69.誰もいない
看護師が先導し、若い連絡官が後ろにつく。サウィンはその中間を歩いた。杖――尺骨ほどの楢の焦点具を、コートの内側で握り込んだまま。
「こちらです」
看護師が立ち止まり、鍵を回した。
扉の向こうは薄暗い。
バルドはベッドに横たわっていた。胸は、機器に合わせて浅く上下していた。一定のリズムで胸が動いている。――それだけで、本人の呼吸でないことがわかる。
顔にほどよく血色があることが、逆に不気味だった。仮死時は自発的な呼吸が止まるものの、心臓は動き続ける。バルドは一時期、心肺停止に準じる状態になったと聞いた。そこから強制的に心肺機能を生かされ、今も動き続けている。術者が仮死に陥ると想定されていなければ処置は遅れ、間に合わなかっただろう。
――幸運なのか、不幸なのか。そこまで考えて、サウィンは小さく頭を振った。
点滴の管が腕に刺さって栄養を送っていた。一週間も経っているなら点滴は二、三度ほど刺し直しているはずだが、鬱血の一つもない。
看護師が言う。
「脈と体温は維持しています。呼吸も補助下で成立しています。刺激への反応はありません。――通常、この状態がここまで続くことは……」
言いかけて、止めた。言えば責任が伴うとでも思ったのかもしれない。
看護師は、話を切り替えた。
「何をするにせよ、身体は動かさないでください。管も外さないで。刺激も最小限に」
「わかってる。触れるだけだ」
サウィンは短く言った。触れるだけで済むならそうしたい。
オークの杖を取り出し、先端をバルドの手首に軽く当てた。
静かだった。
――意識不明でも、普通なら、この時点でうるさいのに。
生体の《痕跡》は、弱っていても小さくならない。雑音のような揺れが必ずある。本人の癖。生前から積み上がった、本人でしかない手触り。
それがないなら、《壁》が来る。塗り固めたような遮断。突き飛ばすような抵抗。触れた指先が跳ね返る、血流のような感触。
どれも、読めない。
サウィンは手を止めた。もう一度、杖に指を置く。今は見えるかどうかだけでいい。
それだけでいいのに。
連絡官が小声で問う。
「……どうですか」
サウィンは答えなかった。もう一度、バルドの手首に焦点具を当てた。
――ない。
阻まれているのではない。押し返されない。濁りもしない。抵抗がない。手掛かりさえもない。
空洞に手を突っ込んだみたいだ。
サウィンの手から、焦点具が滑り落ちた。床板に当たって、乾いた音を立てて転がる。看護師と連絡官が、反射で身をすくめる。
「……なんだ、これ?」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
連絡官が慌てて一歩前に出る。
「ど、どうかしましたか? 反応が弱い、とか?」
看護師はベッドの機器に視線を走らせる。生命維持に問題はない。針は変わらず動いている。異変はない。だから余計に、サウィンの動揺が浮いて見える。
「なにも感じない」
連絡官がぽかんとした顔をする。看護師も、意味が追いつかない。
《痕跡》。
本人を本人たらしめる手掛かり。それは生の履歴だ。生きていれば必ずある。死にかけていても拾える。死んでさえも残る。
《出力なし》屍体は阻まれていただけだった。痕跡がないわけではなく、閉じ込められていた。生命の抜け殻に痕跡が残らないというのは、本来ありえないことなのだ。
サウィンは咄嗟に口を閉じたが、脳内ではすでに結論へ到達してしまっていた。
――誰も、いない。
「……バルド」
名前が、勝手にこぼれる。
サウィンはベッドの顔を見た。そこにあるのは、同僚の顔だ。見慣れた顔立ちだった。だが今は、その顔がまったくの別人に見える。
(おまえ――何を……?)
