後の月
◇
ヴェイル公爵家の嫡男、アシェル・ヴェイルの名が王都に轟いたのは彼が十七になった年の秋のことである。北方の蛮族──自らをウォルフェの民と称する者どもは例年のごとくハルモニア王国の国境を侵し、村々を焼いて回っていた。この年の侵攻はとりわけ激しく、国王ゼヴィウスは軍務卿たるヴェイル公爵に早急な対応を命じたのだが折悪しく公爵は病床にあり、その息子が代わって出陣することとなった。
当時の貴族たちはこの決定に眉をひそめた。十七歳の若造に何ができようか、と。しかし一月も経たぬうちに彼らは己の不明を恥じることになる。アシェルは三千の兵を率いて北へ赴き、わずか二十日で敵の主力を壊滅させたのである。アシェルが帰還したとき、その瞳には戦の疲れすら浮かんでいなかった。まるで日課の散歩から戻ったかのような涼しい顔つきで王城の謁見の間に立っていた。
それから五年の歳月が流れている。
アシェルは二十二になり、その名声はいまや王国中に知れ渡っている。北方の守護者、蛮族の災い、あるいは氷の指揮官。人々は様々な呼び名で彼を呼んだが当の本人はそのいずれにも関心を示さぬ。ただ命じられたことを命じられた通りにこなすだけである。まるで感情という器官が欠落しているかのように喜びも悲しみも怒りも見せぬ男であった。
その奇妙な気質はヴェイル家の血に由来するものとされている。
代々軍務を司ってきた同家では当主たる者は幼少より「殺すこと」を叩き込まれる。敵を屠るための戦術、策略、そして何より──迷わぬ心。感情は判断を鈍らせる。躊躇は味方の命を奪う。ゆえにヴェイル家の子らは物心つく前から徹底的に心を鍛えられ、あらゆる感情の揺らぎを削ぎ落とされてゆくのであった。
◆
月欠ける夜であった。
「アシェルは我が家の歴史を紐解いても屈指の麒麟児です」
王の執務室にて、ヴェイル公爵は静かにそう述べた。病から回復した公爵の顔にはしかし誇らしげな色は浮かんでいない。むしろどこか苦いものを噛み締めるような、そんな翳りが眉間に刻まれている。
「ですが陛下」
「何だ」
国王ゼヴィウスは書類から顔を上げた。公爵とは長年の付き合いである。その表情に何か言いよどむものがあることくらい、すぐに察しがついた。
「あの子はヴェイルの血が濃すぎるのです」
「濃すぎる?」
「殺すことを学ばせすぎました」
公爵の声には珍しく感情の色が滲んでいた。後悔、とでも呼ぶべきものだろうか。北の蛮族が精強であることは誰よりも公爵自身が知っている。状況を思えば、アシェルへの教育は必要なものであった。それでもと思わずにはいられぬのだろう。
「あの子には殺すこと以外の──」
言葉が途切れる。何を言おうとしていたのか、公爵自身にも分からぬようであった。
ゼヴィウスは腕を組み、しばし黙考した。やがて口を開く。
「ちょうど良い」
「は?」
「お前の息子と、私の娘を娶せようと思う」
公爵は虚を突かれたように目を瞬かせた。国王の娘といえば、第一王女セレネか、あるいは第二王女キュルケか。前者は既に隣国の王太子との縁談が進んでいる。となれば──。
「キュルケ殿下を?」
「そうだ」
「しかし殿下も色々と──」
公爵は言葉を濁した。第二王女キュルケの「難」は宮廷においては公然の秘密であった。
「だからこそだ」
ゼヴィウスは苦笑を浮かべた。
「あの子もまた何かが欠けているのか、あるいは何かが過ぎているのか──いずれにせよ、普通の者では手に余る。だがお前の息子ならば」
「……」
「案外、相性が良いかもしれん」
公爵は暫く沈黙していたがやがて深く息を吐いた。
「承知いたしました」
こうして、アシェル・ヴェイルと第二王女キュルケの婚約は両家の思惑のうちに整えられたのである。
◇
キュルケ・ハルモニアは生まれながらにして人の心を読む娘であった。
無論、心を読む、というのは文字通りの意味ではない。彼女は魔術師でも預言者でもなく、ただの人間に過ぎぬ。しかしその観察眼は常軌を逸していた。相手の瞳の動き、唇の震え、呼吸の乱れ、指先の僅かな痙攣──そうした微細な変化を彼女は驚くべき精度で読み取ることができた。そしてそこから、相手が何を考え、何を望み、何を隠そうとしているのかをほぼ正確に推測してしまうのである。
