78.聖具庫の下
大聖堂から逃れても、白百合の芳香は消えなかった。
アルギロスの身体は優雅に歩を進める。意識の端から、大切な記憶が、癖が、指の間をこぼれる砂のように消えていく。バルドは、自分自身が霧散していく感覚に耐えながら、心の中で、吐き捨てるように呟く。
(……くそ。まだだ。ここではだめだ)
回廊の柱に手をかけたそのとき、背後から硬い靴音が響いた。二人分。どちらも焦燥を含んだ足音だった。
「アルギロス卿。――いや。バルド……」
聞き慣れた、酷く疲れ切った声だった。
アルギロスの身体で振り返ると、そこには顔色の悪いサウィンと、ジェーン・ドゥがいた。
「邪魔をするな」
あくまでもアルギロス卿の口調で吐いて、そのまま踵を返そうとするバルドへ、ジェーンは一歩近づいた。サウィンが制止の声を上げるより先に、迷わず手を伸ばす。ジェーンの指先が、アルギロスの冷え切った絹の袖に触れる。
「う……っ」
ジェーンの喉から声が漏れる。
アルギロスの身体は、もはや魂を収める器ではなかった。術式の意図的な欠落によって、バルドの命をくみ上げては捨てる、底の抜けた吸引ポンプと化している。触れた瞬間、その奔流に巻き込まれる。ジェーンという《真空》であるはずの存在が、器の底で口を開けている奈落へと引きずられそうになる。
だが、今のジェーンには、シュラウドの刻印があった。
鎖骨の下の刻印が、皮膚を焼くような熱を持つ。ジェーンごと吸い込もうとする負圧を、刻印は逆流と見なし、すぐさま「ここから先は通さない」と強固な境界を主張する。ジェーン・ドゥという現象が、バルドの暴走を鎮める逆流防止弁へと変貌する。
サウィンがゆっくりと歩を進め、真鍮の調整器を、アルギロスに見せつけるようにかざした。アルギロスの瞳が、患者のバイタルチェックをする治癒師のような的確さで調整器を一瞥した。
「バルド、ジェーンを使え。無理に術式を切るな。ここが更地になるほどの汚染が広がる」
アルギロスの口元が歪む。
「……それが、目的だと言ったら?」
「違う。お前の目的はアルギロスと死ぬことだけだったはずだ。最初は」
自信なさげに言うサウィンに、アルギロスは――バルドは答えない。
「公の場でアルギロス卿が派手に死ねば、連中も言い訳はできまい。お前はそう思ったんだろう。――だが、お前らしくもない」
「らしくない? おまえに何がわかる」
「演出するように死を晒すなんて――ましてや葬儀を口実にするなんて、バルドの作法に反する。アルギロス卿の痕跡と混濁しはじめている。
……バルド、僕は《痕跡》を視る」
サウィンに――痕跡鑑定の専門家に断言されて、バルドは押し黙る。
「それに、このままではジェーンまで燃料として持っていかれる。それも、お前の計画のうちか?」
「それは……。そっちが勝手にやってることだろ……」
「自殺に巻き込まれて仕上がった屍体なんて珍しくない。お前もよく知ってるだろう。……管理局の日常だ」
バルドは、わずかに呼吸を深くした。
――それならば、いま一度だけ。
拳を握り、術式を立て直そうとする。だが、返ってきたのは、ジェーンの喉から漏れる短いうめき声だけだった。彼女は接触を知覚しているが、痛覚はない。バルドが術を強めるほど、彼女を彼女たらしめるものが、内側から押し潰されそうになる。
バルドは舌打ちして、術式を繰るのをやめた。自分の思惑が、ただジェーンを苦しめるだけだと理解してしまった。
「……勝手なことを」
バルドの声から、わずかに毒気が抜ける。
ジェーン・ドゥというイレギュラーな弁が、彼の自爆回路を、破滅から緩やかな減衰へと変えてしまった。
サウィンが調整器を一瞥して言った。
「長くは保たない」
「……なら、地下へ連れて行け」
バルドがぽつりと言った。サウィンは訝しげに視線をやる。
「地下? ……大聖堂から行けるのか」
「アンダーグラウンドに入る穴はいくつもある」
古い都市には、役割を終えて封じられた――ことになっている路が張り巡っている。排水路、点検路、屍体搬送用の旧道。表の人間が見ても、打ち捨てられた廃墟としか思われない穴だ。
大聖堂にも、それがある。
バルドはアルギロスの身体のまま、回廊のほうへと向き直った。
「聖具庫だ。……弔問からも外れてる」
サウィンは一瞬だけ逡巡したが、うなずいた。議論している時間はない。正しさは後で決めればいい。いまは、被害を地上に漏らさないことが最優先だった。
*
弔問の列が見えなくなり、白百合の匂いが途切れた途端、回廊の温度が一段冷えた。ジェーンはアルギロスの豪奢な袖を掴んだまま、歩を進める。
「こっちだ」
アルギロスが――バルドが言う。
角を曲がったところで、扉が見えた。他の扉より厚い。飾りのない木に、金具が頑丈に打たれている。
バルドが目だけで合図し、アルギロスの身体を扉の正面に寄せた。
そのときだった。回廊の突き当りの陰から、誰かが出てきた。
――アシェルだった。
アシェルの視線が、まずアルギロスの顔を捉える。次にサウィンに移り、最後にジェーンで止まった。そこで、ほんのわずかに眉を動かした。
「アルギロス卿? それに、彼女は……」
「聖具庫に用がある」
「なりません」
アシェルはゆったりと、しかし物を言わせぬ足取りで聖具庫の前に立ちはだかった。
「アルギロス卿の頼みでも、聖具庫は――」
アルギロスは自分の胸元に手を添えた。優雅な所作だったが、その手は小さく震えていた。
「通せ。アシェル、通してくれ。このままだと、弔問客を殺してしまう」
「殺す……?」
アシェルの顔色が変わる。アルギロスの瞳をひたと見つめる。その中にある何かを探すようにも見えた。
「通るだけだ。その先の《点検口》に用がある。怪しむなら、事が終わるまでそこにいろ」
「しかし……」
「説明はあとでいくらでもしてやる。――そこの死霊術士も置いていく。そいつが許可するまで、ぼくを地下に閉じ込めてくれ」
アシェルはゆっくりと、迷いを断ち切るように、鍵束を持ち上げた。いちばん太い鍵を選ぶ。カチリ、と金属の音がした。扉の内部で、古い閂が外れる音が続く。扉をわずかに開けると、薄暗い聖具庫の埃っぽいにおいが、冷たい空気と共にあふれ出してきた。
人間一人が通れるだけの隙間分だけ扉を開けてから、アシェルは言った。
「……どうぞ」
バルドはサウィンを振り返る。
「サウィン。向こうの身体を封印したら――ぼくたちを回収してくれ」
「……わかった」
バルドは小さく頷いて、聖具庫の扉を潜った。ジェーン・ドゥが後に続く。




