64.検分室にて ①
屍体を収めるのは地下と決まっている。第三屍体安置室の隣に設けられた「証拠検分室」にも窓は一つもなく、高い位置に換気口を兼ねたのぞき窓が設けられているだけで、外光は入らない。廊下は昼間でも薄暗いが、安置室は魔法光で煌々と照らされるので、机に置いてあるスタンド灯の黄色も塗りつぶされている。
ジェーンはグレイヴスのあとを黙ってついて行った。硬い床なのに、靴音が妙に小さく感じられる。自分が出すものは、衣擦れの音すら遠慮しているような気がした。
――どんなに気を揉んでも、自分の判断はここには関与しない。
そのことを、随行資産はよく知っていた。
それは悲しみや動揺というよりも、領分の違いに対する自覚だ。
自分の足でバルドに会いに行くこともできない。起きた出来事の因果に踏み込むことも許されない。ジェーンには情報が足りず、立場がない。ただ、役割だけがあった。しかし、それもバルドがいないと成立しえないものだ。
それが静かな無力感として胸に残っている。
グレイヴスが中に入ると、白衣の女がすでに手袋をはめ終えていた。監察医のルツだ。
作業台には、紙の検分票と鉛筆。道具一式は木箱に収められて並び、金属のトレーにはピンセット、メス、ルーペが準備されていた。
布の下には、白布に包まれた屍体が一つ、横たわっている。顔はまだ布で覆われたままだ。
「何かわかったか」
グレイヴスが低い声で尋ねると、ルツは深々と息を吐いた。
「生前の〈終末保全〉なんて今さらよね。課長が欲しいのは、処置の実態──つまり、生前にどんな加工が行われたかでしょ。で、結局、何が知りたかったわけ?」
「それを言ったら、結論ありきで検分することになるだろう。犯人が自白した後で被害者を解剖したらなぜか裏付けがぼろぼろ出てくるようにな」
「そりゃそうだけど、こっちも忙しいわけ。――ま、いいけどさ……」
ルツは屍体の喉元まで白布をめくった。顎の下から胸元にかけて切開され、皮膚と筋が左右に退けられている。のどの奥を通って肺へ続く一本の管――気管が、むき出しになっていた。
気管は胸の中ほどで左右に分かれ、肺へ向かう。ちょうどその分かれ目、Y字の付け根に、擦れて煤けたような黒い痕が残っている。爪で引っかいた傷というより、何かが何度も触れてこすれた跡に見えた。
「これ」
傷と断定するには浅い。擦れの方向が揃っており、線の端が不自然に途切れている。偶然の接触ではなく、何らかの意図をもって施されたものに見える。
「これは刻印よ」
「〈終末保全〉の印だな」
グレイヴスが言った、そのときだった。
「皆さんお揃いで。さっそく補足が必要かな?」
軽い調子の声が、部屋の扉付近から割って入った。
入ってきたのは男――死霊術士のシュラウドだった。
黒いロングコートを着ている。片手にコーヒーの入った紙袋、もう一方には道具が収められた巻物のようなものを持っていた。顔つきは軽薄だが、足取りには無駄がなかった。
グレイヴスより早く、ルツが言う。
「死霊術の視点が要るかと思ってね」
シュラウドは肩をすくめて見せた。
「あー、初めまして? だっけ? 保全課長さん」
「五回は会ってるが」
「ありゃ」
シュラウドの視線が顔に止まったのは一瞬で、すぐ身体のあちこちに走った。
「あー、確かにね。この《痕跡》、見たことあるな」
死霊術士が、顔や服――外見の情報に無頓着なことに、ジェーンは薄々気づいていた。
代わりに、彼らは《痕跡》と呼ぶものを見ている。門外漢には《魂》と呼ぶほかない、本人を本人たらしめる手掛かりを。
屍体の身元が「確かだ」と言い切れるのも、この目があるからなのだろう。〈死者問答〉で拾う《信号》も、おそらく同種のものなのだ。
――だからこそ、バルドは、ジェーンが他者に行なった〈憑依〉にも一瞬で気づいた。
「で、何をしに来た」
「仕事さ、もちろん! その前にコーヒーはいかがかな」
グレイヴスが片眉を上げるが、何も言わなかった。安置室や処置室で飲食は大問題だが、ここは検分室だ。特定のエリアでは飲食が認められており、シュラウドはそのエリア内に収まっていた。
