第一話「作戦図上の死地」
戦争は、始まる前に負けている。
砲声より先に、敗北は形を持つ。
幕舎の中は、外より寒かった。
湿った外套の匂いと、油の質の悪いランプの煤が、低く垂れた天幕の裏にこもっている。卓上の地図は四隅を弾薬箱で押さえられていたが、それでも布地の向こうから吹き込む風で端がかすかに鳴った。ぱり、ぱり、と乾いた音がするたび、ユリウスはその一枚の上で、これから何人死ぬかを数え直していた。
灰白河方面 春季攻勢案。
灰白河方面 春季攻勢案
[←西 東→]
[上=敵軍側 / 下=帝国軍側]
敵軍後方
↑
観測線・電話線・補給線
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[ 廃駅 ]
(通信・観測・連絡の結節)
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敵第一線塹壕 / 前進壕
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北岸微高地
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灰白河
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帝国軍渡河予定点
(湿地・泥濘)
↑
正面案
題字は立派だった。赤青の鉛筆線も、将官の手にふさわしく力強い。だが、線が正しいからといって地面が従うわけではない。むしろ戦場では、地図に従わせようとする者から先に死体を積む。
ユリウスは指先で河の湾曲をなぞった。
灰白河本流。その手前に広がる冠水湿地。冬の名残を吸った低地。東側の進入路は一本の軍用道路に依存し、砲兵の展開地は狭い。工兵渡河点は二箇所に記されているが、いずれも河岸の土が脆く、橋脚を置くには水位変動が大きすぎた。
しかも敵前線は、こちらが思っているより一段高い。
地図上では緩斜面だ。現地では違う。北岸の微高地に観測所が置かれれば、渡河点は朝霧が晴れた瞬間に測距される。渡し板を出すより先に、橋材と工兵が砲撃で溶ける。
「アーデルハイト少尉」
呼ばれて顔を上げると、卓の向こう側で参謀補が顎をしゃくった。そこに集まっているのは方面軍司令部の幕僚、砲兵将校、工兵監部の連絡官、それに立場だけは重い貴族将校たちだった。中央には、正面に座るだけで場を自分のものにしたがる男がいる。
ルドルフ・フォン・グランツ。
年齢は五十に届くか届かないか。髭は整い、軍服は泥を知らない。勲綬の列は見事だったが、その見事さ自体がこの男の戦争観を語っていた。勝つことより、勝ったように見えることに長けている。
「若いの。さっきから地図を睨んでいるが、何か言いたいことでもあるのか」
幕舎の空気が、そこで少しだけ愉快そうに揺れた。
平民士官がこの場にいること自体、誰かの気まぐれに近い。前線で局地的な手柄を立て、地図を読むのが早いという理由で呼ばれただけだ。本来なら、将官級会議の末席にも座れない。
ユリウスは立ち上がった。
「正面渡河は失敗します」
笑いは起きなかった。
起きなかったのは、無礼を通り越して断言だったからだ。
グランツは目だけで続きを促した。慈悲ではない。若い平民がどの程度の恥をかけるか、見物する顔だった。
ユリウスは地図の中央ではなく、その左下を指した。予定主攻ではない、西側の築堤線寄りだ。
「第一渡河点は河岸が浅いように見えますが、先月末の融雪で土が緩んでいます。橋材を降ろす輜重が沈みます。第二渡河点は幅が足りますが、対岸の射界が広すぎる。北岸の第三観測所が生きている限り、架橋開始十五分で測距されます」
砲兵将校の一人が眉をひそめた。第三観測所という言い方を、前線実見なしで出せると思っていなかったのだろう。
ユリウスは続けた。
「前進砲兵はここに置く案になっていますが、湿地縁で車輪が取られます。初弾修正が遅れる。工兵の損耗を抑えられません。仮に橋頭堡を取っても、野戦砲と電話線は渡れない。予備連隊はこの涵路で渋滞します」
「そこまで言うなら、敵の機関銃座の位置まで見えているのだろうな」
別の貴族将校が言った。鼻にかかった声だった。
「見えます」
「ほう」
「位置ではなく、置かれる理由が見えます」
その一言で、幕舎の中の空気がわずかに変わった。
ユリウスは赤鉛筆を借り、河の北岸に短い線を三本引いた。
「敵が撃ちたいのは渡河舟艇ではありません。橋材です。工兵です。有線の敷設班です。つまり、こちらの再編能力を先に殺しにきます。歩兵の第一波は囮で足りる。殺されるのは二波目と三波目、その後ろにいる砲兵と伝令です」
「勇ましい第一波を囮呼ばわりか」
グランツの言葉に、今度は薄い笑いが起きた。
ユリウスはそちらを見なかった。
「勇ましさは地面を固くしません」
沈黙。
砲兵将校の一人が咳払いし、工兵連絡官はあからさまに視線を逸らした。笑った者たちも、その沈黙が自分たちを笑い返していると気づいたらしい。
グランツは椅子に深くもたれた。
「では、お前の案は何だ」
「主攻を西へずらすべきです。正面突破ではなく、築堤線と旧線路帯を使って横移動し、廃駅周辺の連絡節を切る。敵の観測と電話線の接続を先に殺す。橋頭堡の広さではなく、相手の反応速度を奪うべきです」
