68.痕跡の違和感
治癒院の床は磨かれていて、靴裏がわずかに吸い付くようだ。先導は看護師、後ろに若い連絡官がつく。
廊下の突き当たりに扉がある。看護師が鍵を回して扉を開ける。向こうはさらに薄暗い。病室が並ぶ区画だ。
「こちらです」
案内役の看護師が一歩踏み込んで扉を押さえる。
サウィンはその先へ出た。正面の遠く、区画の入口脇に、点滴の打ち直し用の小さな処置スペースがあった。簡易ベッドが一つ置かれていて、そこに腰掛ける人影が二つ見えた。
一つは、白い病衣の男だった。座高がずいぶん高い。もう一つの人影は小柄な少年――看護補助だ。ベッドの傍に立っており、先端に管の付いた注射器を持っている。注射器には黒い液体が詰まっていて、サウィンにはそれが貧血治療用の鉄剤だとわかった。
ベッドの男と看護補助は、まだこちらに気付いていないようだ。
男は手元を見て、息をつくように言った。
「針先はもっと寝かせろ」
看護補助の指が止まる。
「えっと……」
「押し込むな。血管に滑り込ませるように」
サウィンもつい、針先が収まるのを見届けてしまう。
コンスタンティノス・アルギロス。写真で見た顔と一致する。
頬は痩せており、肌に血の気はないが、死人の色ではない。ちゃんと生きている。その腕に、たっぷり三分かけて鉄剤が流し込まれたのを確認してから、扉口の看護師が小さく声を出した。
「アルギロス氏。――お時間です」
男が、ゆっくりこちらを向いた。そうして視線だけが動く。看護師、連絡官、最後にサウィンへ固定される。
「もう代わりを引っ張ってきたのか。優秀なことだ」
アルギロスが言った。すこし皮肉の混じる声が低い。
若い連絡官が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「お手数をおかけして――」
「問題ない」
遮る言葉が短い。その言葉に、サウィンは思わずアルギロスの口元を見てしまって、咄嗟に目線を落とした。
――余計なことは、考えないに限る。余計な思考は毒のように自らを苛み、必ず致命傷になる。
看護師に促され、扉の前に立つ。
特別室のリビングが広がっていた。ベッド、椅子、小さな机。水差し。紙と鉛筆が揃えられている。
「こちらへ」
看護師が促す。アルギロスは素直に従って部屋に入り、椅子に腰を下ろした。
「管理局からお呼びした専門家です」
連絡官はサウィンを示した。
「死霊術士サウィン。氏の専門は〈死者問答〉ですが、《痕跡》の本人確認も可能ということで」
「そうだろうな」
それだけ言ったアルギロスの視線が、またサウィンに戻る。
観察されている。そういう種類の圧だった。
サウィンは外套の内側に手を入れ、小さな真鍮の指標器を取り出した。掌に収まる程度のものだ。針が一本。蓋の内側に刻まれた細い目盛り。
古い型の、簡易な《視る》道具。
「触れはしない。表面から視るだけだ」
サウィンがそう言うと、看護師が頷いた。連絡官は緊張した顔でメモ用紙を構える。鉛筆の先が紙に触れて、カリ、と音がした。
アルギロスは黙って腕を差し出した。
サウィンは真鍮の指標器をアルギロスの手首に近づけた。皮膚には触れない。触れなくても拾える距離でいい――生体の《痕跡》ならそれで十分だ。うるさいほど響く。
針が、勢いよく動いた。
サウィンの視界に、全身に蠢く痕跡が表れた。耳がノイズめいた音を拾う。
生きているのだから当然だ。しかし、サウィンの直感がわずかな違和感を告げていた。
(やかましい。……。多い、のか?)
一つの癖としてまとまらない。二重、三重と揺れが重なっているみたいだった。
それなのに、重なり方が妙に揃っている。
揃いすぎている。
アルギロスが、静かに問う。
「見えるか?」
質問というより確認だった。
サウィンはぼそりと言った。
「見えすぎるくらいだ」
蘇生にしても、他の術式にしても、こうなる説明がつかない。
若い連絡官が、空気を読みきれないまま尋ねる。
「……その、どうでしょうか」
サウィンは連絡官を見た。連絡官の目は真面目だ。
「記録と突き合わせないと、なんとも。氏の痕跡記録をくれ。……それから、〈死者蘇生〉の施行記録も」
サウィンは指標器を閉じ、真鍮の蓋をカチリと留めた。視線を上げる。アルギロスと目が合った。サウィンは一瞬だけ遅れて、目線をずらした。
「それらの開示は、ええと、先ほども申し上げたとおり――」
「同意書をくれ」
連絡官は慌てて封筒を取り出し、必要な箇所に紙を差し込む。
カーボン紙の端がはみ出しているのをそのままに、サウィンは署名をした。文字は崩れなかった。要人の圧力に晒されて手が震えるほど若くはない。そんな反応をひねり出す気力はない。
連絡官が封筒を抱え直し、頭を下げる。
「ありがとうございます。では――」
「次だ」
サウィンは遮った。
「……次?」
サウィンはさっさと立ち上がって踵を返した。足を止めなかった。返事もしなかった。
連絡官がその背中を追い、閉じた扉を呆然と眺めたまま、言葉を失った。看護師を見る。
看護師も困惑したようだったが、小さく頷いた。
*
サウィンは足早に特別室から出た後、廊下に立ち尽くしていた。
アルギロス氏の何気ないセリフを、頭の中で反芻する。
――もう代わりを引っ張ってきたのか。優秀なことだ。
滑らかに、サウィンを「代わり」と認識していた。
断定そのものは、異常ではない。だが本来、そこには確認の一言が挟まるはずではないのか。アルギロス氏は蘇ってから、術者と顔を合わせたのだろうか。そうに違いない。だが……。
そう思い込もうとするのに、アルギロス氏に一切の逡巡がなかったことが、言いようのない気味の悪さとして残った。
看護師と連絡官が、特別室の扉から出てきた。
看護師が少し先を歩き、振り返らずに言う。
「では、こちらへどうぞ。術者のいる隔離室へご案内いたします」
サウィンは返事をしなかった。外套の内側に手を入れ、オークの焦点具を探り当てる。木肌のやわらかい冷たさがあった。――真鍮より、ずっと現実的な冷たさだった。




