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カンパニュラにはルールがある

作者: 宮本えいだい

(ひかり)が入ったのは、変哲の無い店だった。


ただ、平日の昼間だというのにテーブル席は満席だ。

瑛は店のドアを入ったところから店内を見渡して、カウンターの椅子に着く前にもう一度テーブル席に目をやった。


「いらっしゃいませ」瑛が、脚の長い椅子の背もたれに尻を押し込んでいると、グラスコップと冷えたお絞りが目の前に置かれた。


らくだ色のベストに清潔感のある白いシャツ。蝶ネクタイを締めた白髪の男性は、目を合わせると頷く程度にお辞儀をしてカウンターの奥へと背を向けた。


お絞りで首筋を拭っていると、黒い板紙(いたがみ)を表紙にしたメニューブックが音も無くグラスの右手に置かれた。


「お決まりになりましら…」と、6:4に分けた白髪を揺らして男はまた背を向ける。


流すようにメニューを見た後、瑛はアイスコーヒーを注文した。

アイスのメニューは豆の名前で細かく分かれていたが、それほどに(こだわ)りのないこの男は、ただアイスコーヒーとだけ伝えた。

むしろ最初からアイスコーヒーを注文する気でもいた。


雑誌は店の入り口に近いレジカウンターの隣にあって、『折角座ったばかりだから』と、床から少し踵を浮かせる足にその間々でいるよう促された。


それにしてもまだ6月。梅雨も始まったばかりだと言うのに殺人的な暑さだ。

瑛はカッターシャツと肌シャツを一緒に摘まんで、はたはたと扇いだ。

今日の営業は全く手応えがない。この暑さでクライアントもダレていやがるんだ。


今度はお絞りで鼻の頭を拭った。


瑛は漸く店内にスローテンポのピアノのBGMが流れているのに気がついた。歌詞は付いていない。

そう言えば、この店では話し声がしなかった。


もちろん、こういうレトロな雰囲気の店でわいわいと話しをするのはナンセンスだろうが…瑛はもう一度テーブル席を見回した。


テーブルのお客は1人で座っている者しか居なかった。

なるほど、会話が起こる予知がない。


5つ置かれているテーブルには女性が3人。男性が2人座っていた。


カーディガンの若い女性

白いブラウスに眼鏡をかけた女性

セーラー服の女の子

小太りのサラリーマン

ロマンスグレーの総髪の老人


瑛は腕時計に目をやった。

14時06分…平日のこの時間に、ごゆるりと喫茶店で時間を過ごす。皆さまのご身分が羨ましいですわ。はっはっ。


瑛は腹の中で嫌味を言った。


やって来たアイスコーヒーに、白い小さな陶器に入ったフレッシュを注ごうとしたところで瑛は慌てた。


先ほど目をやっていた、小太りのサラリーマンが席を立って店を出ていったからだ。


支払いをするだろう…それとも先にお勘定をしていたのか。

カウンターの奥にいるマスターに目をやると、何かの仕込みをしている様子だった。


「ちょっと、ちょっと!」瑛はなるべくフロアには聞こえないよう小声で、白髪の彼を読んだ。

瑛の様子に早歩きてやって来たマスターへ、カウンターを挟んで耳打ちするように瑛は言った。


それを聞いた白髪の男は目を丸くしてテーブルに目を向けたが「あぁ、あの席の男性の方だったら良いんですよ」と、瑛に微笑んで見せた。


「そう。なら、良かった」瑛はアイスコーヒーに刺さったストローに口を付けた。


コーヒーが1/3くらいになった頃、瑛は胸の辺りにどうにも引っ掛かっているものがあることに気がついた。

先ほどのサラリーマンとマスターの言った言葉だ。


『…だったら良いんですよ』とはどう言うことだろう。

支払いを済ませていたなら、

『お代はいただきました』とか『先に(勘定を)いただいています』とマスターは言うだろう。


それを、『…だったら、支払いをしてもらわなくて良いんですよ』と言ったような口ぶりだった。

