表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第九戦線観測録  作者: セルヴォア
第一章「灰白河の敗残兵」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/41

第十三話「駅舎制圧」

勝った時、兵隊はまず自分がまだ生きていることを信じない。


それから、自分の足が動いていることを、妙に腹立たしく感じる。

さっきまで泥に張りついていた脚が、今は勝手に前へ出る。

死ぬはずだった場所を越えた身体だけが、遅れて勝利を知る。


廃駅の本棟は、煙の向こうで黒く立っていた。


屋根は半分落ち、正面の破風には砲片が入っている。

窓ガラスはほとんど残っておらず、割れた枠の奥で暗い穴がいくつも口を開けていた。

駅というより、焼けかけた倉庫か、死に損なった要塞に見えた。


トーマスは銃を胸に抱えたまま、築堤の陰にしゃがんで息を吐いた。

喉の奥が鉄みたいに苦い。鼻の中は煉瓦の粉と煤でざらついていた。

隣でフリッツ・ケルナーが、土を払うでもなく短く言う。


「止まるな。止まると自分が撃たれることばっか考える」


「もう十分考えてますよ」


「なら動ける」


それだけだった。


前の方で手が上がる。

突入の合図だ。

誰かが吠えたわけではない。いつ砲が止み、いつ走るかは、さっきのうちに決められていた。


あの少尉が決めたのだ、とトーマスは思った。


名前を出さなくても分かる。

敵の裏へ回る角度も、どの窓を砲で潰して、どの壁はあえて残すかも、細かく決めていたのはユリウスだった。

駅舎を吹き飛ばすのでなく、使える形で奪れ、と彼は言った。

勝つためではなく、そのあと使うために。


兵隊にはときどき、その違いがよく分からない。

だが、分からないまま従って生き残ることはある。


「行くぞ!」


フリッツが飛び出した。

トーマスもつられて地を蹴る。

砕けた枕木、捻じ曲がったレール、砲撃でえぐれた構内の穴を越えるたび、肺がひっくり返りそうになる。


駅前広場の手前で、右の二階窓から火が走った。

乾いた三発。壁の煉瓦が耳の横で砕ける。

誰かが伏せ、誰かが叫び、誰かがそのまま動かなくなる。


トーマスは倒れた男を見なかった。

見れば足が止まる。

止まれば次は自分だ。


「右窓!」


喉が勝手に怒鳴った。

自分の声なのに、自分のものではないみたいだった。


隣の機関銃が短く吐く。

窓の中の暗がりが砕け、火が消える。

その瞬間にまた前へ出る。

考えるより先に、教え込まれた手順で身体が動く。


待合室の扉は、半ば吹き飛んでぶら下がっていた。


中は煤と紙片と木片の匂いでむせ返っていた。

長椅子は横倒しになり、時刻表の板は弾痕だらけで、床には切れた電話線が蛇みたいに這っている。

駅員窓口の奥から、誰かが呻いた。


トーマスは銃口を向けた。

先に撃ったのは向こうだった。

板壁を抜いた弾が頬をかすめ、熱い線だけ残して過ぎる。


気づけば引き金を引いていた。

肩が跳ねる。

薄暗い窓口の奥で影が崩れ、帳簿の束がばさりと落ちた。


勝った、とはその場では思わない。

ただ、次の扉へ行かなければと思う。

一つ終わったら、その次だ。

戦場の中では、安心がいちばん遅れて来る。


「左、事務室! 二人!」


フリッツの声で、また走る。


事務室にはまだ敵がいた。

軍服の色は煤で見分けがつかず、顔もほとんど分からない。

分かったのは、相手もこちらと同じように若く、同じように目を剥いていたことだけだ。


狭い室内で銃床がぶつかる。

誰かが机ごと倒れ、インク瓶が割れた。

黒い液が床に広がり、靴底でぬるりと滑る。

トーマスは相手の肩口に体当たりし、そのまま壁へ押しつけた。


相手が何か言った。

言葉は分からなかった。

祈りみたいにも、罵りみたいにも聞こえた。


次の瞬間、横から入ったフリッツの銃床がその男のこめかみを打った。

相手は崩れ、机の脚に引っかかって止まった。