その直後、もう一人がゆっくりと入室してきた。
死霊術士のサウィンだった。帽子を外し、無言で壁際に移動した。疲れているように見えたが、視線だけは真っ先に屍体へ注がれた。
グレイヴスは無言でコーヒーを手に取る。ルツもそれに倣った。
シュラウドがふとこちらを見てにっこり笑ったので、ジェーンはあっけに取られた。
「で、ジェーンちゃんにはこれ~」
懐から丸缶を取り出して、開けた。青い花の香りがふわりと広がる。缶のなかには、紫色の小さなものがぎっしり詰められている。
「わたし、食べられないけど……」
「香りが強いからね。口に入れてみるといいよ」
一枚つまむと、その形がよくわかる。分厚い硬貨がひしゃげたような形をしていた。
口を開けて奥に入れてみる。彼女の口に粘膜はない。ただスミレの砂糖漬けがそのまま、小さな空洞に収納されただけだった。だがジェーンはそこから漂う香りの強さに驚いた。
「すごい。香袋みたい」
「詩的だね~」
まったくそう思っていなさそうな口調で応じるシュラウドを横目に、サウィンが三枚をそれを横からつまみ上げ、コーヒーの中に落とす。そして、マドラーで淡々とスミレを潰し始めた。このお菓子をただの香りつきの砂糖としかみなしていないらしかった。
「で、その屍体に刻まれた刻印を見ればいいんだよね」
シュラウドは笑いながら、道具巻きを開く。中にはペン、細い瓶に入った魔法インク、薬剤の小瓶、定規、刷毛、蝋などが整然と並んでいる。彼は刻印にルーペを当て、ピンセットの先で表面を慎重になぞった。
「死霊術士の印ってのは、普通は《描く》んだよ。フリーハンドで。だから見習いは毎日――」
「要点を言え」
グレイヴスが静かに噛みつく。シュラウドはからからと笑って、肩をすくめた。
「はいはい。つまりね、これは《描いた》線じゃない。薬剤を染み込ませるタイプだよ。下手がやるとムラになるけど、上手いとこうやって模様すら描ける。――制御が得意ですって手口だよね」
「つまり、召喚術が使われてるって言いたいわけね」
ルツがあきれた様子で言うと、シュラウドは喉元の《痕跡》を指して、円を描くように空をなぞった。
「そりゃあね~。治癒院の召喚術士って、薬剤や術式の広がりを設計どおりに再現するのが仕事だろ? そういうのって監察医さんの領分じゃん」
「まあね。あたしは屍体しか見ないけど」
ルツは短く同意して、続ける。
「でも、こんなこと、生者相手にやる理由はないわよ。薬剤を回すだけならともかく、皮膚を切開して刻印するなんて、治療なら最終に近い手段なんだから。しかも目的が《治癒》じゃないんでしょ」
グレイヴスの視線が、痕跡の中心に固定された。
「生きてるうちに、屍体用の処置を施してるってことか」
「そ~。これは屍体にやるもんだよ。ゾッとするね!」
会話を聞きながら、ルツは検分票を持ち上げる。そこにはすでにびっしりと記載があった。
「この刻印には、銀が使われてる」
シュラウドが小さく口笛を吹いた。
「銀かあ。銀は腐敗防止にも使うけど……死霊術の流れを乱す作用もあるんだよねえ。だから、古いっていうか。連鎖反応が怖いよね」
ルツは喉元の痕跡を示した。
「腐敗防止目的なら、塗る場所も量も違うと思うけどね」
横でずっと見ていたサウィンが、ぽつりと低い声を落とした。
「印は声帯と、気管が左右に分かれるところにある。声が生まれる場所と、息が肺へ届く道の要所だ。〈死者問答〉の反応も、そこを通さなきゃ出せない。その流れが潰されてる」
グレイヴスが静かに言葉を継いだ。
「そこが潰れると、どうなる」
サウィンは苦い顔で黙っていたが、シュラウドがのんびりと言葉を引き取った。
「そりゃ、喋れなくなるんじゃない? 《出力なし》みたいに」
ルツは首をかしげる。
「じゃあ何? 《出力なし》は体質じゃなくって、加工によって作られた可能性があるってこと?」
その言葉が落ちた瞬間、ジェーンの中で思考が止まった。
証拠はまだ足りない。想像の域を出ない。だが――
《出力なし》は、作られている。