畳んだお絞りに挟んでいた、最初に一口だけ口を付けたストローを元の袋に戻しながら瑛は首を傾げた。


「お客様…」気がつくとマスターが目の前に立っていた。瑛は眉を上げて顔を向ける。


「宜しければテーブル席をお使いになりませんか?」


「いやぁ、結構ですよ。もぅそろそろ行きますし」


「ぅん…そうですか…」チラリとマスターがテーブル席のお客に視線を向けたのを、瑛は見逃さなかった。


カウンターの奥に背を向けて行くのを確認した後、瑛は先のほどの視線の先を辿(たど)っていた。


その先で、セーラー服の女の子と視線がぶつかったことに瑛は少し戸惑った。

営業の仕事をしている瑛は"そう言った"、人に対して察することに長けていた。


それからするに、少女の今の視線は『そこをどいて欲しい』と言わんばかりのものだった。


いやいや、テーブルに座りたかったのはこっちの方で、彼女は俺よりも先に入店していた。何より、カウンターの椅子は1つだけではない。


瑛は(ぬる)くなったお絞りで顎の辺りを拭う。

横目に見たセーラー服の少女とまた眼が合った気がした。


「今日はお仕事ですか?」マスターだった。


「ええ、まぁ、外回りをしていて…」


「そうですか。どうしてウチに?」


「え…どうして?」世間話にしても変なことを聞くな…。瑛は拭いたばかりの顎の先を擦りながら、休憩に冷たいものでも飲もうとしていたことを話した。


「ウチは見つけ難かったでしょう?」


白髪の男の言葉に、瑛は眉根を寄せた。

言われてみればここは、細い路地を入って途中の角を曲がったところにあった。

大きな通りにはこれと言って案内看板は出ていなかった。


だが何のことも無く店に入った。

昼飯を済ませて立て続けに2件、営業先に軽くあしらわれ、帰り際には嫌味を言われて、仕切り直しに一息つくことにしていた。


「初めていらして下さいましたね」


「ええ、まぁ…」瑛はポカンとしていた。


「お客様、もし、宜しければあちらのテーブルに席を移していただけませんか?」


「えぇっ…」瑛は承知ができない旨の文句を言おうとして、吸った空気と一緒にそれを呑み込んだ。


先ほどのセーラー服の少女が側に立っていて、『早く変わってくれ』と言う態度でこちらを睨んでいたからだ。


「マスター、これは…」


無意識に大きくなった瑛の声を、男の口元で立てた人差し指が抑えていた。


「こちらの店は少し変わったルールがございます。後ほどご説明しますので、お急ぎでなければテーブル席に。

発たれるようであれば、今日のところはお代はいただきませんから、またお店においでください」


さすがに意味が分からない。ルール?今の状況はまるで、初心者である俺がルールを犯していると言うやりようだ。


瑛は大きく息を吸って、営業で培ったトーク術を披露してやろうとして(とど)まった。

テーブル席に座っているお客全員が、傍らの少女と同じ視線で自分を見ていたからだ。


「分かりました。出ます。お代も払います」その言葉を聞いて、そそくさとカウンターの奥に向かったマスターが手書きの伝票を瑛に手渡した。


800円!?高いな…。

そう思いながら瑛は財布から1000円札を出す。


入り口のレジに向かうマスターを追いかけるように瑛が席を立った。瑛は少女やテーブルのお客と目を合わせないように、レジの一点だけを見つめていた。


「ありがとうございます。今日は店の名前だけ覚えていただいて、またお越しくださいませ」


瑛の掌に硬貨が2枚と、レシートが乗せられた。


アイスコーヒー・・・800円

と打ち出された紙の上の所には『純喫茶カンパニュラ』と書かれていた。


瑛はそれをクシャリと丸めて、鞄の前ポケットに放り込んだ。

店を出た瑛をむわりとする空気と、舌打ちしたくなるほどの青く抜ける空が待っていた。

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