それは一見すると素晴らしい才能のように思えるかもしれない。しかし実際にはこの能力は彼女に孤独をもたらすばかりであった。
人は皆、心の奥底に隠し事を抱えている。社交辞令、お世辞、白い嘘──そうしたものが円滑な人間関係を支えているのだ。だがキュルケの前ではそれらはすべて見透かされてしまう。相手が笑顔の裏で何を思っているか、丁寧な言葉の奥で何を企んでいるか。キュルケには手に取るように分かってしまうのである。
当然、人々は彼女を避けた。
貴族たちは畏れ、必要最低限の接触しか持とうとしない。宮廷の女官たちは彼女の視線を恐れ、うつむいて早足で通り過ぎてゆく。そして何より辛かったのは家族でさえ彼女と深く関わろうとしなかったことであった。
父ゼヴィウスは国王としての務めに追われ、娘と向き合う時間を持たない。母オーレリアは契約結婚の相手であり、キュルケへの情愛は薄い。姉セレネは幼い頃から「妹の目が怖い」と泣き、以来距離を置き続けている。
孤独な幼年時代の中でキュルケはひとつの悪癖を身につけた。
相手に感情をぶつけること。
怒りをぶつけ、悲しみをぶつけ、時には偽りの喜びさえぶつけて──相手の「本心」を露呈させようとする癖である。それは彼女なりの、他者と繋がろうとする不器用な試みであったのかもしれない。しかし結果として、それは彼女をさらに孤立させることとなった。誰もが彼女の激しい感情の嵐に疲弊し、離れていったのである。
しかしただひとり、離れなかった者がいた。
◇
それは十年前、キュルケが八つ、アシェルが十二の年のことである。
「どうしてあなたはわたくしを怖がらないの?」
王城の庭園で幼いキュルケはそう尋ねた。今しがた、彼女は目の前の少年に向かって、あらん限りの悪態を吐いたところである。顔が醜い、背が低い、声が気持ち悪い──思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけた。他の貴族の子供であれば、泣くか怒るか、あるいは逃げ出すかしただろう。
しかし目の前の少年は──。
「怖がる、というのがよく分かりません」
アシェルは首を傾げただけであった。その碧い瞳には怒りも悲しみも侮蔑も浮かんでいない。ただ純粋な困惑だけが淡く揺れている。
「わたくしが酷いことを言ったのに?」
「殿下は私に酷いことを言いたかったのですか?」
「え?」
「私にはそうは見えませんでした」
キュルケは目を見張った。この少年は何を言っているのだろう。あれだけの悪口を聞いて、そうは見えなかった、とはどういう意味なのか。
「殿下の言葉と殿下の目が違うことを言っていたように思います」
「……」
「だから言葉のほうは気にしなくていいのかな、と」
その瞬間、キュルケは奇妙な感覚に襲われた。見透かされている、と感じたのである。普段は自分がそうする側であるのにこの少年には逆に見透かされているような──。
「あなた、変な子ね」
「そうですか」
「わたくしの目を見て、怖くならないの?」
「殿下の目は綺麗だと思います」
キュルケは一瞬、言葉を失った。唇が微かに震え、頬がほのかに紅潮する。それを見たアシェルはまたしても首を傾げた。
「何か気に障りましたか」
「う、うるさいわ」
キュルケは踵を返して走り去った。背後で少年の「殿下?」という声が聞こえる。その困惑した響きがなぜか心地よく感じられて、彼女は走りながら不思議に思った。
あの子だけは違う。
他の誰とも違う。
その感覚は年を経るごとに強まっていった。アシェルは感情が希薄だからこそ、キュルケに「読まれる」ことを恐れない。同時に感情が希薄だからこそ、キュルケの感情の嵐にも動じない。彼女がどれだけ怒りをぶつけようと、悲しみを叩きつけようと、アシェルはただ困惑した顔で受け止めるばかりであった。
それは奇妙な均衡であったが、二人にとっては、いや、少なくともキュルケにとっては確かに心地よいものであったのだ。
だがその均衡が揺らぐ日が来る。
◇
それはアシェルが北の戦線から帰還した日のことである。
王都には不穏な噂が駆け巡っていた。ヴェイル家の若き当主が二千の蛮族を皆殺しにした、と。女子供もろとも一人残さず屠った、と。人々は彼を畏れ、氷の殺戮者と呼んだ。
