海のない大地の上
何も知らないでいる方が、幸せなのでしょうか。
*砂漠の塔と少年*
白い砂漠がありました。
空は雲一つない青空。熱くて、眩しい光を砂漠の白い砂は反射していました。
遠くの方に、蜃気楼の城が見えます。絶対にたどり着けない城です。
少年は歩いていました。少年は黒い髪に、大きなツノを生やしています。
少年に目的はありません。ただ、歩いているだけです。
砂漠の白い砂は熱を持っています。少年は裸足でしたが、丈夫な身体を持っていたので熱さなんて感じていませんでした。
昼は灼熱の大地、夜は極寒の地。草も生えないこの世界で生きていくのは簡単な事ではありません。
この世界の住人は、魔法の水晶を食べて生きています。砂漠に生えてくる、貴重な食料です。
しかし少年は、その食料すら持たず歩いていました。
辛そうな顔もしておらず、空を見上げて嬉しそうに歩いていました。
雲もなく、何の変化もない青い空。
それは少年がずっと望んでいたものでした。ずっと、閉じ込められていた少年が望んでいたものでした。
少年が歩き始めて随分と経ちます。誰とも出会いませんでした。
目の前に、貝殻のような螺旋の塔が現れました。白く、ピカピカとしています。
初めて見る塔に、少年は近くまで歩いて行きました。
入り口は何処にもありません。
もしかしたら、これは塔ではないのかもしれない。少年がそう思った時、上から本が降ってきました。分厚くて、青い本でした。
手に取ってみると、随分と重い本です。うっすらと発光しているように見えました。
上を見上げると、少女が此方を見下ろしていました。少女は少年と目が合うと、少し驚いた顔をしました。
「この本は君の?」
少年が尋ねると、
「うん、そうだよ。大切なものなの」
と少女は言いました。
「なら返した方が良いね。投げるよ」
「えっ。ま、待って。投げるの?」
少年が言うと、少女は焦った顔をしました。
「うん。何で?」
「何でって......」
少女が顔を出している窓は、とても高い所にありました。
少年の細腕で投げても、とても届くとは思えない、そう少女は思ったのかもしれません。
「大丈夫だよ」
少年は笑って言いました。
「ちゃんと取ってね。せーのっ」
「わわっ」
ブンッと少年は本を投げました。
高く飛んだ本は少女の頭上よりはるか上まで飛びました。
少女は、降ってくる本を受け止めようとします。しかし取り落とし、本は砂漠に深々と突き刺さりました。
*塔の少女*
少女は塔の中にいました。物心ついた時からずっと。
塔の中にあるのは、知識と願いだけ。
少女は生まれてから現実で自分以外の生きている者を見たことがありませんでした。
本の中には沢山の生物が出てきます。いつか青い空を飛ぶ鳥、大地を駆ける獣、それから話の出来る誰か……そんな誰かに会いたいと願っていました。
少女はそっと、青い本の表紙を撫でました。
外から砂を蹴る小さな音が聞こえてきます。
少女はこの塔で、唯一外に通じる窓の方を見ました。
窓から下を見ると、ツノを生やした少年が歩いていました。
その少年は、塔の近くで立ち止まりました。
少年は命の輝きに満ちていました。
自分が生きているのか、死んでいるのかさえ分からなかった少女には、その少年は輝いて見えました。
少女はその輝きに見惚れました。
彼も、塔を見ています。塔を見ている少年の目と、彼を見ている少女の目は合いません。
少女が少年の目を見ると、目に綺麗な光が見えました。太陽の光とは違う、柔らかな光。そして希望に満ちた光。
もっとよく見たい。
少女は窓から身を乗り出しました。しかし少女は、本を持っていた事を忘れていました。手を離して、本を落としてしまったのです。
少年は、また落ちてきて突き刺さった本を手に取りました。
ついた砂を払ってやります。
「この本、どんな内容なの?」
ふと、少年は、気になった事を少女に尋ねます。
「世界の事が書いてあるんだよ。......読んでみる?」
「うーん、でも僕、字が読めないんだ」
少年は残念そうな顔をしながら言いました。
「......そっか。なら、私が読んであげるよ」
「えっ?」