サウィンは息を吐いて、目元を覆った。
そうして、しばらくその状態のまま動けなくなってしまった。
*
扉の外で靴音が止まった。硬い靴底の音だった。
扉がノックされ、誰も待たず勝手に開く。
背広の上役が、扉の隙間から顔を出した。連絡官が慌てて立ち、頭を下げる。
「あの、お越しいただき――」
「いい。状況は?」
上役は短く言った。視線は目元を覆ったサウィンとベッドを往復するだけで、感情がなかった。そして、微動だにしないサウィンに目を留める。
「サウィン氏」
サウィンは目元を覆ったまま答えなかったが、上役は淡々と続けた。
「あなたの裁量に委ねると言ったが、こちらも結果が要るのでね。単語だけでもいい。本人が何か『思い当たる』断片さえ拾えれば、説明に使える。拾ってもらえませんか」
看護師の眉が僅かに動く。
サウィンはようやく目元から手を離し、絞り出すような声で言った。
「……やっぱり、ここまでやらせるか」
上役が聞き返す。
「何か?」
サウィンは顔を上げずに言った。
生体にやれば、それは同意なき抜き取りだ。
「〈精神略奪〉だ。あんたが今やらせようとしているのは」
上役は眉ひとつ動かさない。
「いいえ。あなたの裁量です。こちらは『確認』が欲しいと言っているだけだ」
「言い換えれば、何でもできる」
その言葉に、看護師が一歩前へ出た。
「仮死状態の身体を動かすのは、絶対に駄目です」
「動かさない。そうだね?」
上役の、圧力にも似た問いに、サウィンは俯いた。
「……ああ。動かさない」
それでも、手は動いた。サウィンにはもう、理不尽に抵抗する余力が残っていなかった。
鞄の中から、真鍮の指標器を取り出す。針は眠るようにゼロを指している。
小型の《観測統計式》――死者問答用の複雑な術式を実行する装置。
サウィンは、細い線を一本、引き出した。金属の細線。
看護師が身を乗り出しかける。
「触れるだけだ」
言いながら、サウィンは金属線の一本をバルドの胸元に軽く当てた。もう一本を自分の手首に巻きつけるように固定した。金属線の先端を装置の端子に差し込む。そうして杖に指を添え、観測に入る。
だが、真鍮の針は――動かない。
ゼロのままだ。
サウィンは一瞬、息を止めた。止めたことに気づいて、ゆっくり吐いた。
(落ち着け)
装置の不調だ。接触不良。ダイアルが違う。そういう逃げ道があるはずだ。だが、針が動かないことに、サウィンは内心でホッとしていた。
――何も引き出せないなら、〈精神略奪〉にはならない……。
サウィンは自分側の線を外し、指標器を覗き込む。針はゼロだ。異常は見えない。
自分の手首に線を当て直すと、針はあっさりと震えた。
装置は正常だ。線も通っている。ダイアルも正しい。
連絡官が、喉を鳴らした。
「……どう、ですか」
サウィンは答えなかった。答えが、言葉にならなかった。
もう一度だけ、バルドの胸元に線を当てる。
微動だにしない。
「サウィン氏?」
上役が、どこかのんびりとした声で訊いた。
「それは〈死者問答〉の道具でしょう。氏に質問はできないのかな?」
「ああ、質問……」
うわの空で繰り返し、のろのろと指が動く。指標器の針を、ただ揺れを見るだけの状態から、質問が入る状態へ切り替える。
〈死者問答〉の応用。死の断片を拾う手順を、生体に当てる行為。
それでもどこか、確信があったのかもしれない。
バルドは何も話さないはずだ。
――お願いだ。何も言うな。
願いに反して、手は正確に動く。サウィンは、線の当て方を変えた。手首から、わずかに位置をずらす。脈の上。腱の上。血管の上。
ゼロ。
自分の側で一度だけ揺れを出して、再びバルドに当てる。手順は成立している。装置も成立している。
「……『あなたは、〈死者蘇生〉施行後、想定よりも重たい仮死状態に陥った。そのことについて、心当たりはあるか』」
バルドは喋らない。針は動かない。
看護師が押し殺した声で言った。
「反応が、弱いのですか」
「……ない」
声が、思ったよりかすれて出た。恐怖が混ざって、喉がうまく動かない。
連絡官が、ぽかんとする。
「ない、って……その、痕跡が、読めない?」
「ない」
サウィンは繰り返した。言葉を探したが、探すのをやめた。説明のために言葉を重ねるほど、こいつらは増えた言葉の隙間から『やれる手順』を見つけてくる。
連絡官が、おそるおそる言う。
「サウィンさん……?」
「黙れ」
サウィンが唸る。言葉を強くしすぎたことに気づきもしなかった。
そのとき、視界の端で、何かが揺れた。
壁に小さな姿見がかかっている。室内の灯りを鈍く返す反射。その反射の奥に、扉が映っている。
扉にはめ込まれている磨りガラス。その向こうに、白い人影が立っていた。
病衣の白だ。それが、廊下に立っている。
その立ち方は妙に静かだ。そもそも、あれが人である保証もない。だが、サウィンは確信していた。
――こちらを見ている。
指をきつく握り締める。
サウィンは、振り向けなかった。




