73.同期する空隙
廊下には、不釣り合いなほど甘ったるい百合の匂いが充満していた。アルギロス卿の復帰を祝う祝花が、隔離区画へ続く廊下を埋め尽くしていた。
サウィンは祝花の群れを抜け、バルドが眠る隔離区画に入った。ここから先には、生花はひとつも持ち込まれていなかった。
「サウィン先生。お見舞いですか?」
詰所にいた看護師が顔を上げる。サウィンは「復活」に判を押した功労者のひとりだ。彼がここを訪れることに、もはや誰も疑問を抱かない。
「容体確認だ。彼を、このままにしておくわけにはいかないからね」
「ありがとうございます。……あの。でも、ときどき怖くなるんです」
看護師が声を潜めた。
「バルド先生の体に触れると、ものすごく熱を持ってるときがあって」
サウィンは答えず、背後に控えるジェーンを促して隔離室に入った。扉が閉まると、百合の残り香はすっかり遮断され、代わりに冷たい消毒液のにおいが鼻を突いた。
病床のバルドは、穏やかに眠っているように見える。
だが、サウィンが真鍮の指標器を突きつけると、現実が剥き出しになる。
針はゼロのままだ。無出力――すなわち、死霊術的な応答が一切ないことを意味する。
「……これでは、何も観測できない」
サウィンはジェーンを見た。その目には、彼女を道具として扱うことに対する一瞬の躊躇が見えた。
「……バルドに触れてくれるか」
ジェーンは黙って頷き、バルドの右手を両手で包み込んだ。生きている肌だ。冷え切っているが柔らかい。
「――っ!」
瞬間、歯の根が浮くような、内臓がぐいと引かれるような不快感が走った。肉体を素通りし、存在そのものを引きずり込もうとするようだった。
「な、なに!?」
ジェーンの動揺に、サウィンは答えない。彼の持つ指標器がみるみる熱を持つ。チリチリと音を立て、焦げた匂いを放ち始めた。針はゼロを通り越し、目盛りの外――マイナスへ振り切れる。
サウィンが低く呟く。
「マイナス。どこかに吸い上げられているのか」
専門を詰め込んだ脳が警鐘を鳴らす。
思い至ることはあった。一つだけ。
アルギロス氏の、あの不遜な口調に違和感を――既視感を覚えたときに押し込めた直感が。
だが、そうだとしたら。この直感が正しいというならば。
それは狂気の所業だ。
*
同じ施設内の別棟、特別応接室では、クリスタルのグラスが触れ合う音が響いていた。
「――アルギロス様。これでプロジェクトは次のフェーズへ」
高官の言葉を、アルギロスは優雅な微笑で受け流す。
そのとき、彼の右手を刺すような冷たさが包んだ。
指が、わずかに跳ねた。
(……うるさいな)
アルギロスは、自分の《燃料》に触れる気配を、ノイズとして処理する。
隔離室に横たわる自分に、誰かが触れたのだろう。
いやに冷たい。――ジェーン・ドゥだろうか。
バルドは、アルギロスの無機質な瞳で高官を見つめ返した。
自分が燃料切れで死ぬまでに、この贅沢で完璧な肉体で、どれだけやれるか。
エレゲイアは防波堤となった。
ならば自分は、このシステムを内側から焼き切る部品になろう。
最後の一滴まで使って、すべてを焼き切ってやる。
すべてを。
*
「手を離せ、ジェーン!」
サウィンがジェーンの肩を掴み、強引に引き剥がした。
手を離した瞬間、引きずられるような感覚がふっと消える。ジェーンは床に膝をつき、激しく喘いた。全身の末端が凍りついたように痺れる感覚があった。
サウィンは、返却のために持ち込んでいた『蘇生施行記録』を乱暴に開いた。
乱暴にページを繰り、魔法陣の図を指でなぞる。
外周は完璧だ。だが、内側の、情報の定着を司る符号が――。
「……線が繋がっていない。わざとだ。安全弁を外したのか。……逆流、させるために」
「逆流? どういうこと?」
ジェーンの問いに、サウィンは記録簿を抱え直した。
「……バルドは、自分を源にして、アルギロスへ中身を流し込み続けるループを構築したんだ。情報の固着を拒否し、自分を薪にして燃やし続けるために」
「なんで……」
「知りようがない。自爆を画策するほどの《怒り》は、想像を絶する」
自爆。
ジェーンは、ベッドに横たわる「抜け殻」を見た。
献身的に尽くす看護師も、蘇生を祝う存在も、こちらへ引き戻そうとする自分も。今のバルドにとっては、己の怒りを邪魔をする不純物に過ぎないのかもしれない。
「なぜだ、バルド」
サウィンはぽつりと呼びかける。
「お前はただ、死者蘇生を成功させるだけでよかったんだ。お前ほどの術者なら、それだけで平穏に暮らせたはずだ。なのに、なぜ……」
そこまで言うと、サウィンはふっと事務的な顔に戻った。バルドに踵を返し、廊下に出て、百合の匂いを振り切るように歩き出す。
ジェーンは慌ててそのあとを追った。扉を出る前に、バルドに視線を投げる。後ろ髪を引かれるような表情で視線を切って、サウィンについて行く。
サウィンは歩幅を緩めない。
「行くぞ。……報告書を書く。ありのままを」
サウィンは低く唸るように続ける。
「隠蔽なんて無理だ。こんな異常を飲み込むなんて……。僕らはもう、彼の『自爆』に巻き込まれてる」
ジェーンは最後に一度だけ振り返る。内臓ごと闇に落とそうとするような、異様な現象。扉の向こうにいるバルドの冷徹な怒り。それに触れた両手の平を、ただ握りしめることしかできなかった。




