72.ジェーン・ドゥの貸与
サウィンはしばらく呆然としていたが、唐突に立ち直った。今度はジェーンを正面から見据えて話し出す。
「それで、きみを借りたい理由だが」
「……うん」
「きみは肉体を変えられる。だから、《差分》が出る」
「《差分》? どういうこと?」
ジェーンの問いに、サウィンは、指標器を爪で弾いた。
「……シュラウドによれば、きみは《出力なし》の圧を抜く呪具でもある。もし僕が観測できないほど、バルドが奥に痕跡を押し込めてしまっているというなら、きみなら彼を引き出せるだろう」
サウィンは指標器に視線を落としたまま、独り言のように言った。
「きみが彼を救うための鍵だ、なんて言わない。ただ、バルドという空洞の『深さ』を測るための錘になってほしい」
*
ジェーンのあずかり知らぬところで、処理はすでに進んでいた。
課長室でサウィンとの対話について報告すると、グレイヴスは机上に貸与票を引きずり出し、使用目的の欄を埋めた。それ以外はすでに埋まっている。
「明日付でお前はサウィンへ貸与される。そのまま第三屍体安置室へ行け」
彼女はペンに触れる必要さえなかった。
「わかった」
「名目上は、調査協力として貸与する」
「名目? 他に目的があるの?」
「サウィンの報告は《出力なし》の延長だ。死者問答の前提が壊れかけているなら、保全課としても無視はできない」
グレイヴスは言い切り、余計な説明はしなかった。ジェーンは頷く。貸与という言葉が出た時点で、彼女に拒否権はない。
「それから、伝えておくことがある。儀式の直前、バルドに会ったいう変成術士がいてな。伝言を残した」
ジェーンが身を乗り出すのを一瞥して、グレイヴスは口を開いた。
「『《出力なし》は生前の終末保全から洗え。随行資産の件は変成術から洗え』」
「随行資産って……わたし?」
「推測するな。鵜呑みにしろ」
グレイヴスが鋭く釘を刺し、ジェーンは身を引いた。
「……。わかった」
「おまえは一時的にサウィンの監視下に置かれる。勝手に〈憑依〉するなよ。必要ならサウィンが指示を出す。お前は従うだけだ。いいな」
ジェーンはこくりと頷く。
「戻ったら報告しろ。『何が起きているか』を持ち帰れ」
ジェーンはまた軽く頷いて、課長室を出た。
廊下に出ると、空気が少しだけ冷たかった。歩きながら、さっきの伝言を頭の中で反復する。
終末保全。変成術。
ジェーンの今の肉体は、ジェーン自身のものではない。身元不明の屍体に、たまたま入っただけだ。
生体に入ったときは、身体の癖が拒絶として返ってきた。だが、この肉体には抵抗と呼べるほどの癖はなかった。それは、屍体だからなのだろうと思っていた。
だが、実際は、肉体の魔術的な履歴が希薄だったのだ。《出力なし》――そう呼ばれる状態だったからなのだろう。
この空っぽの肉体は、作られた可能性が高い。もしそうであれば、担い手は個人ではない。
*
第三屍体安置室は静かではあるが、張りつめていた。
ジェーンは距離を詰めすぎず、サウィンに声をかける。
「サウィン。課長の許可が出たよ。わたしは、あなたに貸与される」
サウィンは顔を上げた。ジェーンの言葉が耳に届いてから、ようやく頷いた。
「……ありがとう」
礼を言う余裕があることに、ジェーンはわずかに安心する。彼は、完全に壊れているわけではない。
サウィンは無言で歩き、局舎の裏手に待機していた黒塗りの公用車に乗り込んだ。ジェーンもそれに続く。運転席には、以前バルドの移送も担当したマイルズが座っていた。
「お疲れ様です。……あれ、バルドさんは一緒じゃないんですか?」
マイルズがバックミラー越しに、屈託のない声をかける。ジェーンは答えに詰まった。サウィンは指標器を弄り、視線を窓の外へ逃がしている。
仕方なく、ジェーンが口を開いた。
「……今日は、いないの」
「そうなんですね。いつもセットだと思ってたから」
マイルズはハンドルを切りながら、ダッシュボードに置いていた朝刊を脇に避けた。その拍子に、折り畳まれた紙面がジェーンの膝元に滑り落ちる。たまたま開いたのは訃報欄だった。日常の片隅を埋める無機質なフォントで印刷されている。
そこに、見知った名前があった。
エレゲイア。
ジェーンが息を呑む。バルドが渇望した情報が、今は安物のインクで誰の目にも触れる場所に転がっている。
「こ……これ」
ジェーンが指差すと、サウィンがちらりと紙面を見た。
「ああ。惜しい人が死んだな」
ジェーンはその名を覚えている。
「死霊術士エレゲイアの死は、関係者以外には開示されていないって、聞いてたのに」
サウィンがカチ、と強く指標器を弾いた。
「じゃあ、隠す必要がなくなったんだろう。……第三者照合も済んでるしな」
サウィンの声は、魔導機関の唸りに掻き消されそうなほど低かった。




