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アンダーグラウンドへようこそ  作者: 遠野 文弓
第四章 転生(リーンカーネイト)

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69.誰もいない

 看護師が先導し、若い連絡官が後ろにつく。サウィンはその中間を歩いた。杖――尺骨ほどの(オーク)の焦点具を、コートの内側で握り込んだまま。


「こちらです」


 看護師が立ち止まり、鍵を回した。

 扉の向こうは薄暗い。

 バルドはベッドに横たわっていた。胸は、機器に合わせて浅く上下していた。一定のリズムで胸が動いている。――それだけで、本人の呼吸でないことがわかる。


 顔にほどよく血色があることが、逆に不気味だった。仮死時は自発的な呼吸が止まるものの、心臓は動き続ける。バルドは一時期、心肺停止に準じる状態になったと聞いた。そこから強制的に心肺機能を生かされ、今も動き続けている。術者が仮死に陥ると想定されていなければ処置は遅れ、間に合わなかっただろう。


 ――幸運なのか、不幸なのか。そこまで考えて、サウィンは小さく頭を振った。


 点滴の管が腕に刺さって栄養を送っていた。一週間も経っているなら点滴は二、三度ほど刺し直しているはずだが、鬱血の一つもない。


 看護師が言う。


「脈と体温は維持しています。呼吸も補助下で成立しています。刺激への反応はありません。――通常、この状態がここまで続くことは……」


 言いかけて、止めた。言えば責任が伴うとでも思ったのかもしれない。

 看護師は、話を切り替えた。


「何をするにせよ、身体は動かさないでください。管も外さないで。刺激も最小限に」


「わかってる。触れるだけだ」


 サウィンは短く言った。触れるだけで済むならそうしたい。

 オークの杖を取り出し、先端をバルドの手首に軽く当てた。

 静かだった。


 ――意識不明でも、普通なら、この時点でうるさいのに。


 生体の《痕跡》は、弱っていても小さくならない。雑音のような揺れが必ずある。本人の癖。生前から積み上がった、本人でしかない手触り。


 それがないなら、《壁》が来る。塗り固めたような遮断。突き飛ばすような抵抗。触れた指先が跳ね返る、血流のような感触。


 どれも、読めない。


 サウィンは手を止めた。もう一度、杖に指を置く。今は見えるかどうかだけでいい。

 それだけでいいのに。


 連絡官が小声で問う。


「……どうですか」


 サウィンは答えなかった。もう一度、バルドの手首に焦点具を当てた。


 ――ない。

 阻まれているのではない。押し返されない。濁りもしない。抵抗がない。手掛かりさえもない。


 空洞に手を突っ込んだみたいだ。


 サウィンの手から、焦点具が滑り落ちた。床板に当たって、乾いた音を立てて転がる。看護師と連絡官が、反射で身をすくめる。


「……なんだ、これ?」


 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。

 連絡官が慌てて一歩前に出る。


「ど、どうかしましたか? 反応が弱い、とか?」


 看護師はベッドの機器に視線を走らせる。生命維持に問題はない。針は変わらず動いている。異変はない。だから余計に、サウィンの動揺が浮いて見える。


「なにも感じない」


 連絡官がぽかんとした顔をする。看護師も、意味が追いつかない。


 《痕跡》。

 本人を本人たらしめる手掛かり。それは生の履歴だ。生きていれば必ずある。死にかけていても拾える。死んでさえも残る。


 《出力なし》屍体は阻まれていただけだった。痕跡がないわけではなく、閉じ込められていた。生命の抜け殻に痕跡が残らないというのは、本来ありえないことなのだ。

 サウィンは咄嗟に口を閉じたが、脳内ではすでに結論へ到達してしまっていた。


 ――誰も、いない。


「……バルド」


 名前が、勝手にこぼれる。

 サウィンはベッドの顔を見た。そこにあるのは、同僚の顔だ。見慣れた顔立ちだった。だが今は、その顔がまったくの別人に見える。


(おまえ――何を……?)