キュルケはその噂を聞いて、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
二千人。それはただの数字ではない。二千の命、二千の人生、二千の家族。アシェルはそれらすべてをこの手で終わらせたのである。確かに敵であった。王国を脅かす蛮族であった。しかしそれでも──。
彼女はアシェルを王城の中庭に呼び出した。
初夏の日差しが薔薇の花壇を照らし、甘い香りが風に乗って漂っている。穏やかな午後であった。しかしキュルケの心はその景色とは裏腹に荒れ狂っていた。
やがて、アシェルが姿を現す。
軍服に身を包んだその姿は五年前と変わらず端正である。冷たい碧眼、感情の読めぬ表情、無駄のない所作。彼は藤棚の下に立ち、深く頭を下げた。
「お呼びとのことで」
キュルケは答えなかった。ただじっと彼を見つめ、その瞳の奥に何かを探ろうとした。罪悪感、後悔、苦しみ──何でもいい、何か人間らしい感情の欠片でも見つけられれば。しかしそこには何もなかった。いつもと同じ、凪いだ湖面のような静けさがあるばかりである。
「訊いてもいいかしら」
「何なりと」
「あなたはそんなにたくさん人を殺して──何も思わないの?」
声が震えているのが自分でも分かった。
アシェルは少しの間、黙っていた。やがて、いつもの平坦な声で答える。
「思いません」
「……本当に?」
「はい」
嘘ではない、とキュルケには分かった。彼女の目は嘘を見抜く。そして今、アシェルは一片の偽りもなく、本当に何も思っていないのである。二千の命を奪って、何の感慨も何の痛みも何の──。
「殺す以外のことをあなたは知らないの?」
「その通りです」
「……っ」
キュルケは息を呑んだ。アシェルの目があまりにも静かだったから。そこには悪意もなければ、狂気もない。ただ事実を述べているだけの、透明な瞳があるばかりであった。
恐い、と思った。
幼い頃から彼を知っている。感情が乏しいことも表情に出ないこともすべて分かっていた。それでもどこかで彼を「人間」だと思っていたのだ。感情がないのではなく、表に出さないだけなのだと。しかし今、目の前にいるのは──。
「下がって、ちょうだい」
キュルケは俯いたまま、そう言った。
「殿下?」
「お話は終わりです。お下がりなさい」
「……承知しました」
アシェルは一礼して、庭園を後にした。その背中を見送りながら、キュルケは自分の手が小刻みに震えているのに気づいた。
怖い。この人が怖い。
十年の歳月が音を立てて崩れてゆくようであった。
◇
その夜、キュルケは母オーレリアの居室を訪れた。
夜も更けた刻限であったが王妃は起きていた。燭台の灯りの下で刺繍をしていた彼女は娘の姿を認めて静かに針を置く。
「珍しいこと。あなたが私のところへ来るなんて」
「……ご相談があって」
「座りなさい」
キュルケは促されるままに腰を下ろした。母娘の間には常に一定の距離があった。契約結婚で結ばれた父母は互いに深い愛情を持っているわけではない。そしてその冷めた関係は自然と子供たちへの接し方にも影響していた。しかし今夜に限っては、その距離感がかえって相談しやすく感じられる。
「アシェル・ヴェイルとの婚約のことね」
オーレリアはすべてを見透かしたように言った。キュルケは頷く。
「……怖くなったのです」
「何が?」
「あの人が。あの人の目が。あの人の──心が」
キュルケは俯いた。昼間の会話が何度も頭の中で繰り返される。何も思わない、と言ったあの声。殺すこと以外知らない、と答えたあの瞳。
「二千人を殺して、何も感じない人なのです」
「そう」
「わたくしには──」
「キュルケ」
オーレリアの声が静かに遮った。
「なぜ、ハルモニアは北の蛮族と戦っているのか、分かっているの?」
「え?」
「もしヴェイル家がなければ、どれほどの民の血が流れていたか考えたことは?」
キュルケは言葉に詰まった。確かに北方の蛮族は何度も王国を襲ってきた。村を焼き、民を殺し、略奪の限りを尽くしてきた。ヴェイル家がそれを食い止めてきたからこそ、王都は平和を享受できているのだ。
「それに」
オーレリアは続けた。
「彼は望んで殺しているのかしら?」
「……」
「喜んで血を流しているのかしら?」
