20-2-8『極北のアンビリカル・コード』
ゴールドラッシュのように宇宙開発が進む未来。かつて冥王星探査船の失踪事故で母を失った少女・ユリヤは、宇宙港の地上職員として細々と暮らしていた。
母を探しに行きたい。でも、怖くて宇宙に飛び立てない。葛藤するユリヤに転機を与えたのは、彼女の見習いとして宇宙港に就職した相棒・アマンダだった。
「あたしたちは独りじゃない」
「怖くなったら命綱を手繰って、ここに戻ってくればいいんだよ」
奔放ながらも親身な相棒の存在は、多忙な日々の中でユリヤの孤独を少しずつ癒やしてゆく。逃げることは恥じゃない。でも、逃げたら何も始まらない。千切れたへその緒の先を探るように、ユリヤはアマンダ達に支えられながら難題を乗り越え、二度目の冥王星探査への参加を志すことになる──。
広大な宇宙を泳ぎわたり、ユリヤは母のもとへたどり着けるのか。
これは、絶対零度の冥王に挑んだ少女の、命懸けの自立の物語だ。
──命綱の重みが手のひらへ伝わる。
汗ばんだ身体を寒気が駆け抜けて、息が凍る。絶対零度の宇宙空間よりも冷たい息だ。
ユリヤ・サクラは震える唇をこじ開けて深呼吸をした。毛先の傷んだ黒髪が油っこい風に揺れた。目をつぶって、モニターに表示された【連結解除】のボタンに指先を押し当てる。一抱えもある巨大なケーブルのロックが外れ、マニピュレーターの遠隔操作で引き抜かれてゆくのが見える。ぞわり、ふたたび寒気が強まった。断ち切ったのは自分自身の命綱ではないのに、この手順を踏むたびに本能的な恐怖の発露がユリヤを襲う。
目の前には巨大な鉄の塊が鎮座している。周回軌道へ向かう個人用の小型宇宙船だ。その艶やかなボディを見上げ、ユリヤは無線機を取った。
「管制室。エプロン3はアンビリカル・ケーブル解放、安全よし」
『──タワー了解。退避してください』
接合部の蓋が固定され、ロック完了のライトが点灯しているのを念入りに確認する。巨大なケーブルの本体はすでに建屋側へ格納されている。電力、液体推進剤、圧縮空気、パージガス。宇宙船の航行に必要なものを、発射直前まで供給するためのケーブル。いわば宇宙船の「へその緒」だ。
あなたもどこかへ行ってしまうんだ。
もう、地球には戻ってこないの?
つんと胸を痛みが刺して、もがくようにユリヤは駆け出した。鉄製の通路を抜けて建屋に入り、ドア脇の【退避完了】ボタンを押す。せっかちな打上シーケンスの自動音声が始まる。
『──エプロン3からランウェイ1まで進路開通。タキシングを開始します』
『──ランウェイ1、シャフトレール冷却終了。離脱軌道の天候は良好』
『──弾体部固定、射出電源投入準備完了。発射態勢に入ります。カウントダウン、テン』
無機質な構内放送に背中を押され、鉄扉を開けてユリヤは外へ出た。まばゆい陽光に目を細め、ヘルメットを外して背後を振りあおげば、そこには高さ二〇〇〇m超にも及ぶ白亜の塔が屹立している。その塔が、無言の緊迫を帯びた。
『──ゼロ。ランウェイ1、射出』
甲高い電動機の作動音が放送をかき消す。次いで、見えない緊迫が天空を駆けのぼってゆく。塔の彼方にオレンジの閃光が走り、六秒ほど遅れて雷鳴のような爆発音が轟いた。構内放送が淡々と『打上シーケンス完了』を告げ、ユリヤはようやく肩の痛みから解放された。
まばゆい空の果てへと塔は続いている。
電磁投射式静音垂直発射台。ここUNEタイキ国際宇宙港が誇る、最新鋭の宇宙船発射台だ。
沈黙した塔を見上げていると、手元の無線機がユリヤを呼んだ。「いま行きます」と返答を入れ、駆け出しかけて、汗ばんだままの手のひらをユリヤは上着でぬぐった。
