15-1-14『もしも素直になれるなら』
遠い街の中学校に通う十五歳の少女・灯里は、帰宅中の電車で痴漢に襲われたところを、幼馴染の少年・奏に助けられる。三年ぶりに再会した奏は、かつて灯里が初恋を抱いた相手だった。羞恥心と動揺のあまり灯里は奏を突き放してしまうが、なぜか奏はめげずに交流を持とうと何度も近寄ってくる。
どうしてそんなに優しくするの?
私を嫌いにならないの?
積極的な奏の態度に戸惑いながらも、ともに日々を重ねるうちに、いつしか灯里の初恋は穏やかに息を吹き返してゆく。どうか、この切ない片想いに気づいてほしい。胸を痛めるいじらしい願いは、つっけんどんな灯里の人柄にも変化を与え始めて……?
「もしも素直になれるなら、きっと今度は逃げたりしない」
「ちゃんと目を見て伝えるんだ。好きだよって」
灯里の想いは届くのか。
これは、素直になれない少女の織り成す、痛ましいほど拗れた恋の物語。
──ああ、また来た。
スカート越しの不気味な感触に鳥肌が立った。
有象無象の汗の匂いを詰め込んだ、午後六時の常磐線快速取手行き。無数に連なる人垣のどこかで、誰かがベージュのダッフルコートをたくし上げ、スカートの上から太ももをまさぐっている。私は吊革を強く握りしめた。ぐっと喉が鳴った。速度を上げた電車が橋に差し掛かる。モーターの発する甲高い振動が、強張った私の身体を小刻みに突き上げる。『次は北千住、北千住』──。アナウンスの無機質な声に、また喉が鳴る。
直近の半月で十回目か十一回目だ。
手つきと手口からして、たぶん同一人物。
毎日のように電車の時間を変えているのに、偶然じゃ片付けられないほどの精度で私を見つけては、息をひそめて時を待つ。そうして、最後の一区間で手を出してくるのだ。大きな川を挟んで対峙する二つの駅を結ぶ、所要時間三分の直線区間で。
車内放送が乗換路線を案内している。名残を惜しむように痴漢の手つきが激しくなる。薄いプリーツスカートの生地越しに、ゴワゴワした手が内股を撫で回す。声を上げかけて、私は懸命に唇を噛んだ。もうすぐだ、あと少しの我慢だ。駅に着いたらすぐにでも逃げ出してやるんだから。ささやかな決意で気を慰めても、込み上げる不快感は消えてゆかない。だけど抵抗を試みる勇気も気力もない。
気を紛らわせてくれる存在を求めて、左手で必死に英単語帳をめくった。何の変哲もない中学三年生向けの単語帳だけど、いっとき恐怖を忘れるには役に立った。
【I wish I could be honest.】
例文の文字が掠れてぼやける。この構文は多分、習ったばかりの仮定法過去だ。現在の事実に反することを願望の形で述べる反実仮想の表現。つまり例文の意味は『素直になれたらいいのにな』。
揺れる電車の中で私は首を縮めた。私の人生なんて反実仮想だらけだと思った。もしも裕福になれたなら、もしも今より可愛くなれたなら、もしも素直になれたなら──。そしたら痴漢ごときに屈することなく、もっと心豊かに自信満々に、溌溂とした青春を送れたのかな。染み出した後悔で息が苦しくなる。這い回る愛撫が痛みに変わる。こらえきれず喘ぎ声が漏れて、崩れ落ちるように私は吊革へぶら下がった。
もう嫌だ。
もう限界だよ。
痩せた心を映すようにしなびて垂れた黒のポニーテールが、その刹那、後頭部に人の気配を感知した。
どんと体当たりを受けた身体が前へ押し出される。誰かが不意に私と痴漢のあいだへ割って入ってきた。痴漢の手が太ももから剥がれた。荒い息遣いが遠くなった。
「逃げて!」