「それは──」
訊いていない、と気づいた。
キュルケはアシェルに「何を思うか」とは訊いた。しかし「なぜ殺すのか」とは訊いていない。「殺したいのか」とも訊いていない。彼女は自分の恐怖だけを見て、彼の内側を見ようとしなかったのである。
「あなたは人の心を読むのが得意でしょう」
オーレリアの声が刺すように響いた。
「でも読むだけでは駄目なのよ。訊かなければ」
「……」
キュルケは唇を噛んだ。母の言葉は正しかった。彼女は確かに人の心を読むことには長けている。だがそれゆえに「訊く」ことを怠ってきたのだ。読めるのだから訊く必要がない、と。
だとすれば──。
「彼は三月後に帰還するはずよ」
オーレリアはそう言って、再び刺繍の針を取り上げた。
「それまでに考えておきなさい」
◇
三月が過ぎた。
秋の風が吹き始めた頃、アシェル・ヴェイルは北の戦線から帰還した。しかしその帰還は誰もが予想しなかった形でなされたのである。
和睦。
北方の蛮族──ウォルフェの民との和睦が成ったというのだ。百年以上も続いた争いが終わりを迎えたのである。王都は歓喜に沸いた。もう北からの脅威に怯えなくて良いのだ、と人々は喜び合った。
キュルケもまた、その報せを聞いて胸が高鳴るのを感じた。殺す以外のことを知らない、と言っていたあの人が和睦を──。しかし同時に疑問も湧いた。なぜ急にそのようなことを?
答えを得るために彼女は再びアシェルを王城の中庭に呼び出した。
三月前と同じ場所である。
しかし季節は移ろい、薔薇の花壇は既に散り、代わりに萩の花が風に揺れている。秋の陽光は柔らかく、どこか物憂げな空気が漂っていた。
藤棚の下に立つアシェルを見て、キュルケは息を呑んだ。
「あなた──手を」
「ああ、これですか」
アシェルは淡々と、自分の左手を掲げた。
小指がなかった。
きれいに根元から。傷跡は既に塞がっているがそれが失われた事実は変わらない。キュルケは駆け寄り、思わずその手を取った。
「どうして──いつ──」
「和睦の際に」
「和睦の……?」
アシェルは頷いた。
「座りましょうか」
二人は藤棚の下の石のベンチに腰を下ろした。アシェルは静かに語り始める。
「戦のさなか、敵の部隊長を捕らえました」
「……」
「そして訊いたのです。この戦を終わらせるには我々が貴殿らを皆殺しにするか、貴殿らが我々を皆殺しにするか、それ以外に方法はないのか、と」
キュルケは息を詰めて聞き入った。
「部隊長は答えました。方法はある、と。しかしそれには我らが長と直接話さねばならぬ、と」
「それであなたは……」
「会いに行きました。両軍が睨み合う、その中心で」
無謀というほかない行動であった。敵の真っ只中にたった一人で乗り込むなど。しかしアシェルの声には恐れの色は微塵もない。
「長は老いた男でした。白い髭を蓄え、深い皺を刻んだ顔はしかし威厳に満ちていた。私は訊きました。なぜ、そこまでして我が国を襲うのか、と」
「……答えは?」
「食糧です。まあ予想していた事ではありましたが」
キュルケは目を見開いた。
「北の大地は痩せています。作物は育たず、獣は少なく、冬は長い。ウォルフェの民は生きるために略奪するしかなかったのです」
それはキュルケにとって初めて聞く話であった。蛮族は野蛮だから襲ってくる──そう思い込んでいた。しかし彼らにも彼らなりの事情があったのだ。
「私は提案しました。王国北部の守備をウォルフェの民に任せる代わりに食糧を提供すると」
「そんな約束、あなたの一存で……」
「できます。私は北方の軍権を預かる身です。ただ、今回はやや話が大きいため、上に話は通すつもりでした」
アシェルは淡々と続けた。
「しかし長は信じませんでした。これまで百年、互いに殺し合ってきた相手です。当然でしょう。となれば再び戦ということになりますが──長はウォルフェの誓約の儀式を行うことを提案してきました」
「誓約の儀式……」
「指切り、と呼ばれるそうです。約束を交わす者同士が小指を切り落とす。もし約束を違えれば、残りの指をすべて失うとのことです。私はその提案を受け入れる事にしました」
キュルケは青ざめた。
