61.儀式の準備
「……ダイヤモンド化の代償は、『肉体の炭素の減少』か?」
「そうだよ」
シャガは小さく首をかしげたが、取り立てて隠すことでもないらしく、さらりと答えた。
バルドはうなずく。
「わかった。――伝言を頼まれろ。無事に戻れたらでいい」
「はー? そんな義理はないけど」
「おまえが死んだら、ぼくがおまえの伝言を届ける」
シャガは胡乱げな視線をよこしたまま、黙っている。
バルドは平然と続ける。
「炭素が減ったら、身体が物理的に崩れやすくなる。そういう患者の延命をしたことがある。――現に、前任者は死んでるだろ」
「ああ……ネクロマンサーって、もともと治癒師だっけ」
舌打ちでもしそうな表情で、シャガがつぶやく。
「死後資産管理局・保全課のグレイヴスに伝えろ。『《出力なし》は生前の終末保全から、《随行資産》の件は変成術から洗え』とな」
「二人とも死んだら意味ないじゃん」
「そうなったらしょうがない」
バルドはまっすぐ見つめた。
「おまえの遺言も言え」
「言うわけないじゃん。遺言ってのは相手を選ぶもんなの」
「そうやって、みんな黙ったまま屍体になったが」
ありふれた言い回しだ。一般論のはずだった――死霊術士の口から出てくるものでなければ。
みんなという声色に、実在の名前が何百もあった。
シャガは一瞬だけ目を逸らした。だが、すぐにバルドを見返す。強い意思の灯った目で。
「いやだね。どうしても聞きたければ、死んでから〈死者問答〉しな」
「……わかった」
バルドはうなずいて、ゆっくりと扉を開けた。
扉の先に点滴台を押しやり、管が引っかからないよう、腕を一度持ち上げて通す。
背中で静かに扉を閉める。
廊下の突き当たりに、もう一枚、扉があった。
プレートは《儀式室》。その下に短い注意書きが貼られている。
《反動抜き未完了者の入室は、監督官の許可を要する》
バルドはそれを一瞥しただけで、踵を返した。
儀式には、もう少しかかる。変成術士がダイヤモンドの粉を揃えれば、死者の蘇生が成せる。
*
「魔術反動チェック、正常です」
声が頭上から降ってくる。バルドはベッドから身体を起こした。
職員が、点滴の接続部に指をかけた。
「点滴、外しますね」
バルドは拒まない。透明な管が抜け、腕に小さな痛みが走った。すぐに止血パッドが貼られる。点滴台は壁際へ寄せられた。
「監督官の許可は下りています。こちらへ」
ダイヤモンドの粉は用意できたらしい、とバルドは心の中で思う。短くうなずいてから、職員の後ろについた。
廊下の突き当たりに、昨日見た扉の前に立つ。
儀式室。
重い扉を押し開けると、蝶番が軋む。消毒液の匂いがふっと後ろに退き、焦げた蝋の匂いが前から来た。背後で扉が音もなく閉まる。
バルドは、目の前の祭壇を見た。
祭壇の上には、コンスタンティノス・アルギロスが横たえられていた。見えるのは顔だけだ。喉元まで白布がかけられている。皮膚は冷たく白く、終末保全の痕跡が整っていた。
美しい仕上がりだった。
だが、それは死者の尊厳のためではない。
管理しやすくするために手を入れられた屍体。
それをわかっていながら、美しいと感じる自分が不快だ。
ガラス越しに男が立っている。監理係だ。声はやわらかい調子を取っているが、語尾は固い。
『準備に必要な時間は?』
バルドは頷きもせず、声だけを返した。
「触媒と儀式の場さえ用意できれば、すぐにでも。知ってるだろ」
監理係の眉は動かない。
*
床に円を引いて、呪文を一本ずつ丁寧に刻む。
次に、蝋を小鍋に移し、弱火にかける。焦げる手前の匂いが立つ。そこへ薬草を混ぜる。だが、薬草は最後に入れると決まっている。火を通しすぎると蝋が濁ってしまうからだ。技術的な理由だ。
