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アンダーグラウンドへようこそ  作者: 遠野 文弓
第三章 死者蘇生(リザレクション)

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62.九分間

 バルドは、手袋を脱ぎ、儀式の準備が整ったことの合図代わりに、手を一つ叩いた。

 感触が軽い。自分の手じゃないみたいだ。


 この場において、祭壇の上にある肉体だけが清廉である。

 死んでいるなら、無条件に保護されるべき被害者である。

 だが今日、バルドはその前提を裏返しに来た。


 施行の「成功条件」は、対外的な本人確認が成立すること。つまり、その個体が、以前のそれと同一人物であると()()()納得する形で証明できればいい。


 ——成立しなかったら?


 本人ではないと判断された場合、その対象はもう一度、廃棄されるのだろう。

 バルドは、その理不尽さに怒りを覚える。


 同時に、()()()()()()()()()()()

 その矛盾が、彼を術者としてこの場に立たせていた。


 過去の会話が脳裏をよぎる。


『母は、子に何を与えると思うね?』

『生命だろ。死ぬ権利って言ってもいいけど』

『違う。憎む権利だ』

『はあ? 飛躍しすぎだろ』


 飛躍ではない。

 今のバルドには、その意味がはっきりわかる。


 生命を与える。それは、怒りの権利を与えることだ。存在を受け取った者が、存在することそのものに傷つき、怒り、拒絶し、あるいは殺意を抱く可能性を許容することだ。


 ——生を()()には、まず生を()()しなければならない。


 生を否定したら、生についての問いは宛先を失う。「生まれるべきか」「自死するべきか」など、立ち上げることさえできない。

 残るのは、欠落を何で埋めるかだ。――倫理か、共同体か、偶然か。どちらにせよ、もはや同じ問いではない。


 死者蘇生は生まれ直しの儀式だ。

 生まれなければ、死ぬことはできない。

 死ぬためには、生まれなければならない。


 この捻れはもはや理屈ではなく、骨の奥に沈んでいた。

 いちいち言葉にしなくてもよかった。身体のすべてで、それを理解している。



 バルドは指先で床の刻線をなぞった。円の中に符号が刻まれている。

 そのうち一つだけ、順番を外して指を戻した。ほんの一画。線を消す。


 ――誰にも気づかれない程度に。

 この空隙(すきま)に、もう一つ分の術を差し込める。


 途端に、空気の温度が一段落ちる。()()()()に引き寄せられる。



 バルドは、静かに詠唱をする。言葉のひとつひとつに反応するように、心電計の直線が、かすかに揺れる。


 蝋の温度と粘りを確かめるために、指先で押す。脂肪を捏ねるような感覚が返ってきた。



 そして、バルドはコンスタンティノス・アルギロスの胸に手を置いた。皮膚の冷たさは、死そのものの温度だった。

 術式は感情ではなく、手順で行う。

 だが、バルドは感情を切り離さない。怒りだけを選び、それを刃として握る。



 心電計が再び動く。今度は揺れではない。小さな、しかし確かな波形が現れる。


 対象の胸が、ほんのわずか上下する。

 空気が、喉を通って入った。

 生の兆候。


「……息をしたか」


 ()()()()。乾いた笑いが漏れそうになるのを噛み潰す。


 対象の目蓋が震え、目がうっすらと開く。焦点は合っていないが、明確にこちらを見た。何の感情もない。ただ視線だけがあった。バルドはその目を、まっすぐに見返した。


 すぐに視線を切り、金属トレーへ手を伸ばす。銀色の小瓶が一本。

 鎮静剤だった。

 注射器に吸い上げ、針先の気泡を抜く。針を対象の皮膚へ埋めて、薬液を流し込む。波形が緩やかに落ち着いていく。


 眠らせた。


 ベッドの上の口が、わずかに動く。言葉にならない息。肉が、ただ動く。

 動くものを――生きているものを目にするたび、怒りは濃くなる。


「ぼくも寝る。おまえのせいでな。せいぜい、いい子で肉袋をやってろ」


 自分はもう、清廉な立場にはいない。

 手はすでに汚れている。


 ――であれば、今さら何をしたって、構わないはずだろう。


 バルドは静かに笑った。


(……「お前こそ論理が飛んでる」って怒られるだろうか。言い訳に使ううんじゃない、って言うかもしれないな)


 バルドは、ゆっくりと思考を走らせる。

 監理係は、淡々と確認した。


『――。――?』


 監理係が何か言っているが、やはり聞き取れない。言葉が耳に届く前に、音がほどけて消える。


 感覚が現実を拾わなくなるのではない。逆だ。拾いすぎて、処理が追いつかなくなる。匂いと音と光が、同じ重さで押し寄せてきて、意味が押しやられている。


 脈は遠く、耳鳴りがする。指先が冷たい。背中が薄く汗ばむ。視界の縁が白く滲んだ。


 ゆっくりと床に座る。くるぶしから下は冷え切ってもう感覚がない。

 頭がぼうっとしてきた。何もかもが、白い靄に見える。


 もはや視界は、この世のものではなかった。

 そして、〈死者蘇生(リザレクション)〉の代償――数日間の仮死。


(安心しろ、婆さん。言い訳にはしない。これは、ぼくだけの怒りだ)


 バルドは、死者の味方をすると決めている。

 死んでしまったのならば、それは無条件に世界の被害者だからだ。


 しかし、蘇ったら――生を再び手に入れたならば、その身分も終わる。

 誰かの死を作る()()()として、正式に裁ける形に戻せる。


 そして、口を動かさずに言った。

 誰にも拾われないように。だが、自分の胸には確実に刻まれるように。


 ——これで、()()()()()()()()()

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