「長は驚いていました。敵国の将が我らの儀式に従うとはと。しかし私が躊躇いなく小指を落としたとき、彼は初めて私を信じる気になったようです。これには安心しました。仮に和解の案を父上、あるいは陛下が拒否した場合、私は残る指をすべて落とさねばならなかったところですから」
アシェルの声はあくまでも平坦である。まるで他人事のように自分の指を失った顛末を語っている。キュルケは胸が締め付けられる思いがした。
「なぜ……そこまで……」
「殿下」
アシェルは静かにキュルケを見た。
「三月前、殿下は私に仰いました。殺す以外のことを知らないのか、と」
「……」
「その通りです。私は殺すことしか知りません」
「でも今回は……」
「しかし」
アシェルの声が僅かに揺れた。
「殿下は殺す以外の方法を望んでおられるように見えました」
キュルケは息を呑んだ。
「だから試しにやってみたのです。殺す以外の方法を」
「わたくしの……ために?」
「いいえ」
アシェルは首を振った。
「わが軍の兵を失わずに戦を収束させることができるのならば、指一本は安いと考えました。ただそれ以外にも理由がないではありませんでした」
「その理由って……」
「私は……分からなかったのです。殿下がなぜ、あのような顔をなさったのか。なぜ、あれほど怯えた目で私を見たのか。私には理解できなかった」
「……」
「だから殿下の望むことをしてみようと思いました。そうすれば、少しは分かるかもしれない、と。そういった様々な理由があり、指を落とす事を決断いたしました」
キュルケの目から、涙が零れ落ちた。
止められなかった。次から次へと涙が溢れてくる。アシェルは困惑した顔で懐から手巾を取り出した。
「殿下、どうかなさいましたか」
「わたくしの……せいで……」
「は?」
「わたくしが……あんなことを言ったから……あなたは指を……」
嗚咽が声を遮った。キュルケは両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いた。自分の言葉が彼を傷つけたのだ。殺す以外を知らないのか、と責めた自分の言葉が彼に無謀な行動をさせたのだ。
「殿下、泣かないでください」
アシェルは手巾を差し出したがキュルケは受け取らない。アシェルはといえば、困り果てた様子でおろおろとしていた。
「その、私は別に殿下に責められているとは思っていません。ただ、殿下の仰ることが分からなかったので分かろうとしただけです。それに、それだけが理由ではないと説明もしました」
「でも……」
「それに指を失ったのは私の判断です。殿下のせいではありません」
慰めの言葉だと分かっている。しかしキュルケにはそれが余計に辛かった。彼は自分を責めていないのだ。なぜなら、そもそも「責める」という感情を持っていないから。
「……ごめんなさい」
「謝る必要は……」
「ごめんなさい、アシェル」
キュルケは涙に濡れた顔を上げ、彼を見つめた。
「わたくし、あなたのことを何も分かっていなかった。分かろうともしなかった。あなたの目が読めないから、怖くなって、逃げて──」
「殿下……」
「でもあなたは違ったのね。分からないから、分かろうとしてくれた。指を失ってまで」
アシェルは何と答えて良いか分からぬ様子でただ黙っていた。キュルケは涙を拭い、大きく息を吸った。
「ちょっと待っていて」
「殿下?」
キュルケは立ち上がり、傍らに控えていた侍女を呼んだ。
「短剣と、清潔な布を持ってきなさい」
侍女は目を丸くした。
「で、殿下……?」
「聞こえなかったの? 短剣と布を。早く」
「し、しかし……」
「早く」
侍女は青ざめながらも急いで走り去った。アシェルは眉を顰めて立ち上がる。
「殿下、短剣など何に使うおつもりですか」
キュルケは答えなかった。
「殿下?」
「……」
やがて侍女が戻ってきた。震える手で小振りの短剣と白い布をキュルケに差し出す。キュルケはそれを受け取り、布を机の上に広げた。
そして左手を布の上に置いた。
アシェルの顔色が変わった。
「殿下、まさか……」
キュルケは短剣を逆手に持ち、自分の小指に狙いを定めた。
「これがわたくしの、けじめのつけ方です」
「殿下っ」
普段は鉄面皮のアシェルが明らかに動揺していた。声が上擦り、目が見開かれている。
「あなたがわたくしのために指を失ったのなら、わたくしも同じ痛みを──」
