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14-1-07『イノセント・タブー』


 四年前。

 改正刑法に「近親相姦罪」が盛り込まれ、近親相姦は犯罪になった。

 家庭内でのモラル崩壊が進み、親族による性暴力事件が多発していた。人々は生物学的にも心理学的にも問題だらけの近親相姦(インセスト)を嫌悪し、非難し、画一的な厳罰化を求めた。逃れられない血縁の呪縛が、性愛の自由を妨げるものであってはならない──。かくして誕生した新設179条【近親者わいせつ及び近親者性交等罪】は、最高刑を死刑にまで引き上げ、世界的にも類のない重罰規定となった。

 家庭内性暴力は撲滅され、自由な性の時代がもたらされた。

 近親性交に愛など存在しない。インセストは恐怖と支配しか生み出さない。善良な国民の誰もが、そう信じて疑わなかった。


 そして、今。

 同じ母のもとに生まれ落ちた双子の兄妹が、廃屋の一角で手を取り合い、近親愛を否定する世界へのひそかな叛逆を試みようとしていた──。



 



 淡い水音が、湿った部屋の空気に波紋を落とす。

 止まったままの水道じゃない。そうか、今夜は雨予報だったな──。重い身体を持ち上げて窓辺に寄り、伊織(いおり)は外をうかがった。街灯に照らされた夜道は明るい。すすり泣く深夜の時雨に、汗の光る貧相な自分が重なって見えた。


「着ないの、服」


 カーテンを閉め切って、ベッドを仰ぎ見た。しわだらけのベッドには少女が力なく横たわっていた。あられもなくさらけ出された丸っこい身体の輪郭が、LEDランタンのおぼろげな光で縁取られている。「よく言うよ」と彼女は唇を尖らせた。


「伊織だってパンツ穿いただけじゃん」

「おれはいいよ。身体も丈夫だし。いつまでもそんな格好してたら風邪ひくよ」

「こんな時だけ兄貴ヅラする……」

「仕方ないだろ。一応は兄なんだから」


 口論しても無駄だと諦めたのだろう。彼女──愛理(あいり)は上体を起こして、脱ぎ散らかされていたジャケットを肩に羽織った。なんとなく、愛理に突っ込みの余地を与えたくなくて、伊織もTシャツを頭からかぶってやった。無言の着替え時間は一分も続いた。窓の向こうの時雨は鳴りを潜め、薄暗い寝室には静寂が忍び足で戻ってきた。

 兄貴ヅラしたいだなんて思わない。そんな資格があるとも思わない。一足先に娑婆(しゃば)の空気を吸ったから便宜上は兄という扱いになっているだけで、伊織も、ベッドの中の少女も、もとは一つの子宮で同時に育った双子。二卵性双生児というやつだ。おかげで双子のわりに顔立ちは似ていないと言われる。

 むしろ、愛理がおれに似なくてよかった。

 せっかくの可愛さが台無しになるもんな。

 まともに外出できる程度の服装を整えたところで、伊織は横目で妹を覗き見た。愛理は背を向け、デニムのショートパンツを腰まで引っ張り上げていた。よれた黒髪が傷んでいる。勝手に櫛を入れて伸ばしたら、可憐な妹は怒るだろうか。


「今日、お父さんは?」


 ホックを留めながら愛理が問う。


「朝から見てない。どうせ愛人でも囲いに行ってるんじゃない。重婚的内縁がどうのこうのとか言ってさ」


 伊織はベッドに腰を下ろした。使い古された木製のベッドが弱々しく軋む。ようやく着替えを終えた愛理がベッドの上を歩いてきて、伊織の隣へ舞い降りるように座り込んだ。


「いいよね、伊織のとこは。抜け出すのに何の苦労も要らないじゃん」

「息子に興味なんてないんだよ。愛理だって知ってるだろ」

「束縛されるよりずっとマシでしょ。お母さん、最近あたしのこと日増しに信用しなくなってきてる。今日なんか家を出るためにどれだけ『友達の家に遊びに行って来るだけ』って言い訳し続けたか……」