だが本当は、それだけじゃない。
薬草を入れたら、儀式は始まってしまう。最後に投入する。その工程は、直前までやめる余地を自分に残すようだった。形式上でも逃げ道があれば、自分を騙せる。そうしないと、手が止まってしまう気がした。
ガラス越しに映る監理係の顔が、反射して二重に見えた。
『資材の取り扱いに支障はありませんか』
「支障はない」
答えは簡潔に済ませる。監理係の見た目は人間だったが、吐かれる言葉には相変わらず人間らしさがない。
遮光瓶を素早く開ける。注射器を差し込んで必要量だけ分注し、瓶口を拭って、すぐに封を戻す。手元の記録簿を開いて、ペンを走らせる。日時、担当者、使用量……。一つずつ、項目を埋めていく。
『薬剤の開封ログは記録済みですか』
「記録済みだ」
声は冷たく出た。手も落ち着いているように見える――ように、動かしているだけだ。
注射器の扱い、蓋を締める動作、ペンの走らせ方。一つひとつの動きが慎重すぎて、かえって露骨になる。
己の死を目前にしたものの怯えが、所作の端から滲んでしまう。
コンスタンティノス・アルギロスの顔を見ながら、彼について知っている情報を断片的に思い出してみる。思考が勝手に接続する。書類の記述が、目の前の肉体に重なる。
病死。急性心筋梗塞。生前終末保全済み。名は立派で、政治の匂いがする。ここにあるのは名ではなく、肉体だ。紙の都合で動かされる肉塊にすぎない。
視界が一瞬、ぐらりと揺れる。
あれだけ慎重に抜いたはずの反動は、儀式を進めるほど、急速に蓄積していく。
ガラスの壁に反射する自分の姿を見る。
判然としない。どのような顔をしているのかわからない。ただのっぺりとした袋を被っているような、赤みがかった灰色のかたまりが動いている。
贄の一つとして、術者の身体の一部を要する。自分の指にナイフで切り傷を付ける。思いのほか切り過ぎて、皿が真っ赤になってしまった。
問題はない。痛みはない。ただの贄に精密さが求められることもない。
反動が、薬の膜を押し破っている。感覚が、現実を拾わなくなる。
生者の理屈が遠のく。別の世界が立ち上がり、死がまた一歩近づく。
死霊術のリコイル――《感情鈍麻》とは、つまるところ治癒師が用いる言語体系に合わせただけだ。死霊術士にとってそれは、個々の癖のままに編まれた死後の疑似体験だった。
『――。――?』
何を言っているのかわからない。あれは、祈りではない。
感覚が鋭くなっていく。視界はどんどん冴えていく。
物音が増える。小さな気配もわかる。監理係の呼吸の音さえ聞こえる。口元が動くと、その言葉より前に喉の振動が見えた。中身のぎゅうぎゅうに詰まった袋の口が小さく開いて、はくはくと動く。
監理係が窓に手をついた。べた、とガラスに肉袋の端が二つ、張りついた。丸くて、赤子の頬のように柔らかそうだった。
コンスタンティノス・アルギロスの身体を覆う白い布を取り払う。脈拍と呼吸を測るための電極を貼り付け、心電計に繋ぐ。心電計は沈黙を貫いていた。
どろどろに溶けた脂肪みたいな蝋に、薬草を投じる。
〈死者蘇生〉は成功する。あいつらの基準に当てはめれば。
*
――報告します。
準備工程中、規定上の異常はありませんでした。
術者には独語と感情鈍麻が見られ、現在、定型確認への有意味な応答はありません。
ただし、詠唱は途切れておらず、工程の順序も崩れていません。停止条件には該当しません。
以上です。
ガラス越しに、監理係は声を発する。
『――そのまま続行しろ』




