74.ありのままを見る
サウィンは休憩室のデスクの上で、ペンを走らせていた。頭痛を上塗りするように、紙コップのコーヒーに口を付ける。時間が経って酸味が増した、泥水のようなコーヒーだった。
『――術式における致命的な欠落。存在のマイナス化……』
「……。それで、終わりなの?」
背後から、ジェーンの声がした。サウィンは手を止めない。
「終わりだ。これが僕の見た『事実』だから。これを提出すれば、僕のやるべきことも終わる」
「そうなったら、バルドは……処分される?」
サウィンのペン先がわずかにぶれる。
ジェーンは、サウィンの肩越しに机の上を指差した。彼が今まさに書き込んでいる報告書を。
「バルドをそこまで追い詰めたのも、そういう《紙》だった。たった数枚の」
サウィンは何も言わなかった。ペンを握る右手に、じわじわと嫌な熱が伝わってくる。それから目を逸らすように、サウィンは自分が書いている文字を見つめた。
――この報告書は、バルドに対する死刑宣告になる。
少なくとも、死後資産管理局はそう処理する。
管理局がこの報告を受領すれば、バルドの術は強制的に停止させられるだろう。
嘘は一つもない。
だが、停止が安全に進む保証もない。
バルドが死ねば、連動してアルギロスも死ぬだろう。それだけでも大きな痛手だが、容体がどう反転するかまでは読めない。
「バルドは、自分の死を想定している」
サウィンは呟く。
同業者が死ぬなんて、珍しくもないことだ。報告書を出せば、有能な局員としての立場を守れる。たったそれだけで平穏が続けられる。
それは、容易な選択のはずだった。サウィンはもう、コーヒーの味すら碌にわからないのだ。
サウィンはゆっくりと紙コップを持ち上げ、黒々とした液体を喉に流し込んだ。その様子をじっと見つめていたジェーンが、ふと口を開いた。
「ねえ、サウィン。あなた、コーヒー好き?」
「……昔は嫌いだった。もう、慣れたが」
サウィンはあいまいに返した。
ジェーンは、サウィンの持つ紙コップに視線を落とした。その瞳に苦笑の色がある。誰かの顔を思い浮かべている人に特有の表情だった。
「バルドもしょっちゅう飲んでたよ。不味くないと仕事する気が失せるって言って」
ジェーンの淡々とした回想に、サウィンの口元が呆れとも微笑ともつかない形になる。
バルドは「不味い」と毒づきながら、己を律するためにその苦さを選んでいたわけだ。そういう奴だ。不快を不快として受け入れ、それを燃料に変える。自罰的なまでにストイックな、職人としての潔癖さ。
(当然、ジェーン・ドゥの監視でも、そうしただろう……)
サウィンのペン先が、ぴたりと止まる。
あの融通の利かない男が、問題なく運用できるからといって満足するはずがない。
説明のつかなさから目を逸らさず。不味いコーヒーを飲み干すのと同じ誠実さで。ジェーン・ドゥの《痕跡》が、まるで〈憑依〉でもするかのように器を動かす不気味な現象を理解しようと努めたに決まっている。
サウィンは椅子に座ったまま振り向き、直立する女を見上げた。
そして、ジェーン・ドゥという《現象》を、死霊術士としての目で、初めて直視した。
――ジェーン・ドゥは真空の穴だ。魔力を吸い出して動力とするから、《出力なし》の圧を抜く装置になる……。
(まさか……)
サウィンの目が見開かれる。
点と点がつながる。その気づきは恐怖を伴った。頭を締め付けるような痛みに、胃の中が胸までせり上がるような嘔気が増す。
――バルドは、蘇生体への情報の定着を拒否し、欠落を抱えたままループし続ける回路を作り上げた。
(お前が、あんな真似を思いついたのは……)
彼はジェーンを見続けていた。
その誠実さが、最悪の形で実を結んだのだとしたら。
――ジェーン・ドゥという現象から、死者蘇生を汚染するヒントを得たのだとしたら。
サウィンの手の中でバキ、と乾いた音がして、ペン軸が中ほどで折れた。
「あ……」
ジェーンが呟く。
サウィンは折れたペンを無造作に放り出す。ペン先が机上に落ち、黒いインクが、書き終えた「死刑宣告」を汚していく。彼はインクで真っ黒になった報告書をつまみ上げると、ゆっくりと引き裂いた。
ありのままの報告を出すことは、バルドの復讐に仕上げのペンを入れてやることに等しい。
「……。お前は最高の技術屋だよ、バルド」
あろうことか、監視対象を、復讐の『手本』にしてのけた。
頭痛がひどくなる。痛みをこらえるために、眉間の真ん中に指を押し付ける。
「それは、どういう……」
「きみのことを誰よりも理解していたのは、バルドだったってことだ」
バルドは、確かにジェーンを救おうとしていたのだろう。だから、彼女を観察した。そして、ジェーン・ドゥの特性を解剖してしまった。この《技術》を応用する誘惑に――復讐の誘惑に、抗えなかった。
サウィンは頭の中で手順をなぞる。
仮死が長引けば、代役の死霊術士が本人性照合に割って入る。矛盾が出れば、管理局は必ず術式の停止へ動くだろう。照合が通ったところで、バルドはいずれ燃え尽きる。
「どちらにせよ、バルドはアルギロス氏を確実に殺すつもりだ。自分の命と引き換えにして」
ジェーンはそれを聞いて絶句していたが、ふと首をかしげて、サウィンを見下ろした。
「でも……。バルドが、それだけで済ませるかな」
「なんだって?」
サウィンが訊き返す。ジェーンは少し難しい顔で、言葉を続ける。
「〈憑依〉について、監査局さまに叱られたことがあるの。本来は戦時か対国家犯罪のときに使う秘術なんだぞ、って。わたしは知らなかったけど。
――でも、バルドは知っててやったのよ。二度もね」
「バルドらしいな。それが、どうした」
「そこまでやる必要あった? あれで思ったの。バルドはとりあえず走りながら考えるタイプなんだろうなって。思いついたら、禁じ手もその場で切っちゃうだろうなって」
(禁じ手を、その場で切る……)
サウィンの胸に、嫌な確信が落ちる。
(燃え尽きるまでは、運用が続く。周囲を騙せる。――時間が稼げる)
バルドは現場の人間だ。運用が常に想定から外れることも、そのために現場で細かな調整が必要なことも、あいつ自身がよく知っている。
確かに――計画の途中で余計な一手を足すくらいは、やりかねない。
サウィンは椅子の肘掛けを一度だけ強く握り、嫌悪を込めて体を持ち上げた。もはや味のわからないコーヒーを飲んでいる暇はなかった。
「だめだ。もう行くしかない……」
「行くって? ――報告書はどうするの?」
ジェーンの戸惑った声に、サウィンは二つに割いた報告書を一瞥した。片手で二つとも握りつぶし、ゴミ箱に放る。
「紛失した」
結局、頭痛は頭に張りついたままだ。