どれだけ仕事をこなしても慣れない。
無限の虚に放り出されたような、あの恐怖には。
「ユリヤ! 早くしろ、次の出発機が来るぞ」
「分かってますってばっ」
荒っぽい声に呼びつけられ、今度こそユリヤは建屋を目指した。発射台の冷却を終え、構内放送が次の打上シーケンスの開始を告げていた。
春風になびいた髪が艶やかに輝く。
ユリヤ・サクラ、二十四歳。
この宇宙港に地上作業員として就職してから、今年で三度目の春を迎えた。
人類が宇宙の扉を開いてから二百年。
目覚ましい技術の進歩は、惑星間航行や資源開発、個人レベルの宇宙旅行などを次々に実現した。人々はこぞって近傍惑星へ入植し、太陽系の大半は人類の活動圏となった。
ゴールドラッシュの再来とも称される宇宙開発全盛期の今、宇宙船の打上げ設備の拡充は急務だ。定期航路の旅客・貨物船や、各国の保有する探査往還船を除けば、大概の宇宙船は自力で宇宙へ飛び立てない。地球の重力圏を脱するには莫大な推力が必要で、小型の宇宙船がそのような装備を持つのは現実的に難しかった。そこで、大規模な発射台を備える商用宇宙港の整備が提唱され、地球国家連合の主導で各地に宇宙港が建設されていった。日本列島の北端、エゾ連合直轄州の太平洋沿岸に位置するUNEタイキ国際宇宙港も、そうした商用宇宙港のひとつだった。
エゾ連合直轄州の春は遅い。四月も半ばを迎え、道端の木々がようやく桜色に芽吹き始めた朝。出勤早々、上司がだしぬけに「新入りが来るぞ」と言い出した。
「午後から配属になる。俺たち地上作業員の仲間だ。ユリヤ、お前が教育をやれ」
「私が?」
すっとんきょうにユリヤは問い返した。業務経験わずか二年の若造が、新人教育に宛がわれるなど前代未聞だ。「心配するな」と上司は相好を崩した。
「多少の業務経験はあるらしい。新人はお前と同じ二十四歳、おまけに女だとさ」
「まさか、手に負えないから私に任せるっていうんじゃ……」
「邪推のし過ぎだ。騙されたと思ってやってみろ。お前も勉強になるぞ」
そういうものか。しぶしぶ頭を垂れてみたが、ユリヤの手のひらは宇宙船の安全装置を外した時のようにじわりと湿っていた。ここタイキ宇宙港の地上作業職では、ユリヤが断トツの最年少だ。宇宙港の地上作業職に若者や女性が新人として入ってくることは滅多にない。金を生まない宇宙港の職員、なかでも鉄粉にまみれながら働く地上作業員は、世間の尊崇を集めない卑賎な職業のひとつだった。
とんでもない変わり者が来たらどうしよう。
いや、私だって世間様がみれば変わり者か──。
気を揉みながら働くうちに昼休みが訪れた。飛び立つ船を見送り、詰所に戻ってきたユリヤは、見慣れぬ風体の女性を目の当たりにして立ちすくんだ。ド派手な七色の髪、耳や鼻に下がる無数のピアス。気だるげな眼差しに見込まれ、ユリヤは悪い勘が当たったのを理解した。
「アマンダ・ルナ・ジェノアだ。アマンダ、この子がお前の教育担当な」
「ユリヤ・サクラね」
ずいと彼女は一歩を踏み出した。
「なんて呼べばいい?」
「なんて呼んでもいいけど、その……そんな格好でよく入構を許されたね」
「そう? 今どき普通じゃないの。月面港の職員なんかもっとチャラチャラしてるし」
「ここは地球でしょうが……」
月面だろうが何処だろうが、私生活と職場を混同されては困る。あっけらかんとするアマンダを前に、ユリヤの心は毛羽立った。着任早々、後輩に舐められては先輩の立場がない。
「ともかく作業の邪魔になるから、そのピアスは外してきて」
声色を下げると「えー」とアマンダが嫌な顔をした。
「お堅いなぁ。この格好でも安全に作業できるってば。オデッサでは許してもらえたよ?」