言い終わらぬうちにアシェルが動いた。
疾風のように飛びかかり、キュルケの腕を掴んで短剣を払い落とす。そのまま組み付くようにして押さえ込み、叫んだ。
「殿下が乱心なされた。衛兵を呼べっ」
侍女が悲鳴を上げながら走り去る。キュルケは暴れたがアシェルの腕力には敵わない。
「離しなさいっ」
「お断りします」
「これはわたくしの……」
「私はそのようなことを頼んでおりません」
アシェルの声が初めて怒りを帯びていた。
「殿下の指は殿下のものです。私のために失う道理がどこにある」
「でもあなたは──」
「私は軍人です。戦場で手足を失うことなど、覚悟の上。しかし殿下は違う」
キュルケは動きを止めた。アシェルの目がいつもと違っていた。凪いだ湖面のような静けさはなく、何か──怒りとも悲しみともつかぬ、激しい感情の色が揺れている。
「そんな事をしてほしくないのです」
「……」
「私は……私には殿下の心は分かりません。何を考え、何を望んでいるのか、いつも分からない。でも殿下が傷つくのは嫌だ」
その言葉はアシェルにしては信じられないほど感情的であった。キュルケは目を見張り、瞳をじっと見つめた。
嘘ではない。
彼女の目は嘘を見抜く。そしてアシェルは今、一片の偽りもなく、本心を語っているのである。この感情の乏しい男が初めて──。
「……ばかね」
キュルケは小さく呟いた。
「わたくしは、ばかだわ」
涙がまた溢れてきた。今度は悲しみからではない。別の、もっと温かいものが胸の奥から込み上げてくるのを感じながら、キュルケは力を抜いた。
◇
キュルケは王城の一室に謹慎を命じられた。
乱心騒ぎを起こした王女に対する当然の処置であった。しかし謹慎は三日で解かれ、彼女は両親の待つ応接間に呼び出されることとなった。
扉を開けると、そこには父ゼヴィウスと母オーレリア、そしてヴェイル公爵とアシェルが待っていた。キュルケは一瞬たじろいだが覚悟を決めて中に入った。
「座れ」
ゼヴィウスの声は重かった。キュルケは俯きながら、指定された椅子に腰を下ろす。
「なぜ、あのようなことをした」
「……」
「答えよ」
キュルケは顔を上げた。
「……アシェル様がわたくしのために指を失ったと聞きました」
「ほう」
「わたくしは三月前、アシェル様に酷いことを申しました。それが原因であの方は和睦という危険な道を選び、儀式のために指を──」
「待ってください」
アシェルが口を挟んだ。その声には微かな怒りが混じっている。
「私は殿下にそのようなことを頼んではおりません。私が指を失ったのは私自身の判断です。殿下のせいでは──」
「それでも」
キュルケは彼の目を見つめた。
「わたくしの言葉があなたを動かしたことは事実でしょう。わたくしにも責任がある。だから同じ痛みを──」
「殿下」
アシェルは声を荒らげた。
「我々が血を流すのはこの国の、人々の安寧のためです。殿下のような方がそのような真似をする必要はない」
「でも──」
「ありません」
アシェルの瞳にははっきりとした怒りが宿っていた。普段の彼からは考えられないほど、感情が表に出ている。キュルケはそれを見て、不思議な感覚を覚えた。
この人も感情がないわけではなかったのだ。
ただ、表に出さないだけ。出し方を知らないだけ。しかし今、自分のことでこれほどまでに──。
「でも」
オーレリアが静かに口を開いた。
「蛮族の慣習に付き合って、指を落とすような真似をしたのはあなたでしょう?」
アシェルは言葉に詰まった。
「あなたがなぜそこまでしたのか──それは国のためだけだったのですか?」
沈黙が落ちた。
アシェルは俯き、何かを考えているようであった。やがて、絞り出すように呟く。
「……分かりません」
「分からない?」
「分からないのです。私は殿下の言葉が気になった。殿下の怯えた目が忘れられなかった。なぜそれほどまでに気になったのか、私には分からない」
キュルケは息を呑んだ。
「ただ──」
アシェルは顔を上げ、キュルケを見た。
「殿下にあのような目で見られたくなかった。それだけは確かです」
その瞬間、部屋の空気が変わったような気がした。ゼヴィウスは大きく溜め息をつき、天井を仰いだ。
「お似合いだな」
「……は?」