少年は驚いた顔で少女を見上げます。
少女は、少年に笑顔を向けていました。
「私、本の内容、全部覚えてるの。お気に入りの本だったから」
「それなら、お願いするよ」
少年は、その場に座り込み、少女の話に耳を傾けました。
ーー樹の上に世界はあります。
大きな大きなその樹は、月の砂漠に根を下ろし、大きなその身体を星の海に写していました。
色とりどりの命の光が樹を照らしています。
樹の上にあるたくさんの世界には、たくさんの命が暮らしています......。
*ドラゴンの時間*
気がついたら、空が夕暮れ色になっていました。
ちらほらと、星も見えてきます。
「もうこんな時間か」
太陽が沈めば、ここは極寒の地。まだ白い砂は温かいですが、じきにその温度も失われていくでしょう。
「帰らなくていいの?」
空が暗くなっても、少年は気にせず地面に座っています。
少女に尋ねられ、不思議そうに首を傾げました。
「どうして?」
「どうしてって......」
不思議そうな顔で返されてしまい、少女は答えに困ってしまいました。
「子供は、暗くなったら家に帰るものじゃないの?」
少女は、本から得た知識を元に言います。本を読んで知った事なので、少女には本当にそうするのか、自信はありません。
そもそも、少女は外に出ることが出来ないのです。
「家、かあ。僕はね家に帰りたくないんだ」
少年は、ぎゅっと小さく縮こまりました。俯いてしまって、目は見えません。
「僕はね、ドラゴンの姿になれないんだ」
「そう、なの? そんなに立派なツノがあるのに」
少年の言葉に、少女は驚きました。
少年は自身のツノに手をあてました。ゴツゴツしているツノです。
「みんなは夜になるとドラゴンになるんだ。でも僕はなれない。昼間になれば、みんなはドラゴンの姿じゃなくなる。でも僕のツノはずっとここにある」
少年はぎゅっとツノを握りました。
少女はこの少年のことが少しだけ分かりました。少年も、ずっと一人だったのです。
少女のように、まわりに誰もいなかった訳ではありません。心が、ずっと一人だったのです。
飛べない子供はいらない。
役に立たない子供。
生かしてもらっているという事を忘れるな。
役立たず。
少年は、暗いところに押し込められました。
仕方がない。
僕はドラゴンにはなれない。
空を飛べない、役に立てない。
だから、閉じ込められても仕方がないんだ。
少年は、自らに言い聞かせました。
しかし、ある時、少年は光を見たのです。あたたかいけれど、強烈な光。
世界を照らす光。
少年は光を求めました。
外へ出たい、外へ、外へ。
少年は、外へ飛び出しました。初めて浴びた太陽の光。
目が焼けるように痛く感じました。
しかし、少年にとって、その痛みは些細なことでした。
そして、今まで思っていたことも。些細なことなのだと思いました。
外に出た、たったそれだけのことで、少年の世界は大きく広がりました。
空が飛べないから何だと言うのだ。僕は自分の足で歩いていける。
みんなの役に立てないのなら、誰か一人の役に立てばいい。
少年は、そうして、歩き始めたのでした。
「でもね、僕、今は全然平気だよ」
少年は顔を上げました。
少女を見上げるその目には、少女が見惚れた輝きがありました。
空を、ドラゴンたちが飛んでいきます。大分日が落ち、黒い影にしか見えませんでした。
「ああやって見ると、ドラゴンって不気味だよね」
ドラゴンになれない少年は、笑いました。
*海*
ーー全ての命は、星の海から始まりました。
様々な世界の根本、世界樹も星の海から生まれました。
月の砂漠に、星の欠片が打ち寄せ、積もっていきます。
「海って、どんなところ?」
少年が少女と出会って、しばらく経ったある日、少年が少女に尋ねました。
少年は、時々どこかに歩いて行ってしまう事があっても、すぐに少女の元へ戻ってくるのでした。
「海は、水がたくさんあって、青くて、たくさんの命が生まれた場所なんだよ」
少女は、本から得た知識を答えます。
少女も、海なんて見た事が無いのです。
「へぇ、すごいなあ。僕たちも、そこから来たのかな」
「そうかもね」
