第一章「紅い眼・黒い瞳」・5
第一章の最終話です。
「ふう。これで一段落ついたかな」
真咲は辺りを確認するように見回すと、翼に向き直った。長い髪が流れる。
二人は真咲の飛行能力を使って都内のビルの屋上にいた。雑居ビルらしく外壁にはいくつもの看板が取りつけられている。他にも同じようなビルが近くにある。
さすがにシルフィードたちもここまで追うことは諦めたらしく、追撃の気配はまったくない。
「訊きたいことが多すぎるって顔してるわね」
「ああ、まだ何を協力すればいいのか聞いてないからな」
翼の問いに真咲は一呼吸入れて答えた。
「私の敵を倒してもらいたいの」
「敵?」
「ええ、こないだまではさっきの対悪魔用の警察に捕まってたんだけど……二週間前にこの辺りに出たの」
翼は今日はじめて納得したかのような顔になった。
つまりは悪魔の脱走犯を捕まえろということだろう。
「なるほど。でも、それはその対悪魔の警察がやることじゃ……」
「いや、そのはずなんだけど」
急に真咲の顔が曇る。
「何かの手違いで私が狙われるように指示されているらしい。それで私はそいつを倒さなきゃいけないのよ」
「ふぅ……難儀だな。だいたいどんなやつなんだよ」
翼が近くにあった階段に腰をかけた。屋上に出るための扉の下に設置されたものだ。真咲もそれに倣う。
そして改めてゆっくりと話し始めた。
「……私が三百年前に倒したやつよ。『化け物』それが一番しっくりくる言葉ね」
ん? 一瞬、驚愕すべき単語が。ツッコミを入れるべきか?
「えっと、まず、三百年?」
一応、説明を求めた。
真咲は怪訝そうな顔をした。
「なによ? 翼、私が本当に十六、七の高校生に見えてたの?」
「はい」
即答。見えていた。むしろそれ以外にどういう風に見ろと。
「まあ、仕方ないけど。私、一応、五一六歳よ。しかもこれでも若い方なんだから」
「どういう中途半端な数字だ。ま、悪魔っていうぐらいだしな。SFか? ホント」
「そう思っても仕方ないわ。長くなるけど、昔話聞く?」
翼は無言で頷いた。一番訊きたかったことだ。
「さて、何から話そうかしらね」
目をつむり、思い出すように言葉を紡ぐ。
「まず、私のことから。悪魔についての説明は……そうね、『神から見捨てられし者』『天に相反する者』『闇に住まう者』いろいろ言い方はあるけど、あなたの前にいるのが本物。そして私は堕天使の末裔。だから正確には『元』天使とも言えるわね。そして私は生まれて五十年後にある場所に幽閉されていたの。すぐに開放されたけど、次に行かされたのは《白の世界》。簡単に言えば悪魔の収容所。更正をする場所。私はそこから出て来たのよ。そして時は過ぎる。人には永遠とも思えるほど長い時間を経て、あいつに会った。この世の悪の、闇の根源」
「『化け物』ってやつか?」
一段落話がついたようなので、翼は口を開いた。『化け物』の正体それは、
「大天使、それと同等の力をもつ者。ある意味にすら脅威を覚えさせる存在ね」
いきなり神話上の者が出てきて、翼は何と言葉を続ければいいのか迷った。あまりにも話が大きすぎる。人間の自分に何ができるのだ。それに信憑性というものがこれっぽっちもない。
「驚いてるわね。話が壮大すぎる? でも真実。信じるしかない」
「それで? 何で悪魔のくせにそいつを倒すんだ?」
「あいつの理想は悪魔のものとも、神のものとも違う。願うは混沌、従うは憎悪。私の目指しているものとも違う。もちろんそれに従う悪魔もいた。どちらかと言えばあいつの理想は悪魔のものに近かったから。あくまで近かっただけ、だから従わない者もいた。でも従った悪魔が多すぎた。悪魔の戦力は一時的にとはいえ、半分以下になった。そこを神官たちは狙った。お陰で悪魔はほぼ全滅。悪魔は歴史上この世から掃討させられたわ。すべてはあいつのせい。だから私はあいつを殺す」
今の真咲の口調は有無を言わせぬものだった。目は細く開けられ、当時のことを思い出しているのだろうか。
つまりは同胞の復讐とでも言うのだろうか。
翼は彼女が話を終えるまで無言だった。先ほどのように混乱しているのではない。真咲の言葉が衝撃的だった。
「ま、所詮、私も復讐のために戦っているんだけどね」
「『も』?」
「そうよ。あいつも復讐のために戦っている。そういう意味では同類ね」
「……そうか」
真咲はそれ以上話さなかった。雰囲気がそうさせたのか、それ以上話したくなかったのかはわからない。でも一つだけはっきりした。
「お前、実は寂しがりやだろ?」
そのときの真咲の顔はまさしく鳩が豆鉄砲くらった顔だった。日常でこんな顔をされたら思わず吹き出してしまうだろう。
「な、何言ってるのよ?」
「いや、気にしないでくれ」
「無理よ。って言うか何でそんなこと訊くの」
「だってさ、五百年も一人だったんだろ?」
図星だったらしく、真咲は押し黙った。
「しかも今のお前、悲しそうだった」
互いにうつむき、沈黙が続く。
「そう……でも違うわね。五百年も一人だとそんなこと関係なくなるものよ」
真咲は顔を上げ、翼をまっすぐに見据えた。
「…………」
今度は翼が黙った。真咲が無理をしているようにも見えたからだ。自分でも他人をこんなふうに見るのは初めてで、おかしく思えた。まるで前から彼女の事情を知っていたかのような。
「さぁて、そろそろ帰ろうかな……。もう三時よ」
立ち上がり、スカートの形を整えた。その後ろ姿を翼は呆然と眺めていた。と、風に流れる前髪を押さえながら真咲は振り向いた。
「どうしたの?」
「……何でもない。それで? どうやって帰る?」
「ふふふ、飛んで、よ」
真咲の背中に再び漆黒の翼が顕れた。悪魔を連想させる皮膜状のものではなく、柔らかそうな天使の羽だった。ただその色は深い黒。
「と、その前に……」
翼の横に屈みこむとポケットからハンカチを取り出した。それで翼の右ひじを押さえた。ハンカチには徐々に赤いしみが広がった。
「あれ? いつの間に」
「どっかで擦ったんでしょ。さっきから血が出てて、見てるこっちが痛いわよ」
階段に座る翼の足元には血溜まりができてた。
「うわっ、なんかこれヤバいんじゃ……」
「大丈夫よ。あなたはこのくらいじゃ死なないわよ」
「それって、どういう……」
こればっかだな、と思い翼は口を閉じた。
「お前が言うならそうなのかもな、真咲」
真咲は口の端を上げて笑むと、漆黒の翼を広げた。