6.不吉な足音
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6話目です。よろしくお願いいたします。
この日は久しぶりに外で4人一緒にランチをする予定になっていたが、佑真さんと水野先輩が急きょ出張になったので延期することになったが、せっかくなので凉子さんと外でランチをすることにした。
「滅多に会社にいないのに、今日に限ってトラブルなんてついてないわね」
凉子さんは水野先輩とのランチを楽しみにしていたのか、非常に残念そうにしている。
「そうですね……」
「でもまだ小森ちゃんは良いよね。休日には王子とデート出来るんだから」
少しすねたように言う凉子さんは、普段のカッコ良い姿とは違って少し可愛い。それに水野先輩のことも仕事上は水野君と呼んでいるのに、私と2人のときだけ洋介君と呼ぶのが、いつもむず痒い。本人にも下の名前で呼んだことはない。こんな人が私を刺すなんていまだに考えられないし、嘘であってほしい。
会社で佑真さんとのお付き合いは秘密にしているが、水野先輩と凉子さんには話してある。水野先輩との仲を誤解される要素は潰しておいた方が良いと佑真さんに言われたからだ。手紙のことがなくても付き合うことになったら話す可能性はあったけど。
「はい……」
そう答えながら佑真さんとのめくるめく当惑の日々を思い出していた。凉子さんには一切話していないが、いまだに佑真さんの家でお世話になっている。本当は長くお世話になるのも申し訳ないので、そろそろ家へ戻ろうとしていた。佑真さんは何かあったら守ると言ってくれたので、それなら安心だと思ったのだ。だけど何かあってからでは遅いとか、うちには裕之もいるし1人でいるより幾分安心だとか、お兄さんに頼まれたのに守れなかったなんてことになったら、示しがつかないと引き止められたのだ。
そう言われてしまえばうなずくことしか出来なかった。1番問題なのは湯上りだった。裕之さんと佑真さんは男の2人暮らしなため、普通に上半身裸でうろつくことがある。たまに鉢合わせると目のやり場に困るのだ。兄や父とはわけが違うためいまだに慣れない。
裕之さんは『わっ! さなちゃんごめん』と言うが、佑真さんにいたっては微笑みながら『いい加減に慣れた方が良いぞ』と言う始末である。そのうえ佑真さんに髪を乾かされることが頻繫にある。『乾かしても良いか?』と聞かれたことがあり、1度許してしまってからは時間が合えば乾かそうとしてくるのだ。『さなさんの髪触り心地が良い』とか『合法的に触れられる』とわけの分からないことを言いながら、乾かし終わったあとも触り続けることがある。
きっとぬいぐるみかあるいは動物か何かと勘違いしているんだと思うことにした。さらには帰宅後に必ず生存確認と言って抱きしめられる。最近は恥ずかしさより嬉しさが勝ってきた。慣れっておそろしい。これはチャンスとスキを見ていい加減に自分の気持ちを伝えようと思うのだが、何故かスキがない。と言うよりかは遮られる方が正しいのかもしれない。私が何か言おうとすると『今はまだ俺の気持ちに無理に答える必要はない』と返ってくる。
そう言うことじゃないんだ! これでは埒が明かないと裕之さんに相談するも『兄さんがそう言うなら、今はこのままで良いんじゃないかな』と言われる。あんなに早いとこ好きと言った方が良いと言っときながら、この変わりようは何なのだろう。今はランチ中なのにあれこれ思い返していた。
「会社で秘密の交際って何か良いよね! そのおかげでわたしも洋介君と一緒にランチ出来るんだけどね! 4人なら怪しまれないし」
凉子さんの言葉に我に返った。1人でトリップしてしまった。
「そうですね。私も凉子さんがいてくれて良かったです。あっ! ちょっとお手洗いに行ってきます」
なんだか恥ずかしい気持ちになり、少し火照った頬を鎮めるためお手洗いへと席を立った。行ってらっしゃいと言われたあと、携帯の通知音が鳴り『えっどう言うこと』と口走る凉子さんの声が聞こえた気がしたけれど、それどころじゃなかった。席に戻ると怪訝な表情をする涼子さんがいた。
「小森ちゃんってさ本当に王子と付き合ってるんだよね」