少年はすごい、すごいと言いながら、空を見上げました。
相変わらず、空は眩しい程の青空。
「もしかしたらさ、海と空って似てるんじゃない? 理由はよくわかんないけど」
少年がにこにこしながら言いました。海と空はまるで違うものだと少女は知っていましたが、なんだか胸がドキドキしました。
「......行ってみたいなあ」
少女がポソリと呟きました。
「なら行こうよ」
少年が、少女を見上げ、さも当然のように言いました。
「でも、私ここから出れないよ?」
少女が言うと、少年は不思議そうな顔をしました。
「その窓から出れば良いでしょ?」
少女のいる塔には、入り口がありません。外と繋がっているのは、今少女が立っている、窓だけなのです。
「......っ」
少女は、しゃがみ込みました。少年の顔が見えなくなります。そして目の前が暗くなりました。
窓から出ればいいと、少年は簡単に言いました。それは、少女にとって簡単な事ではないのです。
少女は外の世界を、本の知識でしか知りません。
しかし、知っているのです。
この世界に、本の中にあるようなものは無いと。
地を歩くのは、人ではありません。動物もいません、草花もありません。
人の姿をした、人ではない者が地を歩いています。
空を駆けるのは鳥ではありません。ドラゴンです。
少女は壊したくありませんでした。今まで少女が作ってきた世界を。
外に出てしまえば、少女は本当の世界を知ることになるでしょう。
少女は、もう、知りたくなんてありませんでした。本当の事なんて、知りたくなんてありませんでした。
「ねぇ!」
しゃがみ込んだ少女の頭上から、少年の声がしました。
少女が顔を上げると、少年が窓の外から顔を出しています。
「何でしゃがみ込んでるのさ?」
よいしょ、と少年はよじ登り、塔の中に入りました。手には、少女が落とした本を持っていました。
「あ、これ返すね」
少年は少女に、本を渡しました。本には、砂が付いていました。
「外に出るのが怖いの?」
「......外に出て、知る事が怖いの」
少女は俯きました。
「何で? 何がそんなに怖いの? ものを知らないでいる方が、よっぽど怖いのに」
少年は不思議そうな顔をしています。
「でも、知らない方が幸せだったよ」
「本当に?」
少年のキラキラとした目が少女を映しています。
「ぼくのこと、知らないで、笑っていた集落のみんな。知っていても、見て見ぬふりをしていたみんな。
それでもみんなは幸せだったんだろうね。ぼくに興味なんて無かったから。でも、君は外に、海に興味があるんでしょ?」
少年の目から、目を離せません。言葉が、うまく出てきません。
「行きたくないなら、僕だけで行くよ。じゃあね」
少年が、窓から飛び降りようと、足をかけます。
少女は慌てました。
キラキラ輝いて見える少年が行ってしまう。
嫌だ、一人はもう嫌だ。
「待って!!」
少女は、少年に手を伸ばしました。
少年は待ってましたと言わんばかりに、笑顔になり、少女の手を取りました。
「うん、やっぱり君も、一緒に行くよね」
そしてそのまま引っ張り、二人は塔の外から飛び降りました。
ボスン、と二人が砂の上に落ちます。
少女は、恐る恐る顔を上げました。
下に砂の感覚、それと空が少し遠くなりました。
眩しい太陽の光が、少女の全身を照らしました。
「空を飛ぶって、こんな感じなのかな〜。ふわってして、風が来るの」
「そう、かもね」
少年は、両腕をバタバタと動かし、言いました。
少女は不思議な気持ちでした。塔の中にいた時は、とても不安な気持ちだったのに、今は何だか清々しく感じていました。
外に出る事を拒否したのは少女自身なのに、外に出た今となっては、むしろ塔の中に戻る事を拒否したいと思っていました。
「じゃあ、行こうよ! 海を探しに」
「......海なんて、ないかもよ?」
「僕はまだ見てないよ。それに、君は海を知っているんでしょ? なら、いつか見つけられるよ」
「......そうだね」
少年が、少女の顔を見て、笑いました。
「君、やっぱり外に出たかったんだね」
「え?」
「君は今、笑ってるよ」
灼熱の太陽の光を、少年と少女のツノが反射していました。