83.アンダーグラウンドへようこそ
採掘場へ向かう道は、大型車の通行で舗装が削れていた。黒い筋状のタイヤ痕を追って、ジェーンは進む。人どころか車さえ走っていない。轍に沿ってしばらく進むと、粉塵で薄黄に霞んだ視界の先に、錆びついたフェンスが浮かんできた。道は、フェンスの扉の前で行き止まりだった。
フェンスの扉は内側から閂が外され、誘うように開いていた。色褪せた「立入禁止」の看板を横目に、ジェーンはその隙間から中へと滑り込んだ。
グレイヴスから指示された場所は、崖の下に張りつくように建てられた診療所だった。倉庫を無理やり仕立てたような外見で、とても人がいるようには見えない。
鍵はかかっていなかった。ジェーンが扉を押すと、抵抗なく開いた。テーブルの上にランプが置いてあり、辺りを頼りなく照らしている。室内は妙に温かかった。見渡すと、端に置かれた小型の鋳鉄ストーブに熾火が残っていた。箱型をした胴の上に鍋が置かれ、そこから薄く煙が立ちのぼっている。
診療所というより、救護所みたいな場所だった。
ジェーンが鍋から目を離せずにいると、奥から誰かが出てくる気配がした。ジェーンはちらりと視線を上げる。
三十前後に見える痩せ型の男だった。白いシャツの袖を肘までまくっている。
「屍体が歩いて来たのは初めてだな」
男は左手でマスクを下ろしながら言った。その手の甲には、文様が彫られていた。
その顔を見たジェーンは、一瞬、理解が追いつかなかった。
「……バルド?」
名を呼ぶ。だが、自信がなかった。――あの安息香の匂いが、どこにもなかったから。
「その名前は返した。もう専門魔術士じゃないんでね」
口調こそ切り捨てるようだったが、肯定に等しい言葉だった。彼は視線はジェーンの目を避けた。代わりに、彼女の首や手に滑る。傷がないか、欠けていないか、点検するようだった。
かつてバルドという名を持っていた男が、椅子を指差した。
「まあ、座れ」
ジェーンは一瞬だけ迷ったが、素直に腰掛けた。それを見届けた彼が、小さく息を吐く。ほっとしたようでもあり、諦めたようでもあった。そして、彼も手近の椅子に腰を下ろした。
ジェーンがぽつりと問う。
「封印、されたんじゃ」
「されてるようなものだ。魔法はほとんど使えなくなったしな」
彼は苦々しげに言ったが、その顔はどこか安堵しているようでもあった。
「お葬式もやったのに……」
「それで、何をしに来た」
端的に問う彼に、ジェーンはきょとんと目を瞬かせる。バルドは小さく首を振った。
「おまえが地下に潜るってことしか知らない。グレイヴスが丁寧に説明すると思うか? その反応じゃ、ここにいるのがぼくだってことすら知らされてなかったんだろ」
確かに、とジェーンは苦笑する。
「アルギロス卿の引継ぎが終わったから、地下の噂を洗うの。不穏な噂の芽があれば、潰しておけって」
「それは……おまえがやる必要はないだろ」
反射的に出た、という口ぶりだった。そこで、彼の視線が、初めてジェーンの目に留まった。ジェーンもまたその視線を受けて、にっこりと笑う。
「あら。あなたがそれを言うの?」
ジェーンの声は柔らかい。
「一緒にやるんだから、それでいいでしょ」
彼は答えず、病床の下に押し込まれてたトランクを引き寄せた。革が床を擦る音が、室内に響いた。ジェーンは口元に笑みを浮かべたまま、それを黙って見つめていた。
――バルド。あなたはいつも「必要ならやる」と言ってきた。
彼はジェーンを止めたいのではない。ただ、自分が果たすべき責任を代わられることが、落ち着かないだけだ。彼のまず手を動かす癖が、それを物語っていた。
どこか逃げるように荷を整える動作は、会話を切るためではない。ジェーンと行動を共にする準備だ。それを見て、ジェーンの胸にあった緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それより、もっとマシな装備はなかったのか? ぼくはもう、死霊術を使えないぞ」
「……バルド」
「返上したって言っただろ」
突き放すような言い方だが、乱暴ではない。ジェーンは軽く笑った。
「じゃあ……。治癒師さん?」
「よろしい」
彼はようやく口元だけで笑った。
座ったまま、ランプの火を絞る。影が薄くなり、やがて完全に消えた。光源は、窓から差し込む弱々しい太陽光だけになった。それも、あと数時間で沈んでしまいそうだ。
だが、ジェーンの目に暗さは増えない。彼女の目は、もともと光を捉えてはいない。ものの輪郭がくっきりと浮かび上がるだけで、かえって彼の姿がよく見えた。
「それじゃあ、潜るか」
そう言うと、彼は椅子から立ち上がって、奥の部屋へ進んだ。ジェーンはその背中をついて行く。
そこは備蓄を納めておく物置になっており、中央に階下へ続く階段があった。下へ行くほど、黒で塗りつぶされていく。そこから先、一切の光源がないのだ。
だが、ジェーン・ドゥは人間ではない。生体でさえない。思い返せば、本当の意味で「光」を見たことは、ほとんどなかった。
――だからこそ、ジェーン・ドゥにとって、暗闇は障壁ではない。
彼は慣れた様子で歩き出した。アルギロス卿の肉体だったときとは打って変わって、軽い足取りだった。 そして、一度だけジェーンを振り返って、そこで初めてにやりと笑った。
「アンダーグラウンドへようこそ」
彼の身体が階下の闇へ消える。
そのあとを追って、ジェーンもためらいなく一歩踏み込んだ。
〈完〉