「母さんの嗅覚もバカにできないな」

「ほんとだよね」


 はたと嘆息した愛理が髪を掻き上げる。

 傷んだ髪の隙間に、艶めかしい色のうなじが見え隠れする。愛理のうなじの味を知っているのは、たぶん、この地球上で伊織ひとりだ。知っているのはうなじの味だけじゃない。汗に濡れた彼女の身体に、味わい残した場所などひとつもない。叫んで、喘いで、痛みに泣くほど互いの温もりを貪っても、まだ心の渇きは満たされない。許されるのならば永遠に溺れていたい。けれどもそれは許されないから、伊織も、愛理も、こうして服をまとって、平気な顔で互いの居場所へ戻るのだ。

 身体の味を覚えたのは十五歳のときだった。両親の離婚で親権を分割され、離ればなれになって三年が経とうとしていた。数年ぶりに再会した愛理は可憐な少女に化けていた。都合のいい廃屋を見つけ、両親の目をかいくぐって逢瀬を重ねるうちに、自然と身体の距離が縮んでいった。愛理も伊織の成長を気に入っていた。もっと触れていたい、ここにいさせてよ──。肌を潤ませながら抱き着いてくる妹の熱さに、幼い伊織は耐えられなかった。


「なぁ、愛理」


 汗ばんだ妹の腕を伊織は取った。優しい手つきを心掛けたつもりだったが、愛理は少し、肩を強張らせた。


「何」

「また腕、切ったんだろ。前より傷が増えてる」


 愛理は分かりやすくそっぽを向いた。顔色を隠したまま、あは、と彼女は声を上ずらせた。


「ちょっと料理でミスっちゃって。包丁の傷。ほら、あたし料理下手だから」

「下手なのは料理じゃなくて言い訳だろ。ちゃんと見せなよ。ずっと気になってたんだ」

「なにそれ。傷のことなんか気にしながらヤってたの?」

「気になるんだっての! 当たり前だろ、大事な妹の身体なんだから」

「……あたしなんか」


 急に愛理は言い淀んだ。


「大事じゃないよ。親の期待にも応えられない、友達も恋人もいないダメ人間だよ。だから血管の二本や三本、切っちゃったって誰も咎めないよ。うるさいのは伊織くらいだよ」


 締め切ったカーテンの隙間からは月明かりも差し込まない。LEDランタンの冷たい光を浴びて、愛理は静かに、痛ましく笑っていた。「やっぱり何か言われたんだな」と伊織は声を張った。


「どうせ母さんだろ。ヒステリックになると手が付けられなくなって、子ども相手に使わないような文句でおれたちのこと……」

「だったら伊織のこれは何なの」


 愛理は伊織の前髪を鷲掴みにして持ち上げた。光源の乏しい寝室の一角で、愛理の網膜に何が映ったのかは分からない。伊織の認識が正しければ、そこには数日前、父親に殴り飛ばされて描かれた大きな青あざが浮かんでいるはずだった。


「あたしのこと言えた義理じゃないじゃん。伊織だって何か、痛い目に遭わされてここに来たんでしょ。嘘だなんて言わせないよ。伊織のこと、伊織自身以外でいちばん知ってるのは、あたしなんだよ」


 いくら声のトーンを上げてみたところで、お互い、みずからの事情を話す気がないのは明白だった。話されずとも互いの境遇には想像が及んだ。伊織の父は仕事で鬱憤を抱えるたび、息子をサンドバッグにして八つ当たりする人だ。愛理の母は精神的に不安定で、しょっちゅうヒステリーを起こしては娘を攻撃する人だった。数年ごときで治せる癖じゃない。バカは死ななきゃ治らない。