疑いの目を向けられて、戸惑う。
「はっはい……」
私は一瞬ためらった。付き合っているのは事実だが、いまだにちゃんと気持ちを伝えられていないからだ。これで本当に付き合っていると言えるのだろうか。そのためらいがまずかったのか、凉子さんは信じられないことを言い出した。
「ねぇそれって噓なんじゃないの。女性に興味ない王子が小森ちゃんと付き合うとか考えられないわよ。普段も話してるところほとんど見たことないもの」
何も答えられない。確かに会社での様子を見れば疑われても仕方がないように思う。だけど付き合いを秘密にしているのだから、話してるところを見たことなくてもバレないように気をつけてるんだって思ってくれても良いはずなのに。
「大体変だと思ったのよ。洋介君やたらと小森ちゃんにからむし、あなたのお兄さんが洋介君の大学の先輩だってことは知ってるわ。だからって距離が近すぎなのよ! 本当は洋介君と付き合ってるのに、わたしが洋介君を好きって知ってるから、それを隠すため王子に偽装恋人お願いしたんじゃないの」
凉子さんのとんでもない勘違いに、本能的にまずいと思った。水野先輩の距離感が近いのは私に限らずなのだが、そんな事実お構いなしだ。これでは最悪の結末を迎える可能性に近づいてしまう。
「ちっ違います! 佑真さんと付き合っているのは本当なんです! あっ……」
興奮のあまり気が抜けて、思わず会社では呼ばない言い方をしてしまった。
「下の名前で呼ぶなんてあなた王子まで手なずけてるのね」
「手なずけてるなんて誤解です!」
凉子さんの発想が理解出来ないながらも必死に否定する。
「じゃあ何なのよ! もしかして二股でもしてるのかしらね」
「水野先輩は兄経由で仲良くしてもらってるだけで、本当に何でもないんです」
何とか分かってもらおうと必死になって説明するも、凉子さんのひと言で無情にも砕け散った。
「じゃあそのメールは何」
「えっ」
「あなたが席を立ったときに受信したメールよ! 言っとくけど見ようと思ったわけじゃなくてたまたま目に入っただけだからね」
おそるおそるメールを開いた。そこには明らかに誤解を招くような文章が打ち込まれていた。最悪だ。
『おれに会えなくて寂しいと思ってくれてるかな』これは紛れもなく水野先輩の本心なのだが、凉子さんへ向けた言葉だ。しかし直接凉子さんには聞けない内容を送ったメールだった。私たちの間では誰のことを指しているのか分かり切っていることなので、だから特に誰がとは書かれていなかった。これに『青野は』という文字がひと言でも入っていれば良かったのだが、水野先輩は少し照れくさいのか、名前を省いていた。
「噓でしょ……違うんです! これはその」
上手い言い訳が思い浮かばなかった。いくら両思いと知っているとは言え、水野先輩の気持ちを勝手にばらすわけにはいかない。続く言葉が見つからずに黙るしかなかった。
「はぁ~もう良いわよ。あなたが最低だって分かったから」
凉子さんはそう言いながら、食事にはほとんど手を付けずに店を出た。違うのに、分かってもらえなくて悲しい。私もこのまま食事をする気にはなれずに、失意の中この状況を伝えるべく2人にメールを送った。
水野先輩には『さっきのメールを偶然見られて、凉子さんが水野先輩と私が付き合っていると誤解した』と。佑真さんには『水野先輩からの凉子さんに向けた会えなくて寂しいメールを、凉子さんに見られて、水野先輩と佑真さんに二股をかけていると勘違いされた』と。忙しいのかどちらからもすぐ返事はなかった。しかも最悪なことに佑真さんは出張で2、3日帰って来ない。守ると言ったのにこんなときにいないなんて、とても心細いし泣きたくなった。
昼休けいを終えてから会社に戻るのがなんだか憂鬱だった。しかもエントランスをくぐるとやたらと視線を感じたのだ。そしてひそひそと話し声が聞こえた。それも私に関することだ。
「小森さんって、見かけによらず最低なんだね」
「青野さんの好きな人奪っちゃったらしいよ」
「しかも二股かけてるらしいし」
