66.コンスタンティノス・アルギロス
彼は目を開けた。
天井は高く、高所にはめ込み窓が並んでいる。壁には、静かに針を進める時計と、果物を描いた静物画が一つずつ。ベッド脇の小机には、身だしなみを整えるための衛生用品が一通り、トレイの上に置いてあった。
彼は上体を起こし、まず自分の手を見た。切りそろえられた爪の白い部分、指関節のしわ、皮膚の下から透けた青い血管。
次に、トレイの上に載っていた手鏡を取り、顔を覗き込んだ。眉の形、眼窩の陰影、頬骨、血色のいい唇。どこにも視線は長く留まらない。必要な分だけ見て、鏡を戻した。
扉の前で、足音が止まった。開錠したらしい金属の音がして、扉がノックされる。
間髪を入れず、扉が半分だけ開いた。
白衣の女性が顔を出した。――看護師だ、とわかった。用箋挟を片腕に載せている。
彼は声の調子を変えずに言った。
「水を。できれば、新聞も」
「新聞は検閲済みのものだけでして、申請が要ります」
看護師は腰のポーチからペンを取り出し、用箋挟と一緒に差し出した。
「ここに署名をお願いします。面会と、外部への文書の取り扱いについての確認です」
彼はペンを受け取り、紙に視線を落とした。署名欄だけを見る。癖を確かめるように、いったん空中でペンを動かしてから、ペン先を書類に押し付ける。
コンスタンティノス・アルギロス
書き終えたあと、彼はちらりと署名を眺めた。線を追うように視線でなぞってから、看護師にペンを返す。
「この拘束はいつまで続く?」
「あなたがアルギロス氏であることの確認が取れるまで、と伺っています」
そう言い残し、看護師は小さく会釈をして立ち去った。
ほどなく、銀盆にのせられた水差しと金属製のコップ、新聞が届いた。
ゆっくりと扉が閉められるのを見送ってから、彼は水を一口飲み、新聞を広げた。
一面から丁寧に文字を追う。
訃報欄へ到達したところで、ひとつ見慣れた名前を見つけた。
エレゲイア。
悼辞文は淡々としている。余計な感情は挟まれない。
彼は新聞を畳み、机に置いた。
扉の外で、また足音が止まった。
「アルギロス氏。面会です」
先ほどの看護師だった。彼は黙って頷いて、腰を上げた。
看護師が先に歩き、彼は後ろにつく。
廊下は直線で、少し歩くと開けた場所に出た。そこに、看護師の詰所と事務所を兼ねているらしいカウンターがある。腰掛けていた一人が彼の動きを視線で追った。
逃げる気配を出せば、すぐ止められるのだろう。
「説明室」と書かれた扉の奥に通される。
説明室は決して広くはなく、守秘を含む話のしやすそうな空間だった。そこに、男が座っていた。首元の詰まったシャツに、胸には札。政府連絡室、と小さく書いてある。
男は、彼を見るとすぐに立ち上がって、笑みを顔に貼りつけた。
「お待ちしておりました、アルギロス氏」
声が若い。男――若手は会釈をした。頭を下げて動きを止める瞬間に、呼吸を整える仕草が透ける。
「お身体の状態は、いかがですか」
彼は椅子に座り、背を預けた。余裕のある姿勢を先に作る。
「問題ない。歩ける」
「かしこまりました。では、お手数ですがいくつか質問に答えていただきたい」
そう言って、若手は質問を始めた。氏名、生年月日、出生地、職歴。
彼は必要な範囲で答えた。言い淀まなかった。どれも紙の上で明記されているものばかりで、考える必要さえない。
話しすぎない。自分から余計な情報は差し出さない。
若手が紙をめくりながら、自分を納得させるように小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「これで本人確認が取れたことになるのか?」
若手は言葉を探した。自分の領分ではない単語を、丁寧に扱おうとする間だった。
「その……死霊術による確認が残っています。術者が仮死状態にありまして……通常なら数日で戻るはずだったんですが、一週間経っても――」
若手は言ってから、自分が余計なことを言ったと気づいたように口を閉じた。
彼はその沈黙を気にせず、ただ首を小さく傾けてから、言った。
「代わりはいないのか?」
「えっ?」
「『術者が戻るまで待て』と言うつもりなら、今すぐその根拠を出せ。戻らない場合の手順は? 担当は? 候補はいないのか」
若手は口を開けたまま、一瞬だけ固まった。
答えるべき順番が多すぎる、という顔だった。
「そ、それは……《痕跡》を正確に読むとなると、その、〈死者問答〉の専門家に当たることになりそうで……数も限られますし」
「なるほど」
彼は頷いた。納得していることを知らしめるように。
「〈死者問答〉ね。もともと屍体だった身体には妥当かもしれないな」
まったく笑えない冗談に、若手は顔をこわばらせる。緊張を誤魔化すように、指先を襟にやった。
彼は、若手から視線を外した。壁の静物画を見る。彼の個室にあるものと似た絵だった。少しかたちの崩れた果物が、ガラスの器にあふれそうなほど盛られている。それが熟れているのか腐っているのか、遠目では判別できなかった。
彼は静かに口を開いた。
「もう一つ、質問をしても?」
「ええ、どうぞ」
若手はすっと背筋を伸ばす。
彼はテーブルに載せた指を二度、叩いた。
「新聞に死霊術士エレゲイアの訃報が出ている。彼女とは顔見知りでね。葬儀に顔を出しておきたいのだが」
「申し訳ないのですが、本人性が確認できなければ外出は許可できません」
「そうか。殺しても死ぬような女ではなかったのにな。死因は?」
「事故死です」
「そういうことになっているのか?」
若手は言いかけて止まった。唇が薄く開くが、言葉は出てこない。
彼はその逡巡を待たず、重々しく頷いた。
「君はわかりやすいな。まあいい。――ここで、何をすればいい?」
「手続きに従っていただきたく。外出はお控えいただきたいのですが、治癒院内であれば出歩いていただいて問題ありません。御用があれば、都度こちらからお伺いいたします」
彼はテーブルの上に置いたままだった指を、また軽く動かした。爪の先で二度叩く。音は小さかったが、若手の視線がそこに吸われた。
「そこまでする必要があるのか?」
「必要な措置です」
「措置、ね」
彼は笑わなかった。若手はそれを不機嫌と受け取ったのか、慌てて言い添えた。
「何卒、ご理解ください。安全のためなんです」
「わかった」
彼は立ち上がり、若手を見下ろした。若手もまた立ち上がり、ほっとしたように書類を抱え直してから、先んじて廊下へ出た。
若手の先導で個室へ戻る途中、カウンターの前を通る。一人が立ち上がり、若手に話しかけた。その間、彼は立ち止まっていた。
奥の空間で、誰かが小声で話している内容が耳に入る。
「――代わりのネクロマンサー、今日中に返事を取れそうか?」
「また管理局へ要請か? なんて言われるか……」
再び名を呼ばれ、促されるまで、彼は視線をそこに置いたまま微動だにしなかった。
彼は歩幅を一定に保ったまま扉の前に着いた。
看護師が鍵を開け、中へ促す。
室内へ入る直前、彼は一度だけ振り返った。
扉が閉まった。
彼はゆっくりと肘掛椅子に腰かけ、扉の上のほうへ視線をやる。天井と壁の境目あたりをしばらく見つめていた。
そして、彼は笑った。声は出さなかった。