 伊織が何も言わないので、すごすごと愛理も元の位置に収まった。

 二度目の通り雨が窓の外を濡らしている。鬱蒼とした部屋の沈黙がかえって際立つ。膝を抱えた愛理は口を埋め、目を伏せた。


「……いつまでこんなことを繰り返し続けるんだろうね、あたしたち」

「会うの、やめたいのかよ」

「そっちじゃないよ。むしろそっちはやめないでよ。こうやって伊織と過ごす時間がなかったら、あたし、とっくの昔に──」


 まろび出しかけた言葉が途中で千切れた。

 伊織は窓を見た。月明かりさえも断絶してきた頑丈な遮光カーテンを、赤い閃光の点滅が断続的に照らし出している。

 息を呑む音があたりに響き渡ったかと思った。

 見間違えるはずもない。警光灯(パトランプ)だ。


「警察……!」


 愛理が引きつった声で叫んだ。緊迫のあまり伊織は声も出せなかった。窓の外のパトカーは動く気配がない。頼むから、ただの警邏活動であってくれ。もしくは道行く人に職務質問をかけているのであってくれ。祈ることしかできずに凍りついている伊織の体躯を、愛理の手が後ろから抱き締めて引き倒した。ぐるんと回った視界が天井を映して、息が詰まった。


「助けて」


 愛理は震えていた。


「助けてよ伊織っ……あたしまだ捕まりたくないよ、死刑台行きなんて嫌だよぉ……っ」


 伊織は無我夢中で愛理を抱きしめ返した。胸に埋もれた愛理は、口をふさがれてようやく沈黙した。こうするより他に手段が思いつかなかった。震えの止まらない頭を撫でて、傷んだ髪を無理やり押し付けて、温もりを吹き込むように言霊を吐き出した。


「大丈夫」


 いまにも泣きそうなのは伊織も同じだった。涙を噛み砕いた口で、闇雲に「大丈夫」と繰り返した。


「ぜったい大丈夫だからっ」


 じきに赤色灯の遠吠えは消えていった。顔を上げて安全確認を済ませ、上体を起こそうとすると、またも愛理の手が伊織を引き留めた。「行かないで」と腕の中で愛理は喘いだ。汗だくの肌をすり合わせながら聞いた喘ぎ声よりも、その声色は切実な苦しみに満ちていた。


「ねぇ、伊織。どうしてあたしたち、こんなに苦しまなきゃいけないんだろうね。人並みに誰かを愛して、人並みに生きていたいだけなのに、どうしてこんなに傷つかなきゃいけないんだろうね」

「そんなの……おれだって知りたいよ」

「あたしたち、もうダメなのかな。大人しく警察に捕まるか、死ぬより他に道は残ってないのかな。そうだよね。当たり前だよね。許されないって知っていたのに続けてきたのは、あたしたちの方なんだもんね……」


 伊織は腕に力を込めた。


「死なない」


 腕の中で愛理が鼻をすすった。歯を食い縛って動悸に耐えながら、伊織は叫んだ。


「ぜったい死なない。死んじゃダメだ。決めたじゃないか。生きて生きて生き延びて、おれたちの無実を証明してやるって。おれたちの関係を否定する法律なんか、世論なんか、跡形もなく壊してやるんだって」

「でもっ……」

「約束だよ。絶対やり遂げてみせる。だから、頼むから死にたいなんて言うなよ。諦めるなよ。おれだって愛理と一緒にこうしていたいんだよ……」


 愛理の道理は言葉にならなかった。いまにも凍てつきそうな彼女の細い呼気が、不安を食んで大きくなった覚悟の輪郭をあらわにする。伊織は腕に力を込めた。骨ばった頼りない二本の腕で、世界でいちばん愛しい人の背中を守りたかった。

 夜の冷気が廃屋に滲みる。

 三度目の時雨が、ふたりの息吹を覆い隠すように響き始めた。






【結果】1位票3、2位票3、3位票1

    第一会場9位・全体27位(16pt)


・記念すべき初参加作品。初っ端から近親相姦というギリギリアウトな題材を選んでしまい、かなり読者を選んだ。しかし次回参加作でこれ以上の爆弾を放り込むことになると、当時は知らないのであった。

・史実における2017年の刑法改正を題材にしつつ、極力法律的な話には踏み込まない物語構成とした結果、ただ主人公カップルがいちゃつくだけのシーンになった。これはこれで美しい一場面と思う反面、書き出しとしては引きが弱い。あらすじもただの背景説明と割り切っているので、やっぱり導入力は弱め。

・タイトルはただのダジャレ(「インセスト・タブー」=近親相姦の禁忌)




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