62.九分間
バルドは、手袋を脱ぎ、儀式の準備が整ったことの合図代わりに、手を一つ叩いた。
感触が軽い。自分の手じゃないみたいだ。
この場において、祭壇の上にある肉体だけが清廉である。
死んでいるなら、無条件に保護されるべき被害者である。
だが今日、バルドはその前提を裏返しに来た。
施行の「成功条件」は、対外的な本人確認が成立すること。つまり、その個体が、以前のそれと同一人物であると他人が納得する形で証明できればいい。
——成立しなかったら?
本人ではないと判断された場合、その対象はもう一度、廃棄されるのだろう。
バルドは、その理不尽さに怒りを覚える。
同時に、待ち遠しくてたまらない。
その矛盾が、彼を術者としてこの場に立たせていた。
過去の会話が脳裏をよぎる。
『母は、子に何を与えると思うね?』
『生命だろ。死ぬ権利って言ってもいいけど』
『違う。憎む権利だ』
『はあ? 飛躍しすぎだろ』
飛躍ではない。
今のバルドには、その意味がはっきりわかる。
生命を与える。それは、怒りの権利を与えることだ。存在を受け取った者が、存在することそのものに傷つき、怒り、拒絶し、あるいは殺意を抱く可能性を許容することだ。
——生を憎むには、まず生を肯定しなければならない。
生を否定したら、生についての問いは宛先を失う。「生まれるべきか」「自死するべきか」など、立ち上げることさえできない。
残るのは、欠落を何で埋めるかだ。――倫理か、共同体か、偶然か。どちらにせよ、もはや同じ問いではない。
死者蘇生は生まれ直しの儀式だ。
生まれなければ、死ぬことはできない。
死ぬためには、生まれなければならない。
この捻れはもはや理屈ではなく、骨の奥に沈んでいた。
いちいち言葉にしなくてもよかった。身体のすべてで、それを理解している。
バルドは指先で床の刻線をなぞった。円の中に符号が刻まれている。
そのうち一つだけ、順番を外して指を戻した。ほんの一画。線を消す。
――誰にも気づかれない程度に。
この空隙に、もう一つ分の術を差し込める。
途端に、空気の温度が一段落ちる。あちら側に引き寄せられる。
バルドは、静かに詠唱をする。言葉のひとつひとつに反応するように、心電計の直線が、かすかに揺れる。
蝋の温度と粘りを確かめるために、指先で押す。脂肪を捏ねるような感覚が返ってきた。
そして、バルドはコンスタンティノス・アルギロスの胸に手を置いた。皮膚の冷たさは、死そのものの温度だった。
術式は感情ではなく、手順で行う。
だが、バルドは感情を切り離さない。怒りだけを選び、それを刃として握る。
心電計が再び動く。今度は揺れではない。小さな、しかし確かな波形が現れる。
対象の胸が、ほんのわずか上下する。
空気が、喉を通って入った。
生の兆候。
「……息をしたか」
やっとだ。乾いた笑いが漏れそうになるのを噛み潰す。
対象の目蓋が震え、目がうっすらと開く。焦点は合っていないが、明確にこちらを見た。何の感情もない。ただ視線だけがあった。バルドはその目を、まっすぐに見返した。
すぐに視線を切り、金属トレーへ手を伸ばす。銀色の小瓶が一本。
鎮静剤だった。
注射器に吸い上げ、針先の気泡を抜く。針を対象の皮膚へ埋めて、薬液を流し込む。波形が緩やかに落ち着いていく。
眠らせた。
ベッドの上の口が、わずかに動く。言葉にならない息。肉が、ただ動く。
動くものを――生きているものを目にするたび、怒りは濃くなる。
「ぼくも寝る。おまえのせいでな。せいぜい、いい子で肉袋をやってろ」
自分はもう、清廉な立場にはいない。
手はすでに汚れている。
――であれば、今さら何をしたって、構わないはずだろう。
バルドは静かに笑った。
(……「お前こそ論理が飛んでる」って怒られるだろうか。言い訳に使ううんじゃない、って言うかもしれないな)
バルドは、ゆっくりと思考を走らせる。
監理係は、淡々と確認した。
『――。――?』
監理係が何か言っているが、やはり聞き取れない。言葉が耳に届く前に、音がほどけて消える。
感覚が現実を拾わなくなるのではない。逆だ。拾いすぎて、処理が追いつかなくなる。匂いと音と光が、同じ重さで押し寄せてきて、意味が押しやられている。
脈は遠く、耳鳴りがする。指先が冷たい。背中が薄く汗ばむ。視界の縁が白く滲んだ。
ゆっくりと床に座る。くるぶしから下は冷え切ってもう感覚がない。
頭がぼうっとしてきた。何もかもが、白い靄に見える。
もはや視界は、この世のものではなかった。
そして、〈死者蘇生〉の代償――数日間の仮死。
(安心しろ、婆さん。言い訳にはしない。これは、ぼくだけの怒りだ)
バルドは、死者の味方をすると決めている。
死んでしまったのならば、それは無条件に世界の被害者だからだ。
しかし、蘇ったら――生を再び手に入れたならば、その身分も終わる。
誰かの死を作る加害者として、正式に裁ける形に戻せる。
そして、口を動かさずに言った。
誰にも拾われないように。だが、自分の胸には確実に刻まれるように。
——これで、殺せるようになった。




