走れ 矢のごとく
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふーん、世の中ことわざは数あれど、使われる漢字は結構差があるんだね。 いま調べているのは「陰」を使った言葉なんだけど、だいたい「寄らば大樹の陰」か「光陰矢のごとし」くらいしか、なかなか出てこなくって。この二つがあまりによく使われて、目立つからかもしれないけど。
特に後者は、日ごろから肝に銘じておきたい言葉だよね。
実際、一日24時間は誰にだって平等に与えられているのに、それが過ぎるのを早く感じたり、遅く感じたりは人によって違う。
そして振り返るときはいつもダイジェストで、「ああ、こんなにも短いものだったのか」と、いかにも惜しく思ってしまうもの。
光陰の字は、それぞれ日と月。ダイレクトに月日のことを表し、それが矢にそっくりだと、ことわざは伝えている。
矢は放たれれば飛ぶ。戻らずに飛ぶ。
弓の強さにもよるけれど、その速さはプロ野球選手の投げる球を上回るのだから、昔に人にとってはあっという間だったろう。
そして、いつかは止まるか地に落ちるんだ。それもまた生きていくうえで体験する、いかなるできごととも同じ。
僕が昔に体験したことなんだけど、聞いてみないかい?
当時の僕にとって、持久走ほど嫌なものはなかった。
ゴールテープはあれども、それははるか遠く。まっすぐな道なら見えないほどのかなただし、トラックを回るならラスト一週まで姿を見せやしない。
終わりが目に見えない。これが僕には、何より嫌いだったんだ。「ラスト○○」の言葉ひとつで、僕は万倍救われる。
そして、持久走が嫌いな理由はもうひとつ。
「おら、ペースが落ちてるぞ! 根性、根性! 矢のごとく、矢のごとく!」
最後尾から追っかけてくる、体育教師の存在だ。
竹刀を担いで追いかけてくるその教師は、あまりに遅れると手にした竹刀を、ぐっと生徒の背中へ当ててくる。
胴を打つかのような横倒しの竹刀。走りながらそいつを生徒にぐいぐいと押し付けて、前へ前へと走らせていく。
痛ささえ感じる力強さで、被害に遭いがちな生徒にとっては不満の的。それを聞きつけたトップ層が「ザコなのが悪い」と挑発して、ケンカになることもまれにあった。
嫌ではあってもドンケツレベルではない僕は、さほど竹刀のお世話になることはない。それでも教師の求める基準は、日によって違うようだった。
最初の一人以外も被害に遭う。誰かを追い越せば、教師がつくのは新しいドンケツとなる子。その子をやはり竹刀で前へ前へ押し上げていく。車のワイパーがどんどん雨水をのけていくかのようだ。
同じように僕もどんどん前へ走らされて、おもしろくない。ついに授業後に、この動物のごとき扱いについて、教師へ談判しようとしたんだ。
すると、その場で話はしてくれない。代わりに放課後、生徒指導室へ来るように言われ、つい背筋をピンと伸ばしてしまったよ。
単なる教師の趣味ではないようだった。
「『走り火』という存在をしっているか?」
教師の第一声はそれだった。
走り火はこの地域での、火の玉や霊魂といった不可解な存在の総称らしい。
往々にして生気をすするとされる彼らの話は、間違いではない。動かずにいる動物にはより強くとりつき、その活力をいただいて健康を壊し、寿命をむしばむ。
命の営みあるところ、常に現れる恐れのある彼らの対処に、最も適しているのが運動なのだとか。
身体を動かして排出される汗をはじめとする老廃物は、走り火たちにとっての好餌。疲れれば疲れるほど、効果的に出されるそれらは走り火たちの腹を膨れさせ、遠ざける。ことによっては、その走り火の活動そのものを終わらせる。
ゆえに遅れがちな子たちにこそ辛く感じるとはいえ、限界を越える勢いで臨ませた方がいいのだと。
「そのために走り火とは関係ないところで体調を崩し、教師のせいにされることもしばしばなんだけどな。悲しき性よ」
「そのこと、先生たちが大々的にいえば誤解もなくなりそうなのに……」
「こういうこと、大っぴらに話しても喜ぶのは一部の連中だけ。下手すれば頭がどうかしたと思われて、仕事を追われかねん。それが社会よ。
お前も本気で取り合おうとするのはおススメせんぞ。とはいえ、怪談話のひとつ程度におさまるだろうけどな」
その走り火らしきものについて、僕が目にしたのは一カ月後。持久走の単元が終わらんとしている時期だった。
先の走り火のこともあり、僕は当初の予定通り、限界を越える勢いで走り終えるべく、自分なりの練習はしたつもりだった。
そのような意識がかえって奴らをひきつけたのかもしれない。男子が横一線になってスタートする直前、僕は曇り空とかなたの地平線の境目あたりに、奇妙な青白い空間ができているのに気づいたんだ。
漫画で描かれる、水滴の形によく似ていた。そしてそれが、雲からのぞいた青空でないことはすぐ分かった。
走り始めたトラックの最初のコーナー。曲がり、変わる景色の中を、その青白く浮かぶしずくは、残像のようにこびりつきながらついてきた。
トラックの内側を走る先生が、ちょうど横にいる。ちらりと目線を送ると、だまってあごをしゃくってきた。
――こいつが、走り火か。
先生はそのまま減速。いつものように最後尾へつこうとする。
僕はといえば、当初の予定通り加速に加速。先頭集団へ引っ付いていった。
――「疲れ」が欲しいんだろ? だったらたらふく食わせてやる……!
学校のトラックは1周200メートル。それを2周回れば400メートルで、陸上的にも短距離の終わりだ。
以前ならすでに、バテバテにバテているところだったろうけど、まだ余力はある。
「ほらー、走れ走れ! 矢のごとく、矢のごとく!」
先生は周回遅れになりそうな子の背中を、ずんずん押していく。たとえわき腹を押さえ、痛がる素振りを見せる子であってもだ。
走り火は当初より、明らかに図体を大きくしている。みんなの疲れを食べて、身が肥えてきたということか。
しかしその急激な膨れようは、健やかなものとは思えない。
――走り火の活動そのものを終わらせる。
先生の言葉の意味が、おぼろげながら理解できた。
自分たち生徒の走りは、いわば走り火たちにとっての「光陰」だ。たちまちに過ぎ行く月日を課せて、ここで「けり」をつけてやる腹積もりなんだ。
授業以降にこいつらが害をもたらさないように。
「走れ走れ! 矢のごとく、矢のごとく!」
僕が先頭集団と共にゴールし、クールダウンに歩いている間も、先生は変わらず生徒たちの背中を押し続けている。
表示されているタイムからして、全体を6分台におさめようというペースだった。
そうして皆がゴールし、なかば死んだように息を切らしているみんながいるかたわらで、走り火はもう顔面ほどの大きさに育っていた。
その表面がかげろうのように揺らめいたかと思うと、溶けるように薄まって消えていってしまったんだ。
以降、走り火を見ることはないけれど、最近は運動不足気味だしね。
ちょっと体調不良の気があると、どこかで走り火に栄養をやっているんじゃないかと、頭をよぎることがあるんだ。