 サウィンは息を吐いて、目元を覆った。

 そうして、しばらくその状態のまま動けなくなってしまった。


 *


 扉の外で靴音が止まった。硬い靴底の音だった。

 扉がノックされ、誰も待たず勝手に開く。


 背広の上役が、扉の隙間から顔を出した。連絡官が慌てて立ち、頭を下げる。


「あの、お越しいただき――」


「いい。状況は?」


 上役は短く言った。視線は目元を覆ったサウィンとベッドを往復するだけで、感情がなかった。そして、微動だにしないサウィンに目を留める。


「サウィン氏」


 サウィンは目元を覆ったまま答えなかったが、上役は淡々と続けた。


「あなたの裁量に委ねると言ったが、こちらも結果が要るのでね。単語だけでもいい。本人が何か『思い当たる』断片さえ拾えれば、説明に使える。拾ってもらえませんか」


 看護師の眉が僅かに動く。

 サウィンはようやく目元から手を離し、絞り出すような声で言った。


「……やっぱり、ここまでやらせるか」


 上役が聞き返す。


「何か?」


 サウィンは顔を上げずに言った。

 生体にやれば、それは同意なき抜き取りだ。


「〈精神略奪(ドミネイション)〉だ。あんたが今やらせようとしているのは」


 上役は眉ひとつ動かさない。


「いいえ。あなたの裁量です。こちらは『確認』が欲しいと言っているだけだ」


「言い換えれば、何でもできる」


 その言葉に、看護師が一歩前へ出た。


「仮死状態の身体を動かすのは、絶対に駄目です」


「動かさない。そうだね?」


 上役の、圧力にも似た問いに、サウィンは俯いた。


「……ああ。動かさない」


 それでも、手は動いた。サウィンにはもう、理不尽に抵抗する余力が残っていなかった。


 鞄の中から、真鍮の指標器を取り出す。針は眠るようにゼロを指している。

 小型の《観測統計式(オブザーヴ・モデル)》――死者問答ダイアログ用の複雑な術式を実行する装置。


 サウィンは、細い線を一本、引き出した。金属の細線。

 看護師が身を乗り出しかける。


「触れるだけだ」


 言いながら、サウィンは金属線の一本をバルドの胸元に軽く当てた。もう一本を自分の手首に巻きつけるように固定した。金属線の先端を装置の端子に差し込む。そうして杖に指を添え、観測に入る。


 だが、真鍮の針は――動かない。

 ゼロのままだ。


 サウィンは一瞬、息を止めた。止めたことに気づいて、ゆっくり吐いた。


(落ち着け)


 装置の不調だ。接触不良。ダイアルが違う。そういう逃げ道があるはずだ。だが、針が動かないことに、サウィンは内心でホッとしていた。


 ――何も引き出せないなら、〈精神略奪(ドミネイション)〉にはならない……。


 サウィンは自分側の線を外し、指標器を覗き込む。針はゼロだ。異常は見えない。


 自分の手首に線を当て直すと、針はあっさりと震えた。

 装置は正常だ。線も通っている。ダイアルも正しい。


 連絡官が、喉を鳴らした。


「……どう、ですか」


 サウィンは答えなかった。答えが、言葉にならなかった。

 もう一度だけ、バルドの胸元に線を当てる。


 微動だにしない。


「サウィン氏?」


 上役が、どこかのんびりとした声で訊いた。


「それは〈死者問答(ダイアログ)〉の道具でしょう。氏に質問はできないのかな?」


「ああ、質問……」


 うわの空で繰り返し、のろのろと指が動く。指標器の針を、ただ揺れを見るだけの状態から、質問が入る状態へ切り替える。

 〈死者問答(ダイアログ)〉の応用。死の断片を拾う手順を、生体に当てる行為。

 それでもどこか、確信があったのかもしれない。


 バルドは何も話さないはずだ。

 ――お願いだ。何も言うな。


 願いに反して、手は正確に動く。サウィンは、線の当て方を変えた。手首から、わずかに位置をずらす。脈の上。腱の上。血管の上。


 ゼロ。


 自分の側で一度だけ揺れを出して、再びバルドに当てる。手順は成立している。装置も成立している。


「……『あなたは、〈死者蘇生リザレクション〉施行後、想定よりも重たい仮死状態に陥った。そのことについて、心当たりはあるか』」


 バルドは喋らない。針は動かない。


 看護師が押し殺した声で言った。


「反応が、弱いのですか」


「……ない」


 声が、思ったよりかすれて出た。恐怖が混ざって、喉がうまく動かない。

 連絡官が、ぽかんとする。


「ない、って……その、痕跡が、読めない?」


「ない」


 サウィンは繰り返した。言葉を探したが、探すのをやめた。説明のために言葉を重ねるほど、こいつらは増えた言葉の隙間から『やれる手順』を見つけてくる。


 連絡官が、おそるおそる言う。


「サウィンさん……?」


「黙れ」


 サウィンが唸る。言葉を強くしすぎたことに気づきもしなかった。


 そのとき、視界の端で、何かが揺れた。

 壁に小さな姿見がかかっている。室内の灯りを鈍く返す反射。その反射の奥に、扉が映っている。


 扉にはめ込まれている磨りガラス。その向こうに、白い人影が立っていた。


 病衣の白だ。それが、廊下に立っている。

 その立ち方は妙に静かだ。そもそも、あれが人である保証もない。だが、サウィンは確信していた。


 ――こちらを見ている。


 指をきつく握り締める。

 サウィンは、振り向けなかった。

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