71.《呪具》の呼び出し
保全課フロアの執務区画で、グレイヴスは共用の机上に二つの報告書を広げていた。
ひとつはシュラウドの刻印所見。もうひとつがサウィンの死者問答所見である。
刻印所見のほうは検分票に沿って整理されており、わかりやすい。
そして、この報告書を持ってきたシュラウドは、ジェーンを返しに来るときにこう言ってきた。
「ジェーンちゃんは《出力なし》にしても、特殊だね」
「そんなのはわかり切っている。封印班の報告を読まなかったのか?」
「読んだよ。でもあれって現象についての説明だったじゃない? どうしてそうなるのかまでは言及してなかったでしょ?」
そう言って、シュラウドは報告書を指の背で叩いた。
死霊術において、屍体とは騒がしいものだ。生前や死の瞬間に焼き付いた感情や情報の残滓がノイズとなって震えている。
だが、ジェーンにはそれがない。いや、無いというと語弊がある。耳の奥が籠るような、気圧の変化にも似た無音の圧力があった。
「普通の《出力なし》っていうのはさ、出てこないだけなんだよ。だけど、ジェーンちゃんは違うわけ。周囲の音を全部吸い込んで、消してる。無いってよりは、《真空》」
シュラウドは、懐から大腿骨を取り出した。――封印こそされているが、汚染された触媒だった。
グレイヴスの視線が鋭くなる。
「おい。物騒だぞ」
「保全課長さんは見たことないでしょ? 見たほうが早いよ」
そうして大腿骨にかかっていた紐を取り払う。金属同士が触れあうような不快な音が、耳の奥でかすかに鳴る。
シュラウドに言われるまま、ジェーンはその骨に触れた。瞬間、骨から溢れ出していた音がピタリと止まる。ジェーンのほうへ流れ込んでいく。溢れた水が排水口へ吸い込まれるように。
「ジェーンちゃんは穴だ。《真空》の穴。近くにあれば、不安定な魔力は霧散するより先に、きみの中へなだれ込む。自律できるのも、触媒汚染を止められるのも、全部その空っぽの胃袋に収めて、動力にしてるからだ」
グレイヴスが問う。
「バルドは、気づかなかったのか」
「さすがに気づいたと思うよ。でもバルドって感覚の話が嫌いだからね」
「……嫌い、で済ませてほしくなかったがね」
グレイヴスが小さく息を吐く。その声圧は少し弱かった。
シュラウドが去っても、ジェーンはしばらく無言で壁際に佇んでいた。情報を咀嚼しているような表情だった。
グレイヴスはそんなジェーンを無視して、サウィンの報告書に目をやる。
サウィンの報告は、奇妙だった。
用語こそ正確だが、意味が通らない。結論だけを取れば『生体で《出力なし》事例あり』だと、かろうじてわかる。だが、文ではひたすら「無い」と繰り返していた。
グレイヴスは眉間に皺を寄せ、文をなぞる指を止める。読み直し、独り言のように口にした。
「……無い? 何が」
報告書の最後に、唐突な追記がある。ほとんど走り書きのメモだが、要求ははっきりしていた。
――ジェーン・ドゥを貸してほしい。
グレイヴスはその一行を二度読んだ。要求自体は理解できる。だが、「なぜこの要求が必要なのか」がごっそり抜け落ちている。
「埒が明かないな。――ジェーン・ドゥ」
「……なに?」
グレイヴスの後ろに控えていたジェーンが、どこか上の空で返事をする。グレイヴスは振り向かないまま報告書を指で叩き、ジェーンに示した。
「サウィンの報告書は支離滅裂だ。何を言いたかったか探ってこい。……なんにせよ、それがわからなければ貸せないからな」
グレイヴスは引き出しから貸与票を取り出し、万年筆を走らせた。
「これを持っていけ。サウィンに、受領印を打たせるのを忘れるなよ」
「わかった」
ジェーンは、青いインクが滲むその紙を受け取った。
夜がすっかり更けた頃、保全課フロアを抜ける。廊下を進み、サウィンがいるであろうエリアへ向かった。
サウィンはただ一人でそこにいた。手元の明かりを小さく灯したまま、席に座ってうつむいている。
ジェーンは距離を詰めすぎない位置で止まり、声をかけた。
「サウィン?」
サウィンは黙ったままだった。
ジェーンは数秒置いて、また短く訊き返した。
「ジェーン・ドゥよ。どうして、わたしを呼んだの?」
ジェーンはグレイヴスの命令を思い出しながら、続けた。
「あなたの報告書に、わたしの名前があった。その理由を聞きに来たの。そうでないと貸せないんだって」
サウィンはようやく顔を上げた。視線が机上と空中を往復し、やがて言葉を選ぶように息を吸った。
「……きみは、ただの随行資産じゃなくて、《呪具》だと聞いた。それについて、詳しく教えてくれ」
詳しくと言われても、ジェーンに死霊術の専門知識はない。だが、サウィンの眼差しは真剣で、ジェーンは説明を探すしかなかった。
「ええと。そうね。わたしは、肉体がないのよ。だから、いろんな肉体を転々としてきたの。……その。生体も、屍体も、どちらにも入れるわ。
この能力について、バルドは〈憑依〉だろうって予測を立てていた」
「憑依……」
サウィンは反復し、言葉を確かめるように小さく頷く。ジェーンは続ける。
「わたしが屍体に憑依すると、そこからバルドが過去につなげるの。わたしがあちら側……たぶん、《死》の世界に近いから、同じように死んでいる《過去》のゲートを開くのに使えるんだって。それは、〈終端接続〉って言ったかな」
「ああ。……あちら側。……死。反動の……仮死」
サウィンは机上に視線を落としたまま、ぽつぽつと言葉を漏らす。ジェーンに向けてではなく、自分の理解を組み立てる独り言に近い。
ジェーンは〈終端接続〉について、自分の知る限りの説明を続けた。だが、サウィンはそれを聞いているようには見えなかった。彼はうつむいたまま、手元にある真鍮の指標器を、親指の爪でカチ、カチ、とはじき続けている。
「……サウィン?」
爪が真鍮を弾く音が止まる。
「バルドに会った」
ジェーンが目を見開く。
「えっと……バルドは、元気だった?」
言ってしまって、ジェーンは後悔する。幼くてバカバカしい問いだ。だがサウィンにとってはそうでなかったらしい。また指が動いたが、その動きはどこかを彷徨っているようだった。
「……いなかった」
「いない? え……? 会ったんじゃないの?」
「肉体だけだった」
ぽつり、とサウィンが言う。
「阻まれていない。見えない。聞こえない……いないんだ。バルドはいなかった」
最後の一言だけ、サウィンは顔を上げて言った。その目にジェーンの姿は映っていなかった。