低いささやき声が耳をくすぐった。男の人の声だ。舌打ちの音も響いた。まさぐる手の消えた太ももに、機械的なドアチャイムと乾いた冬の冷気がまとわる。開いた扉から喧騒が流れ込んでくる。私を乗せた電車は、いつの間にか降車駅へ着いていたのだった。
転げ落ちるように私は電車を降りた。『ご乗車ありがとうございました』──柱の並ぶプラットホームにアナウンスが反響する。乗降客でごった返すホームを見渡しても、私を襲った痴漢の姿は見当たらない。無理もない。私が痴漢の立場ならそのまま電車に乗り続ける。だって乗り続ければおのずと逃げられるんだから。
身体から力が抜けてへたり込みそうになる。太ももには不快感が貼り付いたままで、ぐちゃぐちゃにされた心は血の色に濡れている。
慌ただしい足音が背中を叩いた。
「大丈夫だったですか」
はっと私は顔を上げた。私と痴漢のあいだへ割り込み、脱出を促してくれた人の声だとすぐに気づいた。
お礼を言わなきゃ。
胸の奥に義務感が膨れ上がる。
無理に笑顔を浮かべようにも、表情筋の制御さえおぼつかない。歪んだ顔をマフラーに埋め、喘ぐように深呼吸をして向き直る。わたわたと彼が手を振るのが見えた。
「あの、なんか無理に下ろしちゃってすいません。あのままだとまずいと思ったから、とりあえず痴漢から引き剥がさなきゃって焦って、それで」
「えと、その……いいんです。どうせ私、この駅で降りるつもりだったし……」
滑り出してゆく十五両編成の電車が風を巻き上げる。その一瞬、すん、と鼻先をくすぐった匂いに釣られて、ぎこちなく私は顔を上げた。
懐かしい匂いだった。
よく知っている人のものだ。優しくて、温かな──。
とっさに脳幹が警告を発した時には、彼と目を合わせてしまっていた。嫌な予感は的中した。解きほぐしたばかりの頬が引きつって固まった。ほとんど同時に彼は呼び声を発した。
「もしかして……綾瀬?」
「中……川っ……」
「びっくりした。小学校以来だよね。背格好も変わっちゃってたから気づかなかった」
彼はまん丸の目で後頭部を掻き始めた。
中川奏、十五歳。私と同じ中学三年生。むかし小学校で私のクラスメートだった男子だ。見上げるような背丈は優に一七〇センチを超えている。大人しい口ぶりにも、裏を感じさせない爽やかな口元にも、あのころの面影が色濃く残っている。私は口を閉じることもできない。暖房を浴びて乾燥しきった唇に、細いひび割れが走って痛みを放ち始めた。
どうしよう。
頭、真っ白だ。
顔は真っ赤なのに。
とんだ醜態を晒してしまった。どうか見知らぬ人であってほしかった。昔の知り合い、それもよりにもよって中川の前で──。
「中学受験して湯附に進学したんだったよな。元気してた?」
不器用に中川が問いかける。おずおずとうなずくと、彼は一歩、私に向かって距離を詰めた。かかとにホームの壁が当たった。後ずさる余地はなかった。
「そんなことより大丈夫かよ。ああいうの今日が初めてなの? それとも常習?」
「……常習」
「常習って、それじゃ狙われてるってこと? やばいよ綾瀬。通学経路も変えた方がいいよ。下手したら綾瀬の通学先だって知られてるかもよ」
「……うん」
「うん、じゃないってば。とりあえず駅員さんのところに行こう。痴漢されましたって言おう。車内に監視カメラがついてるはずだし、それ見れば犯人だって……」
「……いいよ。放っといてよっ」
思わず私は叫んでしまった。
叫んでから、言い放った台詞の一字一句を噛みしめて、青ざめながら口元をおおった。
まん丸に見開いた目で中川が私を見ている。ああ、伝わっちゃった。いまさら発したものは取り消せない。どろりと垂れ込めた覚悟に背中を押され、私は無我夢中で首を振り回した。
「私の問題だから私で何とかする。だから忘れて。お願いだからぜんぶ忘れて」
