。
砲撃か爆薬か、何かで煉瓦壁が崩れ、その向こうから別の壁が覗いている。
大きい。
妙に大きい石が、隙間なく組まれている。
煉瓦みたいな揃い方ではないのに、煉瓦よりずっと狂いがない。
トーマスは足を止めた。
駅の下にある石じゃなかった。
古いか新しいかなど、本当は彼には分からない。
だが、違う。
上の駅舎と同じ時代のものではないと、手で触る前に肌が知った。
石は湿っているのに、泥臭くない。
表面には浅い刻みが走り、煤の下から白っぽい筋が浮いている。
地下の壁にしては、妙にきれいだった。
物を支えるための荒っぽさがない。
逆に、何かを隠すためにそこにあったみたいに見える。
「おい……」
先に下りた兵が、崩れた壁の根元を指した。
そこに敵兵が一人倒れていた。
血で汚れてはいたが、手はまだ石の方へ伸びている。
銃ではなく、壁際の暗がりに触れようとしたまま死んだみたいな姿だった。
「弾薬庫か?」
誰かが言った。
「いや、こんな石炭庫あるかよ」
「古い砦の土台だろ」
「駅より前に何か建ってたんだ」
皆が勝手なことを言う。
どれも、それらしく聞こえる。
それらしく聞こえるから、余計に気味が悪い。
トーマスはランプを借りて、もう少し近づいた。
崩れた煉瓦の内側で、石は下へ続いていた。
壁というより、もっと大きな何かの角みたいだった。
床も一部は土でなく、磨かれたように平たい石で出来ている。
その上に駅舎の粗末な地下室が、後から無理やり乗ったように見えた。
上から階段を下りてくる足音。
短く、迷いのない足取りだった。
ユリウスが来た。
煤まみれのままの軍服で、彼は地下室の入口に立つと、まず死体ではなく壁を見た。
次に床。
その次に、線のように残った煉瓦の切れ目。
見ている順番まで、兵たちとは違った。
「誰が最初に見つけた」
問われて、トーマスは思わず背筋を伸ばした。
「……自分たちです。倉庫掃討のあと、地下に残兵がいて」
「触ったか」
「少しだけ」
「崩れた奥へは入るな」
声は低かったが、怒鳴ってはいない。
怒鳴らないのに、皆が一歩下がる。
あの少尉はそういう人だ、とトーマスは思った。
ユリウスはしゃがみ込み、石の継ぎ目に指先も触れずに目だけで測った。
しばらく黙っていたあと、フリッツへ向かって言う。
「ここを見た者の名前を控えろ。口伝で広げるな。だが、見たこと自体は消すな」
兵には少し妙な命令だった。
黙れ、だけなら分かる。
だがこの人は、ときどき黙らせながら覚えておけと言う。
フリッツも一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに頷いた。
「了解」
ユリウスは次に上を見た。
崩れた煉瓦、湿った梁、煤けた天井。
駅舎全体を頭の中で組み直している顔だった。
「エリナ准尉を呼べ。信号所と地下、両方の記録を先に取る。地図班にも伝えろ。ただし、上級へ回す文言は俺が決める」
伝令が駆けていく。
その横顔を見ながら、トーマスは奇妙な気分になった。
勝ったのに、少尉は少しも勝った顔をしていない。
敵の駅を奪ったというより、地面の下から何か別のものが出てきて、それを数え直している顔だった。
地下室の空気は冷えていた。
上ではまだ火の匂いがしているのに、ここだけ別の季節みたいだった。
トーマスはもう一度、石の方を見た。
ただの古い基礎かもしれない。
戦場には、昔の砦も、潰れた村も、使い道のない石組みもいくらでもある。
そう思えば、それで済む。
なのに、済まなかった。
敵兵が最後までここに残ったこと。
廃駅のくせに信号所が生きていたこと。
上の煉瓦の下から、こんな石が出てきたこと。
全部ばらばらの話のはずなのに、妙に同じ場所へ寄っている。
階段の上から、また足音がした。
今度は軽い。
書類鞄の金具が小さく鳴る。
エリナだ、と誰かが言った。
トーマスはその場で、急に自分の靴が泥だらけなことを思い出した。
妙なところを見つけたあと、人は急にどうでもいいことを気にする。
ユリウスは振り返りもせずに言った。
「見たままを話せ。思いつきは混ぜるな」
トーマスは「はい」と答えた。
だが、見たままを話すだけで足りるのかは、もう分からなかった。




