8.タグ違いの屍体 ①
車は、高架からゆっくりと下りていく。
下層街の路面は煤けている。舗装の継ぎ目に濁った水溜まりができていて、タイヤが通るたび飛沫が上がる。窓を少し開けると、屋台から漏れる油の匂いと、工場の煙突から吐き出される煤煙が混ざりあって入り込んできた。
やがて車は、タフィオ第二区の外れにある《保全庫》の前で止まった。
ジェーンはバルドに続いて後部座席から降り、その建物を見上げた。
煉瓦造りの低い建物だ。屋根の上には塔がいくつも並び、白い霧のような蒸気を絶えず吐き出している。視線を下ろすと、搬入口のあたりの床だけ、黒く擦り減っていることに気が付いた。毎日、何十とそこを車輪が通っている証だ。
受付窓口の向こうで、一人の職員が書類をめくっている。
バルドは迷いなく受付窓口に赴いて告げた。
「死後資産管理局・保全課、死霊術専門魔術師のバルドだ。治癒院から回された《タグ違い》の屍体は?」
「ご案内します」
職員はゆるりと立ち上がり、廊下の奥を示してから歩き出す。
「下層の事故現場から救急で運ばれて、近くの治癒院で看取られたそうで。死亡診断までは治癒師の仕事、その先はうちに回す決まりですがね」
先頭を行きながら、職員が説明を始める。
ひどく入り組んだ廊下を抜けて、冷たい鉄製の扉の前に立つ。重たい鉄の塊を押し開けると、消毒薬のつんとする匂いが鼻を刺した。
「タグの色がおかしいですよって連絡したら、『うちの責任になる前に処分してくれ』って顔してましたけど」
バルドは屍体袋に視線を落とした。
袋の取っ手には、小さな金属片がぶら下がっている。つややかな金色――生前に自分の身体を差し出す署名をした《献体契約者》に付ける色だ。
ジッパーを開けると、屍体の足首に、小さな金属片が吊られている。
艶消しの銀色――書類上は同じ「献体」扱いだが、実態は高額な魔法医療の代金や生活費の前借りのカタに、死後の身体を差し出した債務者たちのタグだ。
どちらも管理局の《資産》だが、金は自分で選んだほう、銀は選べなかったほうを指す。
ジェーンは自分の首元に揺れる黒タグに触れた。これは稼働中の資産に付ける色だとリメンから聞いていた。
バルドは、しばらく銀タグのほうを見つめていた。何か観察でもしているのかと思われるくらいの秒数が経ち、彼はそのタグを見つめたまま、手を差し出した。
「……搬送票を見せてくれ」
職員が紙束を差し出す。バルドは手袋をはめた指で、搬送票の束を一枚一枚めくった。
「治癒院から出る時点では、銀タグ一体分しかないな。金タグの番号は、局の受け取り予定にはない」
「番号、覚えてるの?」
ジェーンが聞くと、バルドは平然と言った。
「覚えてしまう」
「記憶力がいいのね」
「ミスの温床だ」
そう言うバルドの声は一段と無感情だ。
「どうせあと四、五年も経てば、こんな芸当もできなくなるしな。……あとで、台帳と突き合わせて照合する」
彼は屍体に視線を戻した。
「屍体の身元が合わない。タグが入れ替わっている」
ただの事実の羅列だったが、バルドの声は低かった。
*
保全課に戻ると、すでにルツも戻っていた。手には診療所の死亡台帳の写しと、補助金申請書の控えを持っている。
「首が回ってない下層の治癒院って感じ。冷却庫なんて置けるわけないから、さっさとうちに押しつけたいってところかな。タグと台帳が噛み合わないと自分の責任にされるから、一番に保全課へ泣きついてきたってわけ」
「ふうん。疲弊している割に賢明だな」
バルドの評価に、ルツは肩をすくめる。
「ただの自衛でしょうよ。悪意でやってるって感じじゃなさそうだけどね」
「悪意にはそうお目にかかれるものじゃない。――少なくとも、地上ではな」
報告を終え、《死後資産受入台帳》を開く。分厚い帳面には、タグ番号ごとに保全課が受け入れる予定の屍体がびっしり書き込まれている。
金タグの番号は、記憶どおりどこにも載っていない。つまり、保全課を通るような事件性はなく、本来なら他部署からそのまま研究機関へ譲られるはずの献体だったということだ。
それを確認してから、バルドはその足で再び第二区保全庫へ向かった。
搬入口のシャッターが上がりきる前に、台車の車輪がレールからコンクリートへと乗り上げる。灰色の屍体袋が一つ。さきほど銀タグを確認したものと同じだ。
バルドは屍体袋を開けながら呼びかけた。
「ジェーン」
「うん?」
「『役に立てるか』と言ったな。今回はおまえの能力が使えるかもしれない」
「能力って、つまり……」
「これに〈憑依〉してくれ」
ジェーンは瞬きをした。
「ここで?」
「ここで。ぼくも似たようなことはできるが、何日もかかる。そんな時間はかけられないし、さっさと情報が欲しい」
「わたし、〈憑依〉しても、そんな都合よく記憶を思い出したりできないよ?」
「そこまでは望んでない。記憶まで辿れたら、今頃おまえは違法改造物として念入りにバラされている」
「えっ……」
絶句したジェーンにかまわず、バルドは続ける。
「器を壊しても意味はなさそうだが、規定上そうなる。おまえは肉体を転々としてきたと言ったが、本来それはとんでもないことなんだ。本来〈憑依〉には、生きた身体を死の側に合わせるための長い儀式が要る」
バルドの声は少し固かったが、迷いはなかった。言いながら、白い手袋を両方とも外していく。
「おそらく、すでに半分は向こう側にいるんだ。そのぶん、調整の時間も短縮できるはずだ。……理論上は」
その向こう側がどこを指すのか、ジェーンは極力考えないことにした。
「屍体に触れろ」
有無を言わさぬ口調だった。
ジェーンはゆっくりと、屍体の胸に手のひらを当てる。これがかつて「誰か」だった人なのだと想像した瞬間、首の縫われたあたりがじわりと痛んだ――ような、気がした。
「おまえは入り口を開けるだけだ。覗き込むな」
バルドが低く言う。
「……どういう意味?」
「おまえが開けた入り口からぼくも入る。そこで、憑依する先をぼくが誘導する」
「誘導……?」
「説明が難しい。とにかく、これへ〈憑依〉しろ。それが済んだら、あとは抵抗するな。おとなしくしていろ」
「わ……わかった。やってみる」
ジェーンはそっと目を閉じた。
バルドがひとつ、短くつぶやく。
「『我らの臨終の試練を、あらかじめ知らせ給え。』」
そして、ジェーンの手の甲を覆うように、左手で軽く触れた。手の甲に複雑な文様が彫られている。そこから冷たいものが伝って、腕に、肩に、そして背骨のほうに染み込んでいく。
賛美歌のような古い祈りの言葉。その一節を合図のように、ジェーンの足元からゆっくりと感覚が削がれていく。
ずっとノイズのように鳴っていた冷却庫の稼働音が遠くなる。床に立っているのか、浮いているのかわからない。境目が溶けていくようだった。彼に触れられている手の感覚も、屍体から漂う消毒液の匂いも、足裏に感じるコンクリートの硬さも、どんどん意識の外側へと押しやられていった。