「オデッサ?」
聞き覚えのある地名にユリヤは眉をひそめた。すぐ隣に立つ上司の顔が視界をよぎって、はたと思い出した。アマンダの前歴が宇宙港の職員だったことを。
UNEオデッサ国際宇宙港。
彼女が口にしたのは、東欧に位置する地球最大の宇宙港の名前だった。
ひとまずアマンダを従え、構内を紹介して回った。見た目の割には仕事熱心なのか、ユリヤの説明を彼女は律儀にメモしていた。金銀のピアスが立てる音のせいで、ユリヤの気は著しく散った。
「すっご。射出音が全然しないわ。さすが最新鋭の電磁投射式ね」
「オデッサはプラズマ薬室連動式?」
「よく知ってるじゃん。あれ、ドカンドカンうるさいから嫌いだったんだ」
飄々とアマンダは笑った。何か事情があるのかと思ったが、そんな下らない理由で前職を辞めたのか。手汗を払いながらユリヤは嘆息した。理解の範疇にない人間と関わるのは疲れる。
オデッサ宇宙港に十八歳で就職したアマンダは、ユリヤより四年も長く経験を積んだベテランらしい。もっと派手で豊かな暮らしも送れただろうに、なぜ彼女は宇宙港の仕事を選んだのだろう。押し黙っていると「ユリヤはさ」とアマンダが尋ねた。
「なんでこんなところで働いてんの?」
「母が宇宙船の技師をしてるから」
ユリヤは即答した。この仕事をしていると、同じことを何度も問われる。「ふーん」とアマンダは鼻から抜けるような声を発した。
「サクラ、ね。聞き覚えのあるファミリーネームだと思ったけど、気のせいか」
どきり、心臓が跳ねた。悪寒が脊髄を貫いて、ユリヤはその場で立ち止まった。アマンダは気にも留めずに「あたしはさ」と後頭部で手を組んだ。
「宙飛ぶのとかダルいなって思って。だから地上職志望」
「……そう」
「だってさ、思わない? 宙の上には夢なんかないって。あるのは利権争いと環境破壊だけ。月面なんか掘り尽くされてボコボコだよ。挙げ句の果てには冥王星までほじくり返そうとして、探査往還船もどっか行っちゃうしさ──」
「次、ケーブル格納室の説明するから。何する場所かは知ってると思うけど」
興味のないそぶりで話を遮って、ユリヤはアマンダの前に立った。「はいはい」と彼女は肩をすくめた。春風が首元をぬけてゆく。拭い去れなかった悪寒がまとわって、ユリヤの心はまだ凍えていた。
五年前、資源調査のため冥王星へ向かった国際探査往還船は、原因不明の通信途絶によって失踪した。UNEは捜索を断念し、百二十名の搭乗員は全員「死亡」したものとされた。
あの日から、ユリヤの母親は帰ってこない。
ユリヤは唇を噛んだ。
白亜の塔を見上げると、へその奥が引っ張られたように痛む。母を探しにゆきたいと考えるたび、あの本能的な恐怖がユリヤを地上へ引き留める。
お前も二度と戻れなくなるぞ──。
そう、冥府の神に脅しをかけられるのだ。
【結果】1位票5、2位票4、3位票2、いいね6
第二会場8位・全体31位(25pt)
・『もしも素直になれるなら』同様、完成させることを前提として構想した作品。何らかの賞レースに応募する気でいたが、ガッツリしたSFを書き上げる体力は今の自分にはないと思い断念している。名前を非公表にしていたのも、賞投稿を視野に入れていたため。「作者さん知りたかった」と嘆いてくれた方、ごめんなさい。
・近未来の宇宙開発、それも宇宙センターの運用に焦点を置いた作品。「プラネテス」と「宇宙よりも遠い場所」と「母をたずねて三千里」に莫大な影響を受けている。いやに描写が詳細なのは、知り合いに現役の航空管制官がいたおかげ。あとエヴァンゲリオンの発進シーン。
・続きを書いてくれるような篤志家が現れたら設定資料はぜんぶ提供します。