第29話 ゴールデン・ハインド
「超機動伝説ダイナギガ」が今年(2023年)なんと25周年とのこと。四半世紀です。時の流れの恐るべき速さに呆然としてしまいます。そんなわけで、当時色々と書き溜めていたプロットや設定を元に、小説化してみようと思い立ちました。四半世紀前にこんなものがあった、そんな記録になれば良いなあなどと考えています。とりあえずのんびり書き進めますので、よろしかったらのんびりお付き合いくださるとありがたいです。更新情報は旧TwitterのXで。Xアカウントは「@dinagiga」です。
少女は心を閉ざしていた。少し肩にかかる薄紫色の髪が美しい。
彼女がいる部屋はとても殺風景だった。真っ白な壁、真っ白な机と椅子、そして真っ白なベッド。机の上に置かれたティーカップとポットも真っ白だ。カップに注がれた紅茶はもう冷めてしまったのか、湯気の気配すら感じられない。唯一鮮やかな色が存在するのは、床に落ちて開いている絵本だけだ。その中では、ピクニックを楽しんでいる家族の明るい笑顔が輝いていた。
マリエ・フランデレン、7歳。数奇な運命をたどったフランデレン地方の名をファミリーネームに持つ彼女は、日本人の母とベルギー人の父を持つハーフである。
フランデレンとは、ベルギーの西北部とオランダの南西部、そしてフランスの北東部にまたがる広い地域の名前である。古くから羊毛の毛織物で有名だったが、大航海時代の商業革命でヨーロッパ経済が海運貿易中心になると、大西洋岸の貿易港がある地域として大いに栄える。だが、その後に起こるイギリスとフランスの抗争に巻き込まれ、波乱の歴史をたどることになった。
フランス王の重税に反発した市民の反乱。他国の王位継承や領有権の対立から始まった百年戦争。その後、オランダの独立に加わらなかったフランデレン地方は、ハプスブルク帝国領となり、スペイン領となり、そして再びオーストリアのハプスブルク家の領地になる。ナポレオン時代にはフランスに編入されたこともあった。その後もウィーン会議でオランダに併合されるなど、目まぐるしく動く歴史の渦に翻弄されてきた地域なのだ。
そんなフランデレンの町、アントワープでマリエは生を受けた。ベルギーでは首都ブリュッセルに次いで2番目に大きな町である。ベルギーではあるが、彼女の生まれ育った地域はオランダ語圏であった。
日本人にとっても、アントワープは馴染み深い町だ。名作「フランダースの犬」の舞台なのだ。フランデレンを英語読みするとフランダースなのである。
マリエはいつも悲しげな目をしていた。一体何を見つめているのか、その瞳はまるで焦点を結んでいないようにぼんやりとしている。冷たい無表情の仮面が、いつもマリエの顔を包んでいた。この部屋がある研究棟の職員たちも皆、彼女には感情が無いのだと決めつけていた。だがそうではなかった。彼女は自分の心を、記憶を、その悲しげな瞳で、いつも見つめ続けていたのだ。
マリエの父はアントワープ出身のベルギー人だった。だがオランダ語が話せたこともあり、オランダ宇宙研究所で宇宙物理学を研究していた。母は父と同じ研究所で、宇宙飛行士の健康管理や医学運用を行うフライトサージャンを努めていた。
しかし、ずっと平和に暮らしていた家族に、激動の運命が訪れる。
マリエが4歳になりたての頃、家族は長い旅に出ることになった。ヨーロッパ各国が共同で運営している欧州宇宙機関の調査宇宙船、ゴールデン・ハインド号で土星の衛星タイタンの調査に向かったのだ。
ゴールデン・ハインドは、16世紀半ばにイギリスで建造されたガレオン船で、大航海時代にフランシス・ドレイクが、これに乗って世界一周を達成した。欧州宇宙機関が誇る最大の調査宇宙船にふさわしい名前と言えるだろう。
調査先のタイタンは、昔から人類移住先の第一候補にあげられてきた星だ。純メタンの巨大な湖が広がっていて、エネルギーの補充に心配が無い。気圧も地球の1.4倍程度のため、宇宙服などの耐圧スーツの必要が無い。分厚い大気が放射線も防いでくれている。もちろん呼吸はできないので、酸素マスクは必要だが。
今回の調査は、以前から言われている水の存在を証明する旅であった。
こんな純粋に科学調査の任務に、どうしてマリエが一緒だったのか?
二十一世紀半ばの革命的な宇宙船技術の発展で、星への旅はとんでもなく気楽で安全なものになっていた。宇宙船のスピードもどんどん速くなり、二十一世紀初頭では十年以上かかっていたタイタンまでの道のりを、今では約一年でたどり着いてしまう。とは言っても、往復二年以上の旅である。ほとんどのクルーは家族同伴なのだ。
宇宙へ出て半年が過ぎようとしていたあの日、それは突然発生した。
マリエはあの日のことをけして忘れない。いや、忘れられないと言ったほうが正確だろう。マリエは日本で言えば幼稚園の年中さん、まだ4歳だった。そんな幼い少女の記憶に、深く暗く刻まれたこと。
マリエの父が、宇宙病に感染したのである。