全て誤解だが、否定するすべを持っていない。聞かないようにしていても、自然と入ってくる耳障りな声にどうすることも出来ずにいた。ただ唯一救いだったのは部署に戻って席に着いたときに、声をかけてくれた同僚がいたことだ。肩を叩かれたので、びくりとして直接何か言われるのかもと身構えて振り返ると、いつもミステリアス王子のことで騒いでいる先輩女性の赤井さんと黒田さんたちだった。
「小森さん大丈夫? 私たちは周りの人たちが言うように、青野さんの好きな人を奪ったなんて思ってないからね」
「そうそう! 逆に青野さんと仲良くして大丈夫かなって心配してたんだよ。何か問題起きるんじゃないかって」
「えっ……」
意外な反応だった。突然の言葉に訳が分からない。どう言うことなんだ。
「実はね私たち青野さんと同期なんだけど、あの人大分思い込みが激しいタイプでさ、何度か取引先の人と問題起こして担当外されたりしてるんだよね。実際問題起きたあとに言うのもなんだけど、仲良いのに口出しするのは違うかなって思ってたから」
「そうなのよね。そのほとんどが、男女の揉め事に発展しちゃうみたいでね。それでもなお営業部にいるのは、あそこってどうしても人の入れ替わりが激しいから、その度にフォローする人材が必要で異動させられなかったらしいの。思い込みが激しいこと以外は仕事出来る人だからね。しかもかなりの仕事人間だし、赤井さんもそれで被害受けてるもんね」
「そんなこともあったね。長いこと勤めてる人は知ってることだけど、小森さんたちのようにここ1~2年で入社した人は知らないから無理もないだろうけど」
「最近おとなしいから安心してたんだけど、そっか社内に好きな男がいるからか」
「えっ」
話についていけず、また戸惑いの声をあげてしまった。
「驚くのも無理もないよね。だって最近小森さんと青野さん仲良いから。普通そんな人だと思ってて一緒にいないもんね」
驚いたのは凉子さんにお兄と別れてからも、男女間のもめごとが起こっていたことだった。やはり凉子さんは相当ヤバい気がする。果たして水野先輩はこのことは知っているのだろうか。
お兄は水野先輩に幸せになってほしいと言っていたが、もしかしたらこんな束縛するような女じゃなく、もっと別の誰かと幸せになってほしいと言う意味で言ったのではないかと思えてきた。
「ねぇねぇやっぱりその相手って水野君かなぁ」
「そうかも! だって水野君と青野さんが一緒にいるところ見かけたことあるし、仲良さそうだった。ミステリアス王子はない気がするかな」
こんな会話が繰り返されている中、私は話半分に聞いていた。唐突にあぁ……水野先輩と凉子さんは幸せになる未来は来ないのだろうと。そして思わずつぶやいた。
「そのこと水野先輩は知っているのかな……」
「へぇーやっぱり相手水野君なんだ」
しまった言わなくて良いことを口にしてしまい、ハッと気づいたときにはもう遅かった。
「あの……聞かなかったことにしてくれますか」
「うん良いよ! でもね水野君は……あっ」
ここで午後の業務開始の本鈴が鳴ってしまい、続きを聞くことが出来なかった。真っ青な顔をして作業をする私を気の毒に思ったのか、先ほど言いかけた話の続きを社内チャットで送信してくれた。
【読んだらすぐに消すように】と言うタイトルのもと送られてきた文章は【水野君が配属される前の出来事だから、知らないと思う。もちろんミステリアス王子も】と言う内容だった。
よく考えたらもしこの事実を知っていたら、水野先輩は凉子さんと距離を置くだろう。私なら関わりたくないと思うからだ。しかしきっと水野先輩はこんな話をしても信じない可能性がある。好きな人のこんな最低な過去なんて信じたくないと思う方が普通だからだ。
最悪な結末に近づいてしまったことに、恐怖心で仕事どころではなくなり、私の様子がおかしいことを心配した先輩方に早退するように促され、早々に帰宅することになった。携帯を見ても2人からの連絡はなく不安は募るばかりだ。
家に帰ると裕之さんの姿はなかった。日没にはほど遠い時間なので当然ではあるが、少し寂しかった。お兄に連絡してみたものの当然仕事中の時間なため手ごたえがなかった。どうしたものかと、リビングの椅子に腰かけて誰かからの連絡を待っている間、電気もつけずにただ天井を眺めていた。
