蒼霞 ao-gasumi
「手折っても、」
隣の男が、どこか酔ったような声色で訊ねる。
先刻座した姿勢のまま、膝の上に拳を握り、男は意識を投じるように一輪の花を眺めていた。
その横顔と声にチヅは微笑み、そして頷いた。
「――どうぞ、」
布団の中から、チヅは改めて言葉にして男に返してやる。
すると白い開襟シャツの男は、はっと、それまで眺めていた庭からこの座敷に視線を戻した。
開け放した障子を幸いに、風が座敷一面に吹く。
終りかけの夏の、けれどまだ熱を含んだ風。
布団の中のチヅの前髪と、動かない男のシャツの襟を緩く動かした。
「…どうぞ、お持ちになって」
男はチヅの言葉に、醒めたように瞳を瞬き、その薄い唇を内で噛むようにきつく結んだ。
そしてそのまま静かに瞼を閉じると、緩やかに首を折り、また緩やかに首を振る。
そう長くはない彼の前髪が真っすぐに垂れ、まるで布団へ落ちてきそうだった。
「いいえ…、いいえ…っ」
男はそう云った。
膝の拳を広げ、今度は畳の上に爪を突き立てて。
その広い肩を、怯えるように竦ませて。
そうして、男は静かに落涙した。
チヅは力の入らない片腕を、布団から抜き出そうとする。
けれど襦袢と掛布団が布擦り合い、なかなか抜くことができない。
チヅは自嘲するようにそれを小さく笑うと、襦袢の中から肩と手を抜いた。
俯く男の頭に触れようと、黒髪に手をかざす。
そして、チヅは気付いた。
黒い髪の前に映る、あまりに白過ぎる腕。
あまりに細過ぎる筋張った指。
――これが線。
チヅは心の中で呟く。
これが、挟間の、一線。
「――…」
チヅは風に流れる男の前髪に腕を潜らせ、掌を広げた。
ぽたり。ぽたり。
掌に落ちる、温かな水玉。
その度に揺れる、撫で肩の男。
掌に乗った水玉を枕から眺め、それからチヅは大切そうにその掌を閉じた。
気づいたように男は、前髪を揺らして顔を上げる。
目の端が赤くなって、シャツの袖で拭った頬は擦り切れたよう。
その赤さが男の顔に際立ち、チヅは静かに息を吐いた。
ここからの庭は、美しかった。
質素であったけれど、どの屋敷の立派な庭より。
そして、その庭の中に咲く、花も。
手折ってもよろしいか、と思わず訊ねた男を、チヅは少しも煩わしくは思わなかった。
その後、激しく後悔する男の優しさに、同情こそすれ。
僅かに身じろいだ男の視線を感じて、チヅは己の胸元を見る。
襦袢から片腕を抜いた際に袷が肌蹴、露わになった乳房があった。
男は畳から手を上げ、無骨な指でチヅの掛布団を直した。
そして、男は布団の上から、そっと今隠したばかりのチヅの左乳房を覆った。
呼吸をすると、僅かに盛り上がり、下がる。
男の掌に全て収まる自分の乳房の様を、チヅは黙って見つめていた。
ここから覗く庭は、美しい。
世の総てが、そこに一式誂えられたように。
布団から見えるそこは、チヅの庭。
ただ一度、夢酔いのために誂えられた――庭。
乳房を包む男の手に、チヅは水玉の掌を合わせた。
「――どうぞ、手折って…」
チヅの言葉に、男は口を開けた。
男の薄い唇が息を吸い込むと、喉がぜぜ、と震える音がした。
言葉を放とうとしたのか。
呼吸のためだったのか。
けれどそれは男に問われることはなく、庭の一輪が手折られた。
庭から熱の薄らいだ風が吹く。
その度に畳の上へ、花が散る。
風は静かに、蒼霞を匂わせた。
誰かの胸に留まる物語でありますように。