静かになってから、トーマスは自分が相手の襟を掴んだまま離していないことに気づいた。


「離せ」


言われて、ようやく手が開いた。


待合室を抜けると、廊下の先に階段があった。

上へ行けば信号所だ。

そこを取れ、と何度も言われていた。

ただの駅なら、あそこまで言われない。


階段の途中で、また銃声が鳴る。

今度は上からではない。横だ。

壁の向こう、倉庫側に残っていた敵兵が撃っていた。


兵たちが散って伏せる。

木箱が裂け、中の信号灯具が転がる。

赤い硝子が靴先で砕けた。


「倉庫は後! 上を先に取る!」


下士官が怒鳴る。

命令は短かった。

短い命令ほど、今はありがたい。


トーマスは階段を駆け上がった。

板段がきしみ、灰が舞う。

二階の扉は内側から机で塞がれていたが、さっきの砲撃で蝶番が死んでいた。

三人がかりで体当たりすると、扉ごと机がひっくり返った。


信号所の中は、まだ生きていた。


窓の列。

てこの並んだ信号扱い台。

切断されたはずの線がなお壁に束で集まり、机の上では送受器が短く鳴いている。

廃駅のはずなのに、死にきっていない。


そこに残っていた敵兵は三人だった。

一人は窓際で撃ち、一人は床に膝をついて何かを燃やそうとしていた。

もう一人は、振り向きもしなかった。

壁際の配線盤にへばりつき、必死で何かを切ろうとしていた。


「撃つな! 盤を残せ!」


誰かが叫んだ。

たぶん、下から上がってきた伝令の声だった。

トーマスには、どうしてそんな余裕があるのか分からなかった。

目の前の敵より板の箱を守れと言われても、兵隊の頭はすぐには追いつかない。


だが、またあの少尉の声が頭に浮かぶ。

使えるものを残せ。


フリッツが燃やしかけの紙束を蹴り飛ばし、トーマスは窓際の兵へ飛びついた。

銃が一発、天井へ抜けた。

硝子の残りが頭上から降り、襟の中へ入る。

痛いより熱いが先だった。


もみ合いの末、相手の手から拳銃が落ちる。

床板を滑って、てこの間へ消える。

そのころには、配線盤にいた男も後ろから押さえつけられていた。


静かになった信号所で、送受器だけがまだかすかに鳴っていた。


誰もすぐには喋らなかった。

窓の外には構内が見え、さらに向こうには灰色の低地が広がっている。

ついさっきまで、あの向こうからこちらを見ていた敵の眼が、ここを通って動いていたのだと、兵隊の頭でも分かった。


「廃駅、ねえ」


誰かが息を切らしながら言った。


「死んでねえじゃねえか」


返事はなかった。

冗談にしては、部屋に集まりすぎている線の数が多かった。

トーマスにもそれくらいは分かった。


窓下の机に、焼け残った紙片が散っていた。

地図でも時刻表でもない、短い符号と数字の列。

意味は分からない。

ただ、この場所がただの駅でないことだけは、読めなくても伝わる。


階下からまた叫び声が上がった。


「地下だ! まだいる!」


息を整える暇もなく、皆が振り返る。

勝ったと思うたび、戦場はその先を寄こしてくる。


地下室への入口は、倉庫の奥にあった。

石炭庫か酒保の貯蔵だろうと、最初は皆そう思った。

実際、階段の途中までは煤と湿気と腐った麻袋の匂いしかしなかった。


だが、下で違う音がした。


銃声ではない。

金属でも木でもない、硬いものに何かが触れて返る、鈍い反響だった。

地下が思ったより広いのだと、その音で分かる。


ランプを持った兵が先に下りる。

トーマスはその背中の肩越しに暗がりをのぞいた。

壁は煉瓦のはずだった。

駅舎の土台ならそうでなければならない。


途中までは、そうだった。


奥の一角だけ、違う。


砲撃か爆薬か、何かで煉瓦壁が崩れ、その向こうから別の壁が覗いている。

大きい。

妙に大きい石が、隙間なく組まれている。

煉瓦みたいな揃い方ではないのに、煉瓦よりずっと狂いがない。


トーマスは足を止めた。


駅の下にある石じゃなかった。


古いか新しいかなど、本当は彼には分からない。

だが、違う。

上の駅舎と同じ時代のものではないと、手で触る前に肌が知った。


