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蒼霞 ao-gasumi

作者: ハチ
掲載日:2026/02/11

 

手折(たお)っても、」


 隣の男が、どこか酔ったような声色で(たず)ねる。

 先刻座した姿勢のまま、膝の上に拳を握り、男は意識を投じるように一輪の花を眺めていた。

 その横顔と声にチヅは微笑み、そして頷いた。


「――どうぞ、」


 布団の中から、チヅは改めて言葉にして男に返してやる。

 すると白い開襟シャツの男は、はっと、それまで眺めていた庭からこの座敷に視線を戻した。


 開け放した障子を幸いに、風が座敷一面に吹く。

 終りかけの夏の、けれどまだ熱を含んだ風。

 布団の中のチヅの前髪と、動かない男のシャツの襟を緩く動かした。


「…どうぞ、お持ちになって」


 男はチヅの言葉に、醒めたように瞳を瞬き、その薄い唇を内で噛むようにきつく結んだ。

 そしてそのまま静かに瞼を閉じると、緩やかに首を折り、また緩やかに首を振る。

 そう長くはない彼の前髪が真っすぐに垂れ、まるで布団へ落ちてきそうだった。


「いいえ…、いいえ…っ」


 男はそう云った。

 膝の拳を広げ、今度は畳の上に爪を突き立てて。

 その広い肩を、(おび)えるように(すく)ませて。

 そうして、男は静かに落涙した。

 

 チヅは力の入らない片腕を、布団から抜き出そうとする。

 けれど襦袢(じゅばん)と掛布団が布擦り合い、なかなか抜くことができない。

 チヅは自嘲(じちょう)するようにそれを小さく笑うと、襦袢の中から肩と手を抜いた。


 (うつむ)く男の頭に触れようと、黒髪に手をかざす。

 そして、チヅは気付いた。


 黒い髪の前に映る、あまりに白過ぎる腕。

 あまりに細過ぎる筋張った指。


 ――これが線。


 チヅは心の中で呟く。


 これが、挟間の、一線。





「――…」


 チヅは風に流れる男の前髪に腕を潜らせ、掌を広げた。

 ぽたり。ぽたり。

 掌に落ちる、温かな水玉。

 その度に揺れる、撫で肩の男。


 掌に乗った水玉を枕から眺め、それからチヅは大切そうにその掌を閉じた。

 気づいたように男は、前髪を揺らして顔を上げる。

 目の端が赤くなって、シャツの袖で拭った頬は擦り切れたよう。

 その赤さが男の顔に際立ち、チヅは静かに息を吐いた。


 

 ここからの庭は、美しかった。

 質素であったけれど、どの屋敷の立派な庭より。

 そして、その庭の中に咲く、花も。


 手折ってもよろしいか、と思わず訊ねた男を、チヅは少しも(わずら)わしくは思わなかった。

 その後、激しく後悔する男の優しさに、同情こそすれ。


 (わず)かに身じろいだ男の視線を感じて、チヅは己の胸元を見る。

 襦袢から片腕を抜いた際に(あわせ)肌蹴(はだけ)、露わになった乳房があった。

 男は畳から手を上げ、無骨な指でチヅの掛布団を直した。

 そして、男は布団の上から、そっと今隠したばかりのチヅの左乳房を(おお)った。


 呼吸をすると、僅かに盛り上がり、下がる。

 男の掌に全て収まる自分の乳房の様を、チヅは黙って見つめていた。




 

 ここから覗く庭は、美しい。

 世の総てが、そこに一式(あつら)えられたように。

 布団から見えるそこは、チヅの庭。

 ただ一度、夢酔いのために誂えられた――庭。




 


 

 乳房を包む男の手に、チヅは水玉の掌を合わせた。


「――どうぞ、手折って…」


 チヅの言葉に、男は口を開けた。

 男の薄い唇が息を吸い込むと、喉がぜぜ、と震える音がした。

 

 

 言葉を放とうとしたのか。

 呼吸のためだったのか。


 けれどそれは男に問われることはなく、庭の一輪が手折られた。






 庭から熱の薄らいだ風が吹く。

 その度に畳の上へ、花が散る。


 風は静かに、蒼霞を匂わせた。

誰かの胸に留まる物語でありますように。

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