第一章「紅い眼・黒い瞳」・3
一時間目の始業のベルが鳴る。
追われつづけていた新明も安堵したかのように席につく。
「まったく、何で俺ばっかり」
振り返れば殺意のこもったような視線が降り注がれているが、それを無視してさらに後方へ視線を向けた。
「翼のやつ、どこ行った?」
視線の先には窓際最後尾の席。翼の席に座る者はいない。その前の真咲の席にもだ。
「あいつら二人の方が怪しいじゃねえか」
新明は愚痴を溢すと、前に向き直った。
梓も翼の席を見て、不安そうな顔をしている。
「翼、どこいったのよ」
重たく閉じる瞼を開けると蛍光灯の光が目にまぶしく入った。消毒液のような臭いが鼻をつく。
「ん……ここは」
「保健室よ」
聞き覚えのある声がした。真咲の声だ。
「天城? お前、何をした!」
翼は勢いよく飛び起きた。真咲は翼が寝ているベッドの横の椅子に座っていた。
「何も、と言えば嘘になけど、大したことじゃない。少しの間眠っていてもらっただけ」
少しというのは正確ではないかもしれない。ベッドのすぐそばにある窓からは高く昇った太陽が見える。おそらく時間では一時ぐらいだろう。そうなると翼は朝から五時間も眠っていたことになる。
「何だって? それにお前……」
翼は真咲の口調がどこか威圧的な感じがあると思った。
「私がどうかしたの?」
「……何者なんだ?」
その質問を待っていたように真咲は不敵な笑みを浮かべた。
「――悪魔よ――」
それは唐突で、突然で、いきなりだった。
「な、何を言って……」
ほとんど反射的に言葉が出た。当たり前の反応だろう。飛び上がらなかったのが不思議なくらいだ。心臓は緊張のため高鳴っている。
「何って、言ったまんま。私は悪魔」
「そんなバカなことがあるかよ。つーか、信じるか? フツー」
真咲は意地悪げに声を上げて笑った。
「ははは。やっぱりあなたはおもしろいわ」
そして視線を真っ直ぐに翼へ向ける。
「信じるか、信じないかはあなたの勝手だしね」
「それは……どういうことだ。何が目的なんだ?」
翼の言葉に真咲は一瞬逡巡したが、すぐに口を開いた。
「あなたに協力してもらいたいの……。あるものが必要だから」
なぜ? 悪魔が(彼女の言っていることが本当だとしたらだが)なぜ普通の人間の俺に? 完全に混乱した。
「何でだ? どうして俺なんだよ」
「あなたは、自分では自覚していないでしょうけど魔力があるのよ。空想小説とかで魔力とかのことは知ってるでしょ? あれとほとんど一緒。それがあるからあなたに協力してもらいたいの。もし、断るなら……」
真咲の目が冷酷な光を帯びた。翼はその視線を真っ直ぐに受ける。今の真咲の目は人を難なく殺せるような目だ。気を失う前までの日常が走馬灯のように浮かぶ。
(あぁ、これって例のアレだな。死ぬ前のアレ……)
翼はどうしようもなく思いつつも、声を発した。
「そ、それは困るな」
真咲は拒絶するのを待っていたかのように言葉を続ける。
「ふふふ、まだ何も言ってないのにね。ま、でもご想像には反すると思うわ。『命』とかじゃなくて、あなたの『右腕』をもらいたいと思ってるの」
「は……?」
翼は絶句した。わけがわからない。今、彼女が何を言っているのかわけがわからない。右腕? は? 何を言ってるんですか?
「右腕ならあるじゃないか。それとも予備が欲しいのか?」
やっとのことでそう言った。すると真咲の顔がぐっと近づいた。瞳は赤く輝き、猫のように縦長に伸びた。
「この腕、私のじゃないの。何年も前から。だから本当の腕を返して欲しいの。じゃないと力が発揮できないのよ」
「ホントにわけがわからねえよ。お前の言ってることが……」
「そう。協力は願い下げってこと?」
「ああ、第一、俺はお前と知り合ってもいない。ただ同じクラスなだけだ。それに悪魔なんて……」
「わかったわ。それじゃ、『右腕』もらうわね。あなたの協力なしじゃあいつは倒せない。なら私が力を取り戻すまでよ」
翼は背筋に悪寒が走ったように感じた。本当の恐怖とでもいうのだろうか。口を開いても重圧で何も話せない。
「――――」
一気に室温が下がった気がした。もし魔力を視認できる者がいたとしたら真咲を取り巻く魔力の光に驚くことだろう。
「うッ!」
翼は自分の右腕がちぎれんばかりの力で引っ張られるのがわかった。
そして真咲の顔がさらに迫る。吐息が耳にかかる位置まで来た。
「でもね……もし私が力を戻したら、この世界滅びちゃうよ?」
冗談めかした言い方だったが、脅しとも、願いとも取れる言葉。
「脅しか?」
聞こえるのは真咲の不適に笑うような声。わかるのは腕の痛み。
奥歯を噛み締めて痛みを堪えるが、徐々に腕の感覚が薄れて行く。
「さぁて、どうする? 翼。腕、渡す?」
意地悪そうな声が耳元でする。
とても長い沈黙。
「……わ……」
「わ?」
「わかった。協力する」
翼は痛みで歪む顔を真咲に向けた。そこには相変わらず不適に笑う顔があった。
「それじゃ、契約――」
再び真咲の顔が近づく。今度は真っ直ぐに。
「え?」
二人の距離が零になる。
「――――」
零になっていたのは数秒か、数分か。
ようやくと思えるほどの時間に翼は感じた。真咲の顔がようやくはっきりと見える距離まで離れる。
「何を……」
「ふふ、契約よ、契約。今ので成立」
真咲は人差し指で自らの唇を押さえた。妙に大人びた表情に見える。
「協力してもらうからには、それなりの、ね?」
ね? と言われても困る。
「……ふぅ。それで、俺は何をすればいい?」
一つため息をついて、ベッドから足だけ投げ出すようにして座り直す。
「へえ、けっこう飲み込みがいいわね」
「あいにくこのテの小説はよく読んでてね」
また声を上げて真咲が笑った。
自慢ではないが事実だ。笑われる筋合いはない。
「ははは、やっぱり翼は面白いよ。前からなの?」
「さあな。そこまで面白いって言われたのは初めてじゃぁない」
「そうなの……。じゃあ、私のことから話そうかしらね――」
ずぅぅぅぅぅぅん!
表現通りの重低音。映画館でもここまで出ないだろう。
真咲の舌打ちが静まり返っていた部屋に響く。
「何だ?」
翼はまたも困惑した表情で音のした方――正門の方に向けられる。この保健室ではちょうど窓のある方向だ。
「警察よ。しかも対悪魔用のね」
「おいおい、そんなのが何で」
「私が追われてるからよッ!」
手近にあった窓を開ける……というかほとんどぶち破ると真咲は外に飛び出した。
(今度こそ、どういうことだ?)
と思いつつ、翼はあわててベッドを下りると窓から真咲が落ちたと思われる地点を見た。そこにはしっかりと真咲が立っていた。無傷のところを見ると本当に悪魔に類する存在なのだろう。翼は一応胸を撫で下ろした。
「これは、どうも、まずいことに巻き込まれたな。まあ、脅されたようなもんか。ま、待っててもヒマだし――」