石は湿っているのに、泥臭くない。

表面には浅い刻みが走り、煤の下から白っぽい筋が浮いている。

地下の壁にしては、妙にきれいだった。

物を支えるための荒っぽさがない。

逆に、何かを隠すためにそこにあったみたいに見える。


「おい……」


先に下りた兵が、崩れた壁の根元を指した。

そこに敵兵が一人倒れていた。

血で汚れてはいたが、手はまだ石の方へ伸びている。

銃ではなく、壁際の暗がりに触れようとしたまま死んだみたいな姿だった。


「弾薬庫か?」


誰かが言った。


「いや、こんな石炭庫あるかよ」


「古い砦の土台だろ」


「駅より前に何か建ってたんだ」


皆が勝手なことを言う。

どれも、それらしく聞こえる。

それらしく聞こえるから、余計に気味が悪い。


トーマスはランプを借りて、もう少し近づいた。


崩れた煉瓦の内側で、石は下へ続いていた。

壁というより、もっと大きな何かの角みたいだった。

床も一部は土でなく、磨かれたように平たい石で出来ている。

その上に駅舎の粗末な地下室が、後から無理やり乗ったように見えた。


上から階段を下りてくる足音。

短く、迷いのない足取りだった。


ユリウスが来た。


煤まみれのままの軍服で、彼は地下室の入口に立つと、まず死体ではなく壁を見た。

次に床。

その次に、線のように残った煉瓦の切れ目。

見ている順番まで、兵たちとは違った。


「誰が最初に見つけた」


問われて、トーマスは思わず背筋を伸ばした。


「……自分たちです。倉庫掃討のあと、地下に残兵がいて」


「触ったか」


「少しだけ」


「崩れた奥へは入るな」


声は低かったが、怒鳴ってはいない。

怒鳴らないのに、皆が一歩下がる。

あの少尉はそういう人だ、とトーマスは思った。


ユリウスはしゃがみ込み、石の継ぎ目に指先も触れずに目だけで測った。

しばらく黙っていたあと、フリッツへ向かって言う。


「ここを見た者の名前を控えろ。口伝で広げるな。だが、見たこと自体は消すな」


兵には少し妙な命令だった。

黙れ、だけなら分かる。

だがこの人は、ときどき黙らせながら覚えておけと言う。


フリッツも一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに頷いた。


「了解」


ユリウスは次に上を見た。

崩れた煉瓦、湿った梁、煤けた天井。

駅舎全体を頭の中で組み直している顔だった。


「エリナ准尉を呼べ。信号所と地下、両方の記録を先に取る。地図班にも伝えろ。ただし、上級へ回す文言は俺が決める」


伝令が駆けていく。


その横顔を見ながら、トーマスは奇妙な気分になった。

勝ったのに、少尉は少しも勝った顔をしていない。

敵の駅を奪ったというより、地面の下から何か別のものが出てきて、それを数え直している顔だった。


地下室の空気は冷えていた。

上ではまだ火の匂いがしているのに、ここだけ別の季節みたいだった。


トーマスはもう一度、石の方を見た。


ただの古い基礎かもしれない。

戦場には、昔の砦も、潰れた村も、使い道のない石組みもいくらでもある。

そう思えば、それで済む。


なのに、済まなかった。


敵兵が最後までここに残ったこと。

廃駅のくせに信号所が生きていたこと。

上の煉瓦の下から、こんな石が出てきたこと。


全部ばらばらの話のはずなのに、妙に同じ場所へ寄っている。


階段の上から、また足音がした。

今度は軽い。

書類鞄の金具が小さく鳴る。


エリナだ、と誰かが言った。


トーマスはその場で、急に自分の靴が泥だらけなことを思い出した。

妙なところを見つけたあと、人は急にどうでもいいことを気にする。


ユリウスは振り返りもせずに言った。


「見たままを話せ。思いつきは混ぜるな」


トーマスは「はい」と答えた。


だが、見たままを話すだけで足りるのかは、もう分からなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