「公爵、婚約は継続する方向で良いか」
ヴェイル公爵もまた、呆れたように肩を竦めた。
「……異存はございません」
「ででは──」
キュルケは慌てて立ち上がった。
「待ってください。わたくしはまだ、アシェル様に何も──」
「何を言う必要がある」
ゼヴィウスは娘を見据えた。
「お前はあの男のために指を落とそうとした。あの男はお前のために指を落とした。これ以上、何を言葉にする必要があるのだ」
「……」
キュルケは言葉を失った。確かにそうかもしれない。言葉にせずとも互いの想いは伝わっているのかもしれない。しかし──。
「でも」
キュルケは首を振った。
「わたくしは言葉にしたいのです」
「ほう」
「アシェル様は言葉にしなければ分からない方だから。わたくしの気持ちもちゃんと言葉にして伝えたい」
キュルケはアシェルの方を向いた。彼は困惑した顔で彼女を見つめている。
「アシェル様」
「ははい」
「わたくしはあなたのことが好きです」
沈黙。
アシェルの目が大きく見開かれた。彼にしては珍しいほどの、明確な驚きの表情である。
「三月前、あなたを怖いと思いました。でもそれはあなたのことを分かろうとしなかったわたくしの落ち度です。あなたはわたくしのために殺す以外の道を探してくれた。指を失ってまでわたくしの望みを叶えようとしてくれた。もちろん、わたくしの言葉だけが理由ではないのでしょう。しかし、わたくしの言葉もまた理由の一つだった──そう、あなたは仰いました」
「それは……」
「嬉しかったのです。怖かったけれど、嬉しかった。あなたがわたくしのことをそれほどまでに想ってくれていたのだと分かって」
キュルケの目から、また涙が零れた。しかし今度は笑みを浮かべながら。
「だからわたくしも努力します。あなたのことをもっと知りたい。あなたの考えていることをもっと分かりたい。言葉にしなければ分からないなら、何度でも訊きます。何度でも話し合います」
「殿下……」
「政略結婚だったかもしれません。でもわたくしはあなたと、ちゃんとした夫婦になりたい。……駄目、ですか?」
アシェルは暫く黙っていた。その瞳には様々な感情が渦巻いているように見えた。困惑、驚き、そして──。
「……分かりました」
低く、しかしはっきりとした声でアシェルは答えた。
「私も努力します」
「本当?」
「殿下の気持ちは正直、よく分かりません。しかし分かりたいと思います。殿下が私を分かろうとしてくれるなら、私も殿下を分かろうと──」
言葉が途切れた。キュルケが飛びつくようにして、彼の胸に顔を埋めたのである。
「殿下、人目がありますが」
「いいの」
「良いのですか?」
「いいの」
アシェルは狼狽えながらもぎこちなく彼女の背に手を回した。その不器用な仕草にキュルケは笑みを零す。
「やっぱり、あなたは変わってないわね」
「……何がですか」
「十年前と同じ。わたくしが何をしても動じないで受け止めてくれる」
「いえ、今はかなり動揺しているのですが」
「ふふ」
キュルケは顔を上げ、彼の瞳を見つめた。
「これからよろしくお願いします、アシェル様」
「……こちらこそ」
アシェルの頬が僅かに紅潮していた。普段は感情を見せぬ彼が照れているのである。キュルケは目を細め、その様子を心に刻み込んだ。
背後でゼヴィウスが大きく咳払いをした。
「こほん。感動的な場面のところ悪いがそろそろ離れてくれぬか。父親として、目のやり場に困る」
「お黙りになって、お父様」
「……」
ゼヴィウスは黙った。オーレリアが小さく笑い、ヴェイル公爵は困ったように頭を掻いている。
この日、アシェル・ヴェイルと第二王女キュルケの婚約は正式に発表されることとなった。
◇
婚約が発表されてから半年後、二人は盛大な式を挙げて夫婦となった。
式の準備の間、二人の間では数えきれないほどの行き違いが生じた。キュルケが「分かってくれるはず」と思ったことをアシェルは全く理解せず、アシェルが「論理的に考えれば当然」と思ったことをキュルケは「冷たい」と感じた。何度も口論──というか、キュルケが一方的に爆発しただけなのだが、ともかくも何度も謝り合い、何度も話し合った。
そしてそのたびに二人は互いを知っていった。