「そんなことできるわけ──」
「忘れてって言ってんの! 分かってよ!」
渾身の力で私は中川を突き飛ばした。よろめいた中川の脇を駆け抜け、脱兎よろしくエスカレーターを目指す。「綾瀬!」──叫ぶ彼の声も気配も、なだれ込んできた雑踏に蹴散らされて消えた。私は死に物狂いでエスカレーターを駆け上がった。広いコンコースに踊り出て自動改札機にICカードを押し付け、よろめきながら壁にもたれかかった。弾けんばかりに高鳴る心臓から、鈍い痛みが胸いっぱいに広がった。
やっちゃった。
底なしの失意で目の奥がツンと凍みる。
最低だ。ろくに感謝も伝えないまま、忘れることだけを一方的に強要して、返事も待たずに逃げてきちゃった。もう二度と顔向けできないよ。ぜんぶぜんぶおしまいだ。
ぐったり閉じたまぶたの奥に、小学校時代の記憶が浮かび上がって水色に霞んだ。
私──綾瀬灯里は、中川奏の同級生だった。クラス替えでも奇跡的に分かれることはなく、六年間ずっと同じクラスであり続けた。でも、その記録は中学進学とともに途切れた。私が中学受験を成功させ、地元の中学校に通わない未来を選んだからだ。いまも私は地元の駅から電車を乗り継いで、片道一時間の遠距離通学を続けている。顔を合わせることのない日々が続くうち、小学校の人間関係は跡形もなく失われた。記憶も刻一刻と薄れていった。それでも中川のことは不思議と思い出せる。親しげに話しかけてくれたこと、何度も勉強を教えたこと、一緒に学芸会の演劇で舞台係をやったこと。卒業式の日、ひとり物陰で泣いていた私を目ざとく見つけて、何も言わずに寄り添ってくれたこと。
私は中川奏が好きだった。
あまりにも淡くて幼い、まぼろしみたいな初恋を引きずったまま、卒業とともに離ればなれになった。
中川にだけは痴漢を受ける姿を見られたくなかった。黙って耐えることしかできない私を見て、あの人がどんな心象を抱いたのか想像もしたくなかった。心優しい中川のことだから、きっと私を憐れんだのだろう。可哀想に思ったからこそ手を差し伸べてくれたのだろう。それもこれも憶測でしかない。だって私は中川の手を払いのけてしまったから。
ああ。
やっぱり私の人生なんて反実仮想だらけだ。
もしも素直になれたなら、中川の手を取って礼を言って、それから真心を込めて伝えたのに。あのころ好きだったんだよ、って。
「どうしよう……」
途方に暮れてうなだれる私の前を、電車を降りた人々の群れが通り過ぎる。私はチェックのマフラーを口元まで引っ張り上げた。いくら深呼吸を試みても動揺が収まらない。灼けるように赤く、熱くなった目頭から、いまにも心が砕けてこぼれ落ちそうだった。
【結果】1位票4、2位票2、3位票5
第一会場10位・全体38位(21pt)
・目下のところ唯一、連載・完結にまで漕ぎつけた作品。というか最初から連載する気満々で書き始め、途中から書き出し祭りへの提出を視野に入れていった。とある方に感想で「書き出し祭りのための作品ではないと思う(意訳)」と言われたが、慧眼です。
・実際の地名や情景をがっつり書き込み、それによる没入感やリアル感を褒めていただいた作品。しかし痴漢のシーンまでもリアルにしてしまったのはやり過ぎだった。多くの賛否をいただいたし、不特定多数の目に(強制的に)つくことの影響をもっと考えるべきだったと思う。ただ、結果的にこの作品を通じてファンになってくれた方もいたりするので、好みって難しい……。
・あらすじから悲劇的な展開を想像された方は意外にも少なかった。しかし実際の連載はメリーバッドエンドを迎えたので、そのへんの不完全さもひっくるめて改善の余地がまだまだあったと思う。