「うわっビックリした」
扉が開く音とともに電気が突然つき、まぶしさで顔をしかめているところに裕之さんの叫ぶ声が聞こえた。
「あっおかえりなさい」
「おかえりなさいじゃないよ! 電気もつけずにどうしたの。誰もいないと思ってたから本当にビックリしたんだからね」
「それは……ごめんなさい」
「まぁさなちゃんだったから良いけど、これが全然知らない人だったら恐怖でしかないね。それよりこんな早いなんて珍しいね」
私は会社での出来事を話すことにした。
「――と言うことがあって、早退しました」
裕之さんは驚愕で動き止まってしまった。
「もしかして今も兄さんから連絡ないの?」
「ハイその通りです」
「さなちゃんのお兄さんには連絡した?」
「したけど、多分仕事中だから、連絡来ないかも」
これからどうすれば良いのか分からなくなった。味方がいるとはいえあんな噂を流されて仕事はしずらい状況になる。
「さなちゃん、お腹空いてない」
そう言えばお昼もあんなことがあったから食べていない。そもそも食事どころではなかったのだが。かと言ってあまり食欲はわいていなかった。
「いや……あんまり食べる気になれなくて」
「そうだよね! うん。でも腹が減っては戦は出来ぬって言うじゃん。手紙とはだいぶ違うけどさ、さなちゃんにとっては生き延びるための戦いが始まるってことにならないかな。少しでも食べたらさ、何か良いアイデアが生まれそうじゃん」
確かにただどうしようと思っていても何も変わらない。何だか裕之さんの明るさに救われる。脳に栄養を与えることで、突破口が見えるかもしれない。
「そうだね。そうする」
そうして裕之さんは夕食にオムライスを作ってくれた。温かくてとても優しい味だった。食欲がなかったけれど、食べ始めるとどんどん食が進んでいた。そしていつの間にか涙があふれていた。裕之さんが向かい合って座っていたため突然泣き出した私にぎょっとしてた。
「さなちゃんどうしたの? もしかして不味かった」
「うんん違うんです。すごく美味しいです。ただなんか1人じゃなくて良かったと思って」
「あー確かにそうだよね」
「うん。きっと家で1人だったら不安で仕方なくて何も考えられなかったなって」
もしもお兄が私の家が水漏れしてるなんて噓をつかなかったら、今でも家で1人だった。それに噓がバレたあと、佑真さんの提案を拒否して強引に家へ帰る選択をしていたら同じく1人でいた。
「さなちゃん兄さんたちに愛されてるね。はぁ~泣くとか反則だよ。抱きしめたくなる」
「え」
ちょっと最後の方が聞き取れなかった。
「ん゙ん゙ん゙、こんな事態を見越して、さなちゃんが1人で不安にならないように、僕がいるこの家にとどまらせたって考えるのが普通じゃん」
「あっ本当ですね」
不安は消えないけれど、裕之さんがいてくれて良かった。連絡が取れたらまずはお礼を言いたいと思う。
早めの夕食を終えてしばらくすると、お兄から連絡があった。いまだに佑真さんと水野先輩からの連絡はない。
「もしもしさなメール読んだ。佑真君からの連絡は来たのか」
「まだだよ。急なトラブルで急きょ出張になったから忙しいんだと思う」
「そうなのか。まいったなこんな展開はオレも予想してなかったな」
とりあえずお兄にも、凉子さんが取引先とのトラブルを起こしていた件を話しておくことにした。もちろん水野先輩と佑真さんはこの話を知らないことも添えて。
ひと通り話すと少し驚いたものの、納得しているような様子だった。お兄が経験していることなので、もしかしたらあいつならしでかすだろうと思ったのかもしれない。
お兄はやはりそんなやつと洋介の未来を想像したくなかったようで、苦渋の決断をした。私が――と言うより佑真さんが、水野先輩にやんわりと凉子さんに危害を加えられる悪夢を見たと言ってしまったことも要因ではあるが、凉子さんとの過去を話すそうだ。
これを聞いたうえでどうするかは水野先輩次第だし、ことが大きくなる前に行動を起こさないとまずいと思ったから、本人に判断をゆだねることにした。話をつけ次第連絡をくれるということで、電話を切った。
お読みいただきありがとうございました。
明日も次話投稿予定です。