キュルケはアシェルに自分の感情を言葉にすることを学んだ。察してほしい、と思うだけでは駄目なのだ。彼にははっきりと伝えなければ分からない。最初は苦労したが次第にそれが習慣となっていった。
アシェルもまた、キュルケの細やかな感情の機微に気を配ることを学んだ。彼女の目の動き、声の調子、仕草の変化──それらを観察し、彼女が何を感じているのかを推測する。完璧にはほど遠いが少しずつ、彼女の心が読めるようになっていった。
二人は互いの欠けた部分を補い合っていたのである。
式の日、キュルケは純白のドレスに身を包み、アシェルの隣に立った。祝福の鐘が鳴り響き、人々が歓声を上げる中、彼女は小さく囁く。
「緊張している?」
「……少し」
「わたくしも」
「そうですか」
「ねえ、アシェル」
「何ですか」
「幸せになりましょうね」
アシェルは少し考え込んだ後、真面目な顔で答えた。
「相互努力をしましょう」
「ふふ」
キュルケは笑った。
二人は手を取り合い、誓いの言葉を交わした。
かくして、政略結婚は恋愛結婚へと姿を変え、二人は末永く幸せに暮らしたのである──と、言いたいところであるが実際にはその後も二人の間には数多くの行き違いが生じた。
キュルケが泣き、アシェルが困惑し、キュルケが怒り、アシェルが弁明し、キュルケが拗ね、アシェルが途方に暮れる。そんな光景が日常的に繰り返されることとなった。
◇
婚礼から一年が過ぎた頃のことである。
キュルケは自室の寝台で傍らに眠るアシェルの顔を見つめていた。月明かりが窓から差し込み、彼の端正な顔立ちを淡く照らしている。普段は感情を見せぬその顔も眠っているときは穏やかでどこか幼く見えた。
ふと、キュルケは彼の左手を取った。小指のない、その手を。
あの日から、一年が経つ。あの中庭で彼がこの指を失った理由を語ってくれた日から。自分もまた、同じ痛みを分かち合おうとして、彼に止められた日から。
あのとき、自分は初めて彼の本心を見たような気がした。感情がないと思っていた彼が自分のことで怒り、自分のことで心を乱した。それは彼なりの愛情の形だったのだろう。
キュルケは彼の手に唇を寄せた。
「……キュルケ?」
アシェルが彼女を名前で呼ぶようになったのはつい最近の事だ。
「起こしてしまったかしら」
「いえ」
アシェルは目を開き、彼女を見つめた。
「どうかしましたか」
「ううん、なんでもない」
「嘘ですね」
キュルケは目を丸くした。
「……わたくしの嘘が分かるようになったの?」
「少しは」
アシェルは僅かに口元を緩めた。彼にしては珍しい、笑みに近い表情である。
「キュルケは嘘をつくとき、少しだけ目を逸らす癖があります」
「そう……」
「そして何か言いたいことがあるときは私の手を握る」
キュルケは思わず、自分の手を見た。確かに彼の手を握りしめている。
「わたくし、そんな癖があったかしら」
「ありました。結婚してから、気づきました」
「……」
キュルケは何も言えなかった。この一年、自分は彼のことを知ろうと努力してきた。彼の考え方、彼の価値観、彼の──乏しいながらも確かに存在する──感情の機微。しかし彼もまた同じように自分のことを見ていてくれたのだ。
「アシェル」
「はい」
「好き」
「……」
アシェルは少し黙り、それから答えた。
「私もです」
「今、照れてる?」
「いえ」
「嘘」
「……少しだけ」
キュルケは笑い、彼の胸に顔を埋めた。
「ねえ、アシェル」
「何ですか」
「わたくしたち、うまくやれているかしら」
「どういう意味ですか」
「夫婦として。ちゃんと、理解し合えているかしらって」
アシェルは天井を見上げ、しばし考え込んだ。やがて、いつもの平坦な声で答える。
「分かりません」
「ふふ、正直ね」
「ただ」
「ただ?」
「キュルケと一緒にいると、悪くないと思います」
キュルケは顔を上げた。
「悪くない?」
「はい。温かい、というのでしょうか。よく分かりませんが悪くない」
それはアシェルなりの最大限の愛情表現だったのだろう。キュルケにはそれが分かった。だから笑みを浮かべて答えた。
「わたくしも悪くないと思うわ」
「そうですか」
「そうよ」
二人は見つめ合い、やがてどちらからともなく唇を重ねた──月満ちる、夜の事である。
(了)




