隣の月は青い
柊木真央と初めて会ったのは、ずいぶん夜が更けた、真夜中でのことだった。
その晩、僕はなかなか上手く眠りにつけなかった。羊を百匹数えても、眠れる森のBGMを流しても、意識がそこに掠われるということがなかった。羊の牧場にも、樹木の木漏れ日の中にも、迷い込むことが出来ないでいたのだ。
それならばと、上下無地のスウェットの上にクルーネックの紺色のセーターを被って、そのまま家を出てしまうことにした。
そうして外にかけてみると、秋の夜は想像よりうんと寂しく、沈黙はずっと煩わしかった。
夏の夜によく鳴いていた、あの蝉のコーラスがとても懐かしく振り返られた。僕は辺りを見
渡し、夏から秋への移ろいにしばらくじっと身を潜めた。
それから、秋の夜を見つめた。
両側に建ち上がっているアシンメトリーの建物や、長方形の空の真ん中に浮かぶ月の円や、夜の街に差し込んでくる月光云々。そういうものばかりに目が向いた。自分の瞳の奥に月明かりのような輝度はとうに無くなっていて、高く昇った秋の空を見ていると、それがひどく悲しいことであるように思えた。そして事実、それは悲しい出来事であるはずなのだ。
等間隔に並んだ街路灯の光に沿って、当て所なく歩を運んでいると、鄙びた商店街の先を抜け青梅街道を西に出ていた。
平坦な坂道を上りきると、人気のない通りに古びたバス停が影を落としていた。
何の気なく通り過ぎていくと、地平に降りている影が一つふわりと揺れた。バス停の一角に人が座り込んでいるらしかった。
そのまま通り過ぎていいものを、僕の足はふと魔法にでもかかったようにして立ち止まった。気づいた時には、僕は彼女のことを見つめていた。寂れたバス停で青色のベンチに背中をあずける彼女のことを。
一度彼女のことを想うと、二度と後には引けなくなった。秋の夜の魔法の太刀の悪いところは、それがまるで自分の意志だと思わせてくるところにあった。
『うん、君は今とても強い興味を彼女に持っている。今すぐアプローチをかけなければ、君は後に強い悔恨を残すことになるだろう』
秋の魔法はとても雄弁で洗脳上手だ。今頃になってようやく、それが秋の魔法だったと僕は知ったのだから。
彼女は白い七分袖のワンピースを喪服のように身に付け、二つの足を地面から少し浮かしたところに並べていた。靴はなんだ? サンダルに見えた。
首は上から吊り糸が垂らされているかのようにぴんと動かず、耳は葉上で眠るカタツムリのように丸まったまま息を潜めている。
風が吹いて髪が靡いても、彼女のあらゆるものは静止している。要するに、彼女は座りながらにして死に絶えている。
肩口まで降りた黒髪とワンピースの白地には些細なコントラストが映り、それだけが彼女の持ち合わせる色彩の調子だった。
古く錆びれた時刻表の硝子はひび割れ、機能していない丸時計の下には枯木の落ち葉が見捨てられていた。
そんな微妙な終末の光景に、彼女の退廃的な姿はとてもよく親和した。芸術絵画の一作品のようだった。
『dead or alive』きっとそんな題名だろう。