「廃駅?」
「はい」
「ただの廃駅だろう」
「敵もそう思っていません」
その場で初めて、グランツの目が細くなった。
ユリウスは地図の一点を見ながら言った。
「兵站価値だけなら、ここまで歩兵を厚く置く理由がない。観測所、電話線、伝令路が一点に寄りすぎています。ここを切れば、敵は北岸全体で遅れます」
「そして我が軍は、湿地を這って横移動する間、何をする。祈るのか」
「残すべきものを残します」
「何をだ」
「次の戦いに必要なものを」
グランツは、そこで初めて本気で不快そうな顔をした。
将軍にとって戦いは一つずつ区切られる。戦果、公報、褒賞、叙勲、責任。そういう順番で処理される。だがユリウスにとって、一会戦は次の会戦の条件にすぎない。橋頭堡の大小より、どれだけ砲兵を残せるか。どれだけ下士官を死なせずに済むか。どれだけ伝令の流れを保てるか。その方が重要だった。
勝っても軍が痩せれば負ける。
一地点を抜いても、次の朝に砲を前へ出せなければ負ける。
そして、この攻勢案は、仮に一時的に北岸へ旗を立てても、その先で軍そのものを鈍らせる。
それが地図の上から見えていた。
「話は以上です」
ユリウスがそう言って手を離すと、赤鉛筆は地図の上で短く転がった。
誰もすぐには口を開かなかった。結論が分からないからではない。最初から決まっているからだ。こういう場で問われるのは、正しい案ではない。誰の案か、である。
グランツはゆっくりと手袋を直した。
「参考意見として聞いておこう」
参考意見。
却下よりも便利な言葉だ。採用しなかった責任を薄め、聞いたという事実だけを残せる。
「だが攻勢は予定どおり行う。兵は動き出している。今さら主攻変更は混乱を招く。軍はお前のような机上の潔癖では動かん」
机上。
ユリウスは、その言葉にだけ内心でわずかに首を振った。この地図は机上ではない。泥だ。砲車の轍だ。濡れた靴下だ。凍傷をこらえた工兵の指だ。伝令の肺だ。兵站線の遅れが三時間で済むか、九時間になるかという数字だ。
むしろ机上なのは、ここに描かれた勇ましい矢印の方だった。
会議はそのまま続いた。攻勢開始時刻、準備砲撃の分配、渡河第一波の大隊区分、予備砲兵の位置。どの項目も、最初の破綻を無視したまま上塗りされていく。間違った骨組みに綺麗な数字を載せていく作業は、いつ見ても精巧だった。
ユリウスは途中から、議論を聞いていなかった。
聞く価値がないからではない。覚える必要があるからだ。
どの時刻に砲兵が黙るか。
どの工兵中隊が第一波に食われるか。
どの予備連隊が道路で詰まるか。
誰が責任回避の文言を入れたか。
失敗する作戦でも、失敗の仕方は資産になる。
正しく覚えておけば、次に残せるものがある。
幕舎を出ると、午後の空は低く垂れていた。
灰白河の方角から湿った風が吹いている。雪の匂いは薄れ、代わりに泥の匂いが前へ出てきた。春ではなく、冬の死骸が柔らかくなり始めた匂いだった。
前進陣地の方では、工兵隊が橋材を数え直していた。馬が鼻を鳴らし、輜重兵が怒鳴り、野砲の砲架がぬかるみに半ば沈んでいる。兵たちは忙しそうに動いていたが、忙しさそれ自体が誤りを証明していた。正しい準備は、もう少し静かだ。
「少尉殿」
振り向くと、同じ連隊群の下士官が敬礼した。まだ若い男で、頬の骨が浮いている。昨夜も寝ていない顔だった。
「命令です。渡河準備の前倒しと、第一波編成の再確認を」
紙を受け取る前に、ユリウスは言った。
「工兵の配置は」
「まだです」
「砲兵との時刻同期は」
「今、連絡を回していると」
「回している、では遅い」
下士官は一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに「はい」とだけ答えた。ユリウスはそれ以上責めなかった。責めるべきはこの男ではない。遅くなる構造そのものだ。
紙を開く。
まだ正式な浄書ではない、前線用の複写命令だった。紫の薄い文字が滲んでいる。攻勢開始時刻、第一次砲撃、渡河分担、予備の待機位置。
そして一箇所だけ、ユリウスの目が止まった。
橋頭堡の確保後、各部隊は可及的速やかに拡張に移ること。
拡張。
そこは本来、保持ではなく再編を優先すべき局面だ。拡張を最優先に書けば、歩兵は前へ出る。工兵は橋にしがみつく。砲兵は間に合わず、電話線は河岸で死ぬ。いちばん死んではならないものから先に死ぬ。
文言一つで、死に方が変わる。
ユリウスは紙を折り直した。
「誰が回した」
「司令部系統の書記班です。まだ修正が入る可能性はあると」
「可能性では足りない」
彼は命令書を胸ポケットへ差し込み、灰白河の方を見た。見えるわけではない。ただ空の低さと風の湿りが、あの河の位置を教えていた。
勝てない。
それだけなら、前線では珍しくもない。
だがこの攻勢は、負けるだけでは終わらない。仮に一度対岸へ渡れても、その先で軍の足が折れる。兵を失い、砲を失い、伝令を失い、学ぶべき下士官を失う。次の戦いに持ち込むべきものを、ここで食い潰す。
それが許せなかった。
河の向こうにいる敵より先に、こちらの命令書がこちらを殺す。
ユリウスは歩き出した。
前進陣地へ戻るのではない。まず、どこでこの文言を止めるかを考えながら。
泥はまだ浅い。
だが明日には、人を沈